010 日蘭和親条約④
第3ラウンドのゴングが鳴った。
『3R』と書かれたフリップをかざすラウンドガールが周囲をぐるぐると回っているのだが、むろんそれは颯太の脳内の映像でしかない。
幕府全権とオランダ全権が闘志を秘めた眼差しを交し合う。
「…われわれに、植民地人を追い返せと、そうおっしゃるので?」
「まあそうです」
「…そうですか。…これはさすがに当条約の全権をゆだねられている私といたしましても、二つ返事で応諾できる性質のものではございません。…ああバッスレーくん、いいかね」
悩ましげな表情を浮かべたあと、商館長は颯太に席を奪われていた助手のひとりに目配せして、すっかりと冷めたコーヒーをわずかに舐めた。
このあたりは阿吽の呼吸というやつだろう、助手が給仕の男に耳打ちし、それが伝言ゲームのように部屋の外の護衛らしき男たちに伝えられていく。どうやら部屋の外の警備を強化したようだが、もしかしたらこの警備の厳しい出島にもスパイが出入りしているのだろうか。
「あくまでもこれは『仮』のお話としていただきたいのですが…」
「そのつもりですから、お気兼ねなく」
「それでは恐縮ですが……仮にわれわれが用意できる軍艦を江戸の港に並べてあなた方の海防に合力したとして、果たして植民地人たちの艦隊を追い払うことができるのかどうか、…いろいろな状況を勘案しましても、かなり悲観的な結果となるだろうと前もって申しておきましょう」
まるで不合格が確定した面接者を見る人事担当者のように、その薄灰色の瞳が表面的な哀れみを持って颯太を見返してくる。遠回しとはいえ明らかにお断りをされているのだけれども、どっこい颯太の面の皮の正面装甲は厚い。
颯太は衝撃を難なくやり過ごして、構わずにじり寄る。
「…そのいろいろな状況、というのを、無学なそれがしたちにも分かるよう、お教えいただけませんでしょうか」
「ぜひとも、お伺いいたしたい」
颯太の問いに、川村様も乗ってきた。
こういう直截な質問に、当の列国のひとつであるオランダがその見解を示すというのは、なかなかにあるものではないからだ。
少しの間おのれのなかで以後の展開をシミュレートしたらしき商館長が、相手側の情報量を伺うように颯太を見てくる。どこまでいっても颯太が今回の急転の台風の目だと見定めているのだろう。
事態の仕掛け人である颯太もまた、この時代の詳細な情勢を知るわけではない。交渉の取っ掛かりになる情報をつり出すべく、相手の意表をつくいきなりさで商館長を躊躇させている核心部分に踏み込んだ。
「…それほどまでに、国力が違いますか」
「……ッ!」
「こちら側の記録に残っている入港記録から、貴国のこのぱしふぃっくおうしゃん(太平洋)での運用船数のおおよそは透かし見れるのですが……南方で展開している軍船を掻き集めても、植民地人の艦隊には太刀打ちできませんか」
まさに言い難いことをずばずばと。
国際情勢に疎いというよりもほとんど無知というべき幕府側から、このような突っ込んだ問いが発されるとは露ほどにも思ってはいなかったのだろう。
後世の歴史を知るがゆえの、まさにチート。
オランダの栄光と衰亡……大航海時代の未踏領域の分捕り合戦という黄金期が過ぎ、各国が他人の既得権益に手を出さざるを得なくなる後の血なまぐさい百数十年……いわゆる帝国主義の風潮が強くなる時代……血と汗と罵倒と騙し合いが交錯する西欧列強の栄枯盛衰はなかなかにドラマチックである。
颯太の中のおっさんがイギリス海洋小説の読者であったことも、今回の彼の強気に影響を及ぼしている。
国力、という言葉が上手く表現できないのか、通詞のうろたえたような視線が颯太を見返してくるが、商館長のリアクションを食い入るように見ている彼は気付かない。
「…いえ、けっしてあの者どもに遅れを取るようなことはございませんが、そういう意味ではなくて…」
「幕府の上にあがってくる報せは、なにも貴国のものばかりではないのですよ」
にこっと。
まさに悪魔……見る者には外道としか思われぬ笑み。
その瞬間、商館長ドンケルクルシュースの呼吸が乱れたのを、颯太は見逃さなかった。
「…なにも江戸の防備を貴国にすべて任そうなどと思っているわけではないのです。あくまでもわれわれの手の届かぬところへ、補完的に協力していただければ事足りる程度のお願いなのです」
「…補完的、とは」
「先日の黒船来航の折には、われわれには相手の喉元に突きつけられる牙がありませんでした。…しかしそれから数ヶ月、われらが何もせず指をくわえていただけとお思いですか?」
そうなのだ。
本来の歴史ではどうあれ、いまこの時代には歴史の特異点が存在する。
本来そこにあるべきでない新式の大砲が10門、幕府の手にうちにある。射程が長いことも重要だが、なによりもその所有をロシア以外の列国が知らないことが何よりも重要だった。
「すでに国際的に標準と見込まれる性能を有する大口径砲を、幕府はひそかに手配を終えました」
「…大口径砲を……どこからッ!」
「それは国家機密ですので、お答えはしかねますが……まあ、それが貴国でないことだけはお分かりだと思いますけど」
「すでにどこかと取引を!? …まさか!」
「『買った』んじゃないので、そのあたりはご心配に及びません」
くうっ、と。商館長がとうとうはっきりと声を漏らした。
揺さぶりに耐えられなくなってきたようで何より。くふふ。
「いつの間にか江戸のお台場はもとより、湾口の高所に配置された長射程の砲撃を浴びせられたメリケン艦隊はどうするのでしょうねぇ。何も知らずずかずかと他国の中庭に入ってきた彼らは、そのとき初めて自分たちが『虎口』に飛び込んでいることに気付くのでしょう……新式砲の射程を考えれば、江戸湾内に彼らの安全な場所など皆無なのですから。…カピタン?」
「…は、はぁ」
「見事江戸湾内に閉じ込められたメリケン艦隊が右往左往するところに、…湾内の新たな『開港地』に潜んでいたあなた方の軍船が背後に回り込んだら、彼らはどのような反応を示すとお思いになりますか」
「まず間違いなく……彼らにとって決死の突破戦となりましょうな」
「そうですね、そのとき彼らがいかに優勢な戦力を連れてきていても、この短期間に幕府が用意してきた新式砲の数が読めないうえに、その動きに同調する目障りな他国の存在がちらつけば、無謀な上陸など試みる余裕もなく、逃げの一手になるでしょうねたぶん」
「…そしてそのときは、植民地人たちに『その大砲を売ったのは阿蘭陀だ』と誤解されるというわけですな」
「そのくらいの齟齬はご愛嬌というものでしょう。いずれ貴国はわが国に新式砲を売って大儲けするのですから、どちらが先かなんてこの際それほど問題でもないと思いますけど」
「…はは、物は言いようですなぁ」
はははは。
乾いた笑い声が両者の間で起こった。
…颯太は既読のイギリス海洋小説でおおよその時代背景を知っているだけで、むろん当時の列国の国力など詳細に知る由もない。
ちなみにこの時代、GDP(購買力平価)で、アメリカはオランダの約8倍の規模を持っていたらしい。人口は約9倍。
大人と子供ほどに力の差は歴然なのだが、海外進出で先じている分だけ植民地等の権益が確保されており、個人所得というレベルではまだオランダ人のほうがやや上回っている。まあそのわずかな優越も、その後のアメリカの爆発的発展で蹴散らされることとなるのだけれども。
そうした客観的データをこのときドンケルクルシュース氏が持ち合わせていたとは思われないが、日の出の勢いで力をつけつつあるアメリカとは対照的に、過去の遺産維持に汲々としている自国の状況の違いは明確に把握していただろう。
自国のみで対処するのならば絶拒であるのだが、他国が矢面に立つ形で相対してくれるのならば、調子に乗るアメリカ人にこのあたりでぎゃふんと言わせたいというのがオランダの本音であったろう。
それが過去の大きな遺産のひとつ、日本という独占貿易国の権益を守ることにつながるというのなら、充分に検討価値があるはずだった。
「わが国は現状、植民地人とむやみに事を構えるつもりはありません。…そのときにたまたま、新たに得た開港地から定期船が出港しただけだと、後日彼らから問い詰められたときそのように回答するやも知れませんが」
「あまりはっきりと答えられても困りますが……適当に濁していただければ、それ以上は」
「その新たな開港地は、江戸に近き土地と、わが主に報告させていただいても構いませぬか」
「…開港地については、こちらも上と詰めねばなりませぬので、仔細は後日ということで」
「その点が確約いただけるまで、条約については保留という形でよろしいでしょうか……というよりも、そのお話が決定するような運びとなれば、先ほどにもありました『より踏み込んだ内容』の条約文を編み直したほうがよろしいかもしれませんね」
「それはたしかに。今度のものは『和親』などというぼやけたものにはなりえないでしょうから」
「いま思えば『和親』などと、おかしなことを論議していたものです」
「そうでしょう、そうでしょう。…というわけで、金子はしかるべき額を用意いたしますので、あたう限り最新式のものを、砲も弾丸も火薬も……『江戸湾の包囲戦』に間に合うように、早く安く、ご用意いただけるとこちらも助かりますね」
新式大砲の別入手ルートをちらつかされたあとだけに、商談の大きさに比して彼らの表情が硬いのは仕方のないことであったろう。
なぜか横にいる幕府全権たちの顔色も悪いのだけれども、大成功だというのに不思議なこともあるものである。
商館長が颯太に向かって手を差し出してきたので、目配せと肘うちで上司たちを前に出させ、本来の場のリーダー同士の『握手』へと修正する。川村、永井と終って、最後にやはり颯太の前に差し出される手。
ドンケルクルシュース氏のかすかな、しかし太い笑みがこぼれている。
颯太はその手を握り返して、こちらも煮ても焼いても食えなそうな満面の笑みを返したのだった。
オランダ人たちはまだそのとき気付いていなかった。
そのすぐあと、『ネモトシンセイ』なる焼物の怒涛の商談会が始まるなどとは!
オランダ人たちは逃げだした!
しかし回り込まれた!