014 唐人屋敷の攻防②
完全に舐められている。
こちらが幕閣の意向を背景とする国家利益の代弁者としてここにあることを理解しているはずなのに、いけしゃあしゃあとおのれの個人利益の誘導を当たり前のように行い……いまもなおテーブルを叩かれたことに少し驚いたという程度で、やはり毛ほどにも悪びれていない。
颯太たちは、国土は小なりとはいえ約3000万人(幕府の把握する総石高が約3000万石)の大人口を抱える一大国家の、二百有余年も続く安定した武力政権の代表なのである。徳川旗本だけでも公称八万騎……将軍がその気になればすぐにでも数十万の兵を動員できる巨大な暴力が颯太たちの背景にはある。
その交渉代表を前に、『悪質』な取引を持ちかけてなお平然としていられるということは、つまりは幕府をまったく恐れていないと言うことに他ならない。
天地会なる裏組織がどれだけ力を持っているのかは知らない。
鄭士成個人がどれだけのコネクションを清王朝に築いているのかも知らない。
アジアならばどの土地に行っても、それらの権勢を見せびらかせばどうとでも好きなように相手を踊らせることができたのだろうとはいえ。
(…一発かましとくか)
颯太は圧力のこもった眼差しを鄭士成に向けた。
こういうのは最初が肝心。
とくにあちらの大陸ずれした厚かましい商人であるのならばなおさらのこと。
先に『悪質』と颯太が断じているのにはわけがある。
(こいつ、都合の悪いことは握りつぶすつもりだしな)
鎖国を建前上堅持せねばならない幕府と、戦争中で自国旗を立てただけで通商破壊されかねない露西亜との間で、取引の代行者が必要になった流れは仕方のないことだと思う。
流れは分かるのだが、日露両当事者が直接やりあわないという第三国を交えたいびつな三方交易が、取引する品物についての瑕疵や時と場合の責任の所在、賠償の規定等々、突っ込んだ議論もないままに稼動を始めるなどというのはまず持ってありえない。露西亜はこの清国人にいろいろな要望、条件等々を託しているはずであり、それに対する幕府側の応答内容もしっかりと持ち帰るよう指示しているはずなのである。
国交のない国同士なのだ、颯太だってこの初めての接触ですぐに取引が始まるなどとは期待してはいない。それだというのに。
当然あってしかるべき両国の『確認すべき取引条件』の説明をこの男は全くすっ飛ばそうとしている。
先に「紅毛人との取引は騙される」とおのれの口で言っていた男が、実際には颯太らを『商売のド素人』と見下してだまくらかしに来ている。互いに信用を形成していくために積み重ねていかねばならない申し送りのやり取りを、この男は握りつぶしたうえで食い物にしようとしている。
日露両国は取引を秘密裏のものとして扱おうとしている。ゆえに、この商人に白羽の矢を立てた露西亜スイビーリ総督は、商売上の不便を別の形で供与しているに相違なく、その『駄賃』もちょろまかしたうえに、颯太ら幕府側もたばかってさらに利益を盗もうとしているのだ。
「鄭士成どの……いや、敬称をつけるのももはやばかばかしいな……おい、クソ商人」
颯太の態度が突然豹変したことに庫之丞は唖然としているが、さすがは仕事に徹することを知っている後藤さんの反応は違う。颯太の目配せにすぐに応じて、腰の得物の鯉口を切った。そこで庫之丞も慌てて臨戦態勢に入る。
鄭士成もそこでようやくまずい流れであることに気付いたようだ。
「こともあろうに御公儀をたばかろうとするとは、少々驚きました。…なかなかいい度胸だといいたいところだけど、ちょっとばかりやりすぎでしたね。それほどまでにわれらが騙しやすそうな馬鹿に見えましたか」
「陶林様…?」
「武士を愚弄した罪、その身で贖ってみますか?」
国内大徳川の治世では、腐っても鯛、身分制度上は貴族と呼んで差支えない武士をもしも庶民が愚弄したとすれば、即刻切り捨てられてもまったくおかしくはない。
大陸ではまた違う価値観が支配しているのかもしれないが、ここは江戸日本である。たとえここが唐人屋敷の清国人が多くいるエリアであったとしても、国全体で見れば体のホクロ一点ぐらいなものにすぎない。純然たるアウェーで、このクソ商人は『天地会』とかいう暴力装置の性能を過信しすぎた。
本国でどれだけの構成員がいようと、ここでは大徳川という巨龍を前にした鼠一匹でしかない。
「突然何をおっしゃるのか、当方には皆目…」
「こたびの徳川と露西亜帝国の取引に、あんたらが口出ししてよいことなど何ひとつ微塵もないのです。期待されてる役どころをわきまえなさい、と言っているのです」
背景となる暴力の圧倒的な差が、颯太の言葉に隠然たる力を添える。
信用ならないと判断した相手に穏便に話して済まそうとするのは、海外では全くとは言わないけれどもまず通用しない。相手のこわもてにビビッて大損する会社がいかに多かったか、前世のおっさんは知っている。役人の汚職まみれで倫理観が崩壊している当世の清国人に、契約とか約束とかははなはだあてにならないのだろうと思う。
太平天国の乱は、起こるべくして起こっているのだ。
「露西亜国からこちらに、何か申し渡しのようなものがあるはずです。あちらとのつながりがあんたを通したものだけと信じているのならまったくおめでたいですね。…この期に及んでまだわれらを無知者と愚弄すると申すのなら、この場にて…」
