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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
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012 唐人屋敷





徳川幕府の鎖国政策の始まりは、寛永16年(1639年)とされている。

当初貿易の商業的価値を理解していた家康は、鎖国などするつもりは微塵もなかったようである。

それは欧米側も似たようなもので、長い内乱の後に新たに生まれた統一商圏徳川日本は、貿易相手国として非常に魅力的に映っていたに違いない。

当時はオランダ以外にもイギリス、ポルトガル、スペインなども来航し、なかなかに千客万来であった。

が、状況が一変する。

それが寛永16年(西暦1639年)のことである。

『鎖国』という単語は知っていても、それが何ゆえ始まったのかの脈絡を知る人は意外と少ないように思う。歴史を流れとして捉えれば、何事にも原因が存在するもので、国の孤立さえ厭わないと幕府が激烈な決意を固めるに至るその根本原因というのが……実はあの『島原の乱』であったりする。

歴史好きの女性が黄色い声援を送る天草四郎時貞の名が盛大な花火となって打ちあがったその一大イベント……島原の乱が、幕府の逆鱗に触れてしまったのである。

ザビエルさんから続くキリスト教宣教師たちは、主にポルトガルさんが貨物と一緒に運んできていた。それで国内が大いに乱れたのである。幕府としましては、ざけんなてめえとなったわけで。

イギリスさんはなぜだか商売が赤字続きで先に撤退完了していたので、このときヨーロッパ組の有力交易国として残っていたのは、オランダさんとポルトガルさんの2ヵ国であった。

キリシタンたちの反乱が鎮圧されたのち、幕府は「ノー宗教、OK!?」と強面で回答を迫り、商況にあまり頓着しなかったオランダさんが残され、布教熱心の祟ったポルトガルさんは哀れ国外へと叩き出されたという顛末。

…これ以後を『鎖国』と呼ぶわけである。

『鎖国』は実は経済バリアではなく、本来は宗教バリアだったのだ。

ちなみに颯太の祖先となる林勝正公は、その島原の乱での幕府側軍監であり、こうして後裔たる彼が開国問題に大いに絡むのは歴史の皮肉なのかもしれない。




…さて、『鎖国』で海外交流が制限されていた徳川日本でありましたが。

オランダのほかにも、出入りを許されていた国が実は4つありました。

蝦夷のアイヌと琉球王国、李氏朝鮮……そして大陸に鎮座する中国王朝(明・清)……なかでも交易の盛んな相手国として、船員の一時滞在を受け入れざるを得ないオランダと中国は特に居留地が用意され、それが一方は『出島』であり、もう一方が『唐人屋敷』であったわけです。

『鎖国』は宗教バリアであるから、変な慣習(宗教)が自国民に広がらぬよう徹底した隔離が行われていたようである。滞在人員の少ないオランダ人には出島で充分(幕府的に)でしたが、そもそもオランダよりもずっと取引量の多い中国は近距離も合わさって滞在人数も多く、さらには明末の亡命者が多数転がり込んできていたので、その居留地も相当な規模のものが用意されていた。

練塀と水堀、空堀に囲まれたおよそ9400坪、2000人収容の長屋群……それが最初の『唐人屋敷』であった。むろん地元の大工さんが作ったやつなので、長屋は純和風である。

…が。


「おおっ! かなり中華街じゃんか!」


安政2年12月26日(2月2日)、『唐人屋敷』を訪れた颯太の第一声がそれである。

実は『唐人屋敷』は一度全焼していて、以後その居留地内では住人が自由に建物を建てられることになったらしい。囲う門塀は幕府管理なので和風を維持しているものの、住民たちがその美意識を遺憾なく発揮した建物群は、清々しいほどに中華している。

いまはお昼も過ぎてしばらくした未の刻(14時ぐらい)、『唐人屋敷』の正門は人でごった返していた。門の両脇には露天商の姿もあり、盛んに客引きするもの、がさつに笑い合うもの、洟をたらして走る童など、オランダの出島ではけっして見ることのできない、アジア的混沌がそこにあった。

