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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
194/288

012 鄭士成






近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目に、『国性(姓)爺合戦』というものがある。

後に歌舞伎にもなったことからも、相当に人気の作品であったようなのだが…。

その物語の主人公が、鄭成功という人。

十数万の義兵を率い、明王朝の復興に与し敗れた彼の波乱万丈の人生は、江戸初期の平戸で始まった。日明貿易商人の父と、平戸の有力者の娘との間に生まれた彼の活躍は、父鄭芝龍の勢力を引き継いだのちにとくに目覚しいものとなり、清王朝との対立と連戦、その敗北後勢力建て直しのために台湾を占領していたオランダ人を打ち払い、その地に国の基盤を築いた彼の功績は、のちに台湾の三偉人に数えられるほどのものである。

さて、いま目の前にいる貿易商人、鄭士成の『鄭』が過去の偉人のそれに由来するのかどうか、むろんのこと颯太にも判断のつかないことである。

なぜこんな話の振りで始まったのかというと、会話の始まりが彼の一族の自慢話であったからだ。華南の地、おそらくは福建省のあたりか、その一帯に一大勢力を築いた鄭一族は、古くは彼の鄭和にも続く名家であるとかないとか、聞く者を不安にさせるほど巨大な風呂敷が広げられていくところを想像してほしい。


(…もう茶がなくなったんだけど)


来るべき戦いに臨んで、神経を張り詰めていた颯太にとって、その冗長な祖先自慢は相当に有効な精神攻撃であったろう。さらには彼が笑顔をこわばらせている横で、庫之丞が自称歴史上の偉人の一族の話を目を輝かせながら傾聴したりしているのが更なる追加攻撃になっていた。


(わざとか? …わざとなのか)


顔を紅潮させて自慢話を語り続ける鄭士成に、こういう出鼻のくじき方もあるのかと、真剣に颯太は頭を抱えた。

鄭和とはむろん、ヨーロッパの大航海時代に数十年も先んじて行われた、明王朝の大艦隊による西洋下り……アフリカにまで及ぶ大冒険行の司令官を務めた人物のことである。

歌舞伎の演目にもなった鄭成功ばかりか、ヨーロッパ人の独善と貪欲さがあれば、世界史を大きく塗り替えたかもしれない偉業をなした鄭和さえも祖とする鄭一族……オレの血筋マジやばいぜ的な自慢話が語り終えられるまでに、小一時間ほどの忍耐を要したことをここに記しておく。それも自然に終ったわけでなく、話がひと段落しそうな気配を嗅ぎ取った颯太が、強引にインターセプトして流れを断ち切ったおかげであったりする。


「まだまだ話し足りないところなのですが……わが一族がいかに海運に通じているかを」

「いやいや申し訳ないですけど、われわれもそれほど自由な時間があるわけでもなく…」

「ははあ、それは残念でございます」

「おっしゃりたい真意はたぶん理解しましたので……まずはお茶のお代わりをいただいてから……本題のほうに移りましょう」


なかなか鬱陶しい自慢話ではあったのだけれども、そういう『振り』をあえて入れてきた相手の思惑は確固としてあるわけで、この場の交渉責任を負わねばならない颯太は忙しく考えをめぐらせている。

つまりは、鄭氏のDNA……当代清王朝と自分たちは微妙な距離感があるのだと前置きしたかったのだと推察する。

清王朝にとって外患のひとつである露西亜と内応している一点だけで、すでにこの男が当代王朝に忠誠心など持ち合わせていないことは明白である。その前提を踏まえての先ほどの自慢話……颯太の中の脈絡は繋がっていく。

台湾に拠って一大勢力を築いた鄭成功がその後どうなったのか、むろん颯太は詳しく知らない。明確な反抗勢力である彼らを、清王朝がそのまま放っておいたはずもなく、おそらくは根拠地たる台湾を早々に駆逐されていたに違いない。

明末の鄭成功の時代はもう200年も前の話だ。鄭一族が自身のDNAにかつての栄光を刻みつつ反清王朝であり続けているのだとしても、それをここで颯太たちにぶつけることにどれほどの意味があるのか。

露西亜との後ろ暗いつながりを徳川幕府に掴まれて彼は相当なリスクを負う羽目になるのだけれども、不思議なことにそうした後ろ向きな不安を彼の目のなかに見出すことは出来ない。

少しジャブを放ってみる。


「…清国にとって露西亜帝国は領土を争う外敵、そのきな臭い相手との取引をこうしてわれわれに明らかにすることは相当な危険を負うことになると思うんですけど、…わが国は清国とも定期的な取引があり、それなりにあちらとかかわりの深い人間も多い。やもすれば人の口に戸が立てられないという状況も大いに考えられるのですが」

「かまいません」


鄭士成は、よく日に焼けた顔にふてぶてしいまでの笑みを作った。


「公的に、ご公儀がその件について否定さえしておいていただけたのなら、下々の他愛もない噂程度はすでに織り込んでございます。ご心配いただいて恐縮ですが、問題はございません」


言い切りやがった。

現在の清王朝が貪欲なヨーロッパ列国に散々に食い物にされているとはいえ、その治安機構がまったくの機能不全に陥っているというわけでもないだろうに。


「唐土南方に大規模な騒乱が起こっているとうかがいますが、もしやその関係なのでしょうか?」


この商人の自信を裏づけしているなにかがあるのは間違いない。

颯太が試すように口にしたのは、幕府でもその動向が注視されている大陸の騒乱のことである。

太平天国の乱、といえば知る人も多いだろう。

アヘン戦争後の清国役人のあまりの腐敗と、目を覆うばかりの役立たずさに民衆が立ち上がった大反乱である。洪秀全を頭目としたこの乱は、清国南部に流行り病のように瞬く間に伝染し、手が付けられない様相を呈しているらしい。

その歴史上の大乱が現在進行形で起こっているというリアルに、颯太は鳥肌を禁じえない。


「…なかなかに慎重なお方のようですね。わたしの背後に何があるのかに興味がおありですか」

「ことがことだけにね。抜け目のないことで有名なあちらの交易商が絡むとあっては、なおさらです」

「いやはっきりと申される」

「大事な取引ですので、前もってそのあたりは納得できる程度の情報をいただきたい。交渉を始めるに当たっての絶対の前提です」


こちらは逃げも隠れも出来ない幕府の役人である。

こちらは逃げられないのに相手は出所不明で都合悪くなればとんずらできるなど、不公平もはなはだしいではないか。こういうことを軽視して取引など始めると、たいてい大損害をこうむったりするのだ。

幸いにしてこの日露取引は露西亜が前のめりであるので、最悪窓口の変更を要求しても問題は少ないだろう。窓口の男をすげ替えるだけで済むのだから、ロシア側もためらうまい。


「わが一族の生業は、その始まりから生粋の『商売人』でございます。たいそうなお題目を唱える傍らで、富家を目の敵にしてその財産を強奪していく匪賊のようにな手合いなど、商売の相手になどなりませぬ。あれらは食い詰めた貧乏人の集団です」


現地で当人たち相手にその暴言が吐けるのかどうかは知らない。

太平天国とまったくの無関係である外国人相手だからこそあけすけに嫌悪を示したのだろう。ほんとうに忌々しそうだ。


「天地会……この鄭士成の背景にあるものの名でございます」


ほとんど気負いのようなものもなく、鄭士成はつぶやいた。


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