011 違和感
いま颯太は、出島のオランダ商人相手に根本新製の商談会(?)を堂々と行っている。
一般人には入ることさえかなわない禁足地に、幕臣という権力者側の一員として足を踏み入れ、本来的な任務を済ませたというのにまだ厚かましくもそこに居座り、私的な商談を行っている。
オランダ人たちはおそらくこれまでの交渉の流れの一環であると捉えているのだろう、彼の売り文句に真剣に耳を傾けてくれている。そして同席する川村永井の両要人は、仕方がない、これもまた国益に絡む阿部伊勢守の肝いりなのだろうと半ば諦観したような生暖かい眼差しで見守っている。
右も左も、後世の教科書にも載るほどの歴史上の人物である。
その彼らが、『和親条約』という一大歴史イベントのために集い、つい先ほどまでこの場で激しく議論していたのだ。その残り香のごとき熱気に当てられたのか……まだ真冬のことであるというのに、颯太は突然ぶわっと吹き出てきたいやな汗を、袖を当てるように軽く拭った。
(…部屋が暑いわけじゃないのに)
カーテンで機密性が上がっているとはいえ、暖房は火鉢ぐらいしかない部屋の中はそこまで暖かくはない。
狙い通りの展開に入ったことで、高ぶった気持ちが熱を呼んだのかもしれない、とそのときは思おうとしたのだけれども。
(…やばいな)
颯太は笑みを強張らせる。
おそろしく『歴史的』瞬間であるはずの場が、なぜか『混ざり物』に過ぎない彼の偉そうなセールストーク、大げさな身振り手振りに引きずられるようにして動いている。その現状の……ごまかしようのない『これじゃない感』。
ぺらぺらと自身でも滑りがよいと思うセールストークが、ひどく遠く聞こえてくる。
調子に乗って、歴史イベントすらおのれの成功の糧にしてやろうと、傲慢な思いあがりでこの場へと臨んでいた颯太であったが、チート知識がもたらした無敵時間が過ぎ去ったあと、予想だにしなかった賢者タイムが彼のなかに訪れていた。
(ハンパなく現実感がなくなってきたんだけど…)
『和親条約』の締結という重要な任務をようやく乗り越えて、人心地ついたのが原因であったのかもしれない。
にこやかに笑みを浮かべてオランダ人たちを誑し込んでいく颯太が、内心かなり動揺していることに上司たちは気付かない。ティーカップを持って見せる手がわずかに震えていることにも気づいてはくれない。
別段、颯太が異国人相手にビビッているというわけではない。それはいまさらである。
徐々にだが彼の冷静さを脅かしているものは、傍若無人に……まさにそういうしかない馬鹿者の無思慮さで……歴史的事象である『日蘭和親条約』をふっ飛ばして、あろうことか『安保条約』的なレベルにまでぶん投げてしまったおのれに対しての……歴史を踏みにじる行為に対する根源的な恐れであった。
その恐るべき暴挙も、この『大商談会』が開かれるための布石であったと言う超絶我田引水思考で行われたわけで、重要な高額取引であるとはいえほんとうにやってよかったのか……歴史改変……タイムパラドックスという破滅の起爆装置に触れてしまったのではないかという恐れに、彼はいまさらながら思い至ったのである。
(…やっちまったのか)
首筋の毛がちりちりと焼けるような感覚がある。
額に浮かぶいやな汗をしきりに拭いつつ、颯太はただ目の前の現実に没頭することしかできない。
確信犯的に、彼は歴史へと干渉した。
打ちひしがれている中身のおっさんのことなど誰も気づかないままに……商品のプレゼンテーションのあと、ひと組のティーセットが日蘭両者の間で授受され、握手が交わされた。
天領御用窯……彼の経営する製陶会社が初めて能動的に行った海外取引であり、根本新製が新たな販路を開拓した記念すべきその日……世界の歴史は改変された。
***
「…まさに、天狗の子よ」
全身にこもった熱気を発散しながら出島の門をくぐる三人。
オランダ商館長ドンケルクルシュース自ら彼らを送り出す役を努め、振り返った彼らに気さくに手を振って見せたりもした。
門番に会釈しつつ橋を渡る川村様が颯太の頭をがしがしと荒っぽく撫でて、
「われらが四苦八苦する山海などあくびしながらひとまたぎに飛び越えていってしまうのですから、さぞや気持ちのよいことでしょうなあ……小天狗殿」
そう嘆ずるように、川村様は白い息を吐いた。
橋のたもとで待っていた庫之丞と後藤さんがこちらを見て目を丸くしている。
長崎奉行と伝習所総監理……長崎でもっとも権威あるふたりに挟まれるような形で橋を渡ってくる颯太に気付いたのだろう。
行きは付け合せのたくあん程度の控えめな位置で二人についていった颯太が、帰りは真ん中を、それも横並びで歩いてきたのだから驚くなと言うほうが無理というものだろう。
颯太的にはFBIに連行される某宇宙人をイメージして嫌な顔をしているのだけれども、上司ふたりが肩を掴んで放さないものだからどうしても横並びになってしまう。おそらくは見送る者たちの目を意識して、意図して颯太を横並びさせたのだろう。今後のことを考えて、幕府高官とならんで歩く颯太の姿を出島の連中に焼き付けておきたかったのかもしれない。
「…しかしどえらいことになってしまったものだな。ここまで大事になってしまったら、われらのどちらかが直接江戸に上がって伊勢様にお伝えせねば格好がつくまい……おまえさんはいつごろ長崎での『別の所用』が済むのだ?」
考え込むように腕組みしている永井様が問うてくる。
颯太は少しだけ考えるようにしてから、
「10日は見といてもらいたいです」
「2、3日で済ませろよ」
「…無茶言わないでください。…それに帰りはまた美濃の窯に寄って行く予定なんですけど」
「…はぁ!? そのような悠長が通るわけあるまい! ことは国の一大事ぞ」
「ええー、でも…」
「そうやって童みたいな我侭を言うな!」
「…ちょっ、童ですけど」
伝習所総監理と言い合っている颯太のいらえに遠慮はもうほとんど残っていない。その親子のようなやり取りに後藤さんは苦笑しているけれども、庫之丞のほうはあっという間に上役と太いコネクションを築き上げていく颯太の抜け目なさにただただ瞠目するばかりである。
「…御役目のほうは、無事済まされたようで」
「いや、待たせたね後藤さん。はは……御役目が無事に『済んだ』かどうかはかなり怪しめなんだけど……それより奉行所に戻ったら別件で出るよ。お奉行様たちと必要な話を済ませたら、すぐに『唐人屋敷』に向かうし」
「唐人屋敷、でござるか」
「ぼくたちはこれからが本番なんやから」
露西亜帝国が密かに設置したという非公式の窓口が、明末の亡命者たちが押し込められた、『唐人屋敷』という名の中華街にあるのだという。シベリアを制して国境を接することとなったロシアと清帝国との間には、自然金と人の流れができつつあるのだろう。そこで生まれた交流が、同時に両国間の諜報という現象を励起する。
露西亜は清帝国に浸透すると同時に、ここ長崎にもじわりと手を伸ばしつつあるのだ。この時代の中華街のようすを想像して、肉まん売りに立つロシア美女を思い浮かべた颯太は、いやいやないないと打ち消すように頭を振った。
オランダ商館相手の根本新製取引はまだ種蒔きのようなものだけれど、こちらのロシアはすでにその段階を過ぎている。幕府が用意しえた小型帆船、君沢型スクーナーをロシアに売りつける大事な仕込みであり、世界的な金満王室であるロマノフ家とのパイプを確固たるものにする数少ないチャンスなのである。
(…今度はロシア、か)
歴史の水面に起こった激しい波は、まだ危険なまでに揺れ立っている。颯太は周囲をはばかりつつも、きりきりと痛み出したおなかをさすった。
すいません、リアルが忙しいので今日はここまでです。