最後までは言わない。
ただならぬ気配に、隣の部屋など物陰に潜んでいた鄭家の郎党が手に手に得物を構えて姿を現した。相手を信用していないのはあちらも同じらしい。
いよいよ抜刀しそうになっていた後藤さんを制止して、颯太は相手の目線より高い位置を求めてテーブルの上ににじり上がる。そしてちんまい子供が胸をそらせて異国人の男を上から睥睨するという光景が完成した。
おのが身ひとつを賭けて、ここまで這い上がってきた颯太の肝っ玉は、すでに見かけとはかけ離れている。下手をすれば死ぬかもしれない……それがどうした! と突っぱねられる向こうっ気の強さ。
「やりますか? 本気で」
「………」
「『天地会』? それがどうしましたか。やり合いますか」
「まあ、その、…少し落ち着かれては」
「この一帯、なんなら明日にでも更地にしてさしあげてもいいのですよ? 近隣の諸藩に命じれば簡単です。…そんなことしたら清国の荷が滞って長崎の取引商人たちが困るとでも言いたそうですが、んなこたあお上の知ったことじゃないんですわ! うちとそちらとの交易の程度なんかいまじゃ多寡が知れてますし、そちらの『割り当て』を阿蘭陀や列国に付け替えてやれば向こうも泣いて喜ぶんじゃないでしょうかね!」
幕府が特例的に認めているとはいえ、基本鎖国であるこの国に中国船が持ち込みを許された量などわずかなものである。通商停止で困る商人もいくらかはいそうではあるのだけれども、いま幕府が心底欲しがっている先進の品を中国船が持ってくるわけではないので、制裁ともなれば幕府が躊躇する必要などないのである。
「あなたが相手にしているのはこの陶林颯太という取るに足らない子供なのではなくて、日の本、国そのものなのですよ。前王朝の明が滅んで逃げ込んできたあなた方の先祖を幕府は温情を持って迎え入れたようですが、それがいま仇となって返ってくるというのでしたら、恩知らずたちに対してそれ相応の態度をこちらも決めねばなりませんね」
「…お、お待ちを」
「この長崎から叩き出すだけでは物足らないので、露西亜国にもこちらから回状をまわしておきましょう。ついでに阿蘭陀と英吉利、亜米利加、葡萄牙、その他付き合いのある列国にも、鄭士成なるクソ商人が信用ならない人間だと触れ回っておいてさしあげます。いい機会ですから、知恵のたらない商売下手の東夷南蛮の下衆など相手などなさらずに、反乱に忙しい太平天国の方々と地道に商売してみてはいかがですかね?」
そこでようやく鄭士成の浮かせかけていた腰が沈んだ。
目線が合わなくなったので、颯太はしゃがみこむ。なおも顔を近づけられて、ついにさしもの厚顔商人もかなわないと白旗を揚げたのだった。
一族郎党がボーリングのピンみたいにずらりと並んで、膝をついて深々と陳謝した。
「実はあなた様の人物を見るために無理難題を」とかTHE言い訳的な世迷言を言い始めたのでさらに締め上げてやると、ようやくいろいろなことをゲロし始めた。
大方はまあ予想した通り。
露西亜のスイビーリ総督から、やはりというか通商の代行費用としてかなりのルーブルを事前に受け取っていたこと……そして取引が成功するごとにさらに報償が与えられる契約になっていたことなど。
露西亜側も取引については機密性が高いと判断していたようで、長崎~ニコラエフスクの直行便を想定していたのだろう。もう一方の当事者である幕府にも同様の報酬システムを作ることで機密性の高い特別便を囲い込み、往路と復路の代行料金を折半する形で対等に付き合いたいとの提案も、クソ商人はちゃんと書簡の形で受領していた。うっかり紛失していたと真顔で言い訳されて、颯太の握りこぶしが破邪のオーラをまとってぷるぷると震えた。
クソ商人のたくらみは、その後にさらにメインディッシュが待っていた。
本来ならば露西亜側からは担当官が随行するはずであったのだが、知恵のない倭寇など自分に万事ゆだねてもらえればいくらでも買い叩いて見せるとスイビーリ総督に豪語し、今回の『丸投げ』的な形に捻じ曲げてしまった容疑も浮上してきたのだ。もうめちゃくちゃです。
今回の結論としては、
結局、こいつらは信用するにまったく足らないという揺るぎない結論のもと、取引ごとにこちら側の武官を同行させること、露西亜もまた同じく監視体制を作ることを追加の提案として書状にしたため、あっちに持っていかせることにした。今回の長崎行も往復でロシアがルーブルを支払っているらしいので、彼らは残る半金を貰い受けるためにもスイビーリ総督のところに必ず戻らねばならないのだ。
邸宅を辞去する際に、颯太がそうそう忘れてたとばかりに小走りに顔色の悪い鄭士成を捕まえて、その耳元に何事か囁くと、相手の顔色がますます悪くなった。
庫之丞が顔をひきつらせつつ「何を言ったんです?」と問うてくるので、帰り際に道端の老婆から買い求めた揚げパンをかじりながら、
「いや、『まさか逃げないよね』って言っただけだけど」
「………」
歴史に名を残す偉人の子孫に、へいっちゃらで恫喝をかます6歳児に、庫之丞はもはやコメントもない。
えらい分家を持ってしまったと、おのれの家の行く末を真剣に案じる、気の毒な青年の姿がそこにはあった。