役人が監視しやすくするためか、唐人屋敷の周囲は空き地にされ、ずいぶんと見通しがよくなっている。それゆえに唐人屋敷の正門から吐き出される人の流れが、目と鼻の先の人工島……出島と同じく人により造成された四角い島に続いているのがよく分かる。

聞くところ、その島は新地といい、やはり中国からの荷を隔離するために作られた倉庫島だったりする。岸壁にはいかにもなジャンク船が停泊し、荷を抱えた人足が群がっている。


「あれ全部清国人なのですよね?」

「あの服はそうでござろう。…林殿?」

「いや、ずいぶんと住人が自由に出入りしているな、と。出島の警備があれだけ厳しかったので、もしやこちらの警備番が怠慢しているのではないかと」

「たしかに……ほとんど素通りでござるな」


庫之丞と後藤さんが話しているのを後ろに、颯太は恐れ気もなく唐人屋敷唯一の出入り口である正門へと近寄っていく。こういう国際交流的な雰囲気に飲まれがちな彼らと違い、横浜中華街にでも遊びにきたかのような気楽さで異国文化の中に飛び込んで行ける颯太はやはり相当に奇異な存在であったろう。

通りかかる中国人たちの装束を物珍しげに見比べて、唐人屋敷の住人たちの生活レベルを推し量ってみたり、リアル辮髪(※ラーメOマンのモデル)に感心してみたり、雰囲気の楽しみ方からして違う。

後世の衛生・公衆意識の高さから来る無臭さ……いま思えば異常なほど生活臭のなかった前世の世界であったが……この時代の土地土地に由来するむせるような生活臭さえも、慣れてしまえば地域由来の個性として楽しみのひとつに出来る。

唐人屋敷の匂いは、人々の汗がかもす人臭さと、独特な香の匂い、そしてわずかな油の匂いだった。

正門に近付いたいかにも和服な一行は、すぐに役人の誰何を受けた。

むろん長崎奉行所からはお役人が同行していたので、入場の審査は至って形式的なものでしかなかった。通りすがる中国人たちから珍しいものでも見るように眺められながら、颯太一行は唐人屋敷の敷地内へと踏み込んでいく。


(いや、マジで中華街だわ)


正門となる正面の練塀はお城とかでも割と見るような造りで、潜るとすぐに二の門がある。正門と二の門の間の広場が、いわゆる空港の出入国管理ゾーンのようなものらしく、番方役人たちが目に付いた相手の簡単な荷改めを行っている。

おそらく大火後の再建時に、有力者がゴマすり半分で寄進でもしたのだろう、彼らの背後にある役人詰め所らしき建物が、ひどく中華風であったりする。

財政不足で詰め所の再建さえもままならなかったとはさすがに思いたくないが、正門の警備の甘さもあいまって、現地の中国人といろいろ公言できないような持ちつ持たれつをしている構図がすぐに思い浮かぶ。

大陸文化的な袖の下とかが蔓延してそうだな……颯太はアジア的バイタリティを思って少しだけ笑ってしまった。


(幕府の端役人を篭絡するぐらいはお手の物、ってか)


華僑のしたたかさは、いつの時代でも変わらぬ風景であるらしい。

二の門を潜ると、さらに濃い人の熱気に当てられて、颯太は瞬きした。

唐人屋敷の人口はおよそ2000とされているのだけれども、こっそりと出入りする怪しい住人が多すぎて、案内のお役人曰く幕府にもちゃんとした統計はないらしい。人混みの過密感が、絶対に実数は違うと颯太に囁きかけている。


(少なくとも倍はいるんやないのかな……うわっ、露店が並んでマーケットもあるし!)


二の門の先には、西側の塀沿いに敷地奥まで続く通りがあり、その両側に露店が並んでいる。突き当りには寺院らしき建物があり、どうやらそれが関帝廟的なものなのだろう。(※天后堂。颯太の勘違いで主に天后聖母(媽祖)を祭る寺院です)

干からびたばあさんが並べている揚げパンを見て昼を抜いている颯太のおなかがぐうと鳴ったが、大事の前のことなので努めてスルーする。

さて、くだんの露西亜の連絡係というのはどこにいるのだろう。物珍しげに魔窟(颯太主観)を見回しているところに、人混みの中から声が掛けられた。

見れば、若い男が手を振っている。


(あれか…)


男は足早に近寄ってきて、日本風に腰を折るお辞儀をして見せた。

袖なしの服から伸びる腕の筋肉がよく締まり、力仕事をもっぱらにするのだろう若者であったが、対応の丁寧さからよく教育されていることがうかがえる。

頭は辮髪でなく、伸びた髪を後ろで紐で括っている。…いちおう念のため言っておくが、唐人屋敷にいる人間のうち、清国ふうの辮髪はあまり多くない。明末に亡命して平戸に居ついた者たちの末裔ならば当然といえる。


「ヨウコソお越しくださいました。どうぞこちらです」


反射的に名乗ろうとした奉行所の役人を黙って手で制して、若者は目配せで察することを求めてくる。結局会釈しあっただけで、一行は歩き出した。

まあ颯太一行は旅装とはいえいかにも役人的な紋付姿なので、ほかの場所ならともかくここ唐人屋敷内では見間違いようもないのだが……ほかの住民たちに余計な情報を与えたくないのだろうと推察する。

颯太の中のおっさんは、生前OEM生産でのコストダウンを先達から指南され、何度か中国人エージェントと打ち合わせした経験があったりするのだが、彼らは世知に長け相当にしたたかである。工場の無学な労働者は別として、経営者クラスは真偽定かでない営業トークでこちらを軽く翻弄してくる。

先達いわく、「やつらは小狡いが、コミュ力は侮れん」だそうだ。

颯太は兜の緒を締めなおすように気を引き締めた。


(鬼が出るか、蛇が出るか…)


ありがたい前世の経験が颯太を確実に支えている。来るべき瞬間のために自分の中のスイッチを入れていく。

周囲の異国情緒に気圧され気味の同行者たちは、一番幼い颯太の小揺るぎもしない背中に精神的支柱を見出しているのだが、本人はまったく気付いていない。


「オブギョウショから特別な買い付け依頼、とってもありがたいです」


前を歩く若者が聞かせるともなくつぶやいた。

やや拙さのあるその物言いの、脈絡のなさに同行者たちはきょとんとしているが、颯太は相手の意図を汲んで応える。


「景徳の珍しい一品を特に所望される方がおられましてね。特に強い伝手がないと手に入らないと聞いたものですから、お手数をかけますが…」


唐人屋敷内に、ロシアの代理人が潜伏しているというのは、当然ながら公儀に責めを負う話になるわけで、鎖国下に特別に居留を許されている華僑の同胞に対してもけっして漏らせる類の話ではないのだ。

ただでさえ目立つ幕府の役人を屋敷の中に連れ込む前に、近所の住人たちに情報の煙幕を張っておきたい……そんなところだろう。

血の巡りの早い颯太に男は薄く笑って、屋敷のひとつに彼らを招じ入れた。

屋敷はまさに大陸風で、立派な門構えを潜ると小さな中庭に出て、その庭を囲むように部屋が配されている感じの造りだった。どこかで線香を焚いているのか、独特の香りがかすかに漂っている。

入口から見て正面奥が主人の部屋らしく、木戸を開けた先の廊下なのか部屋なのか定かではない狭い空間を通り抜けると、また奥に中庭が現れる。その中央に立って颯太たちを待ち構えていた身なりのいい男が、あちらふうの袖に手を隠した状態で恭しいお辞儀をした。


「お待ちしておりました。鄭士成(ていしせい)と申します。お役人様」


颯太は鄭士成と名乗った男の日に焼けた褐色の肌と、黒々と強い輝きを放つ双眸をじっと観察した。

ああ、こいつは現役の商人だ。颯太は心の中の気圧を一気に高めた。

そうして両者は会釈を交わし合い、肩を並べるようにして屋敷の奥へと入っていったのだった。


連日の更新でさすがに疲れて気ました。

1日2回、7時17時の更新にさせていただきます。

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