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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
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009 日蘭和親条約③






みしり。

世界が軋みをあげた。

颯太という本来そこにあるべきでない因子が、歴史の織り目に恐るべき変化を与えようとしている。何かの気配を感じたように、颯太は天井の羽目板を見上げた。かすかに何かが音を立てたような気がしたのだ。


「…『和親』はあくまで仮初のもので、いずれ『通商条約』を亜米利加が求めてくるだろうと」

「あくまでそれがしの推測でありますが、…まあカピタンのご様子から、そのあたりのことならむしろ貴国のほうがよくご存知のようですけど」


商館長が肩をすくめて見せた。

颯太と商館長のやり取りを眺めることとなった幕府全権の二人は、空気が読めるゆえに言葉を詰まらせて茹で上がった顔をぷるぷると震わせている。

いまにも颯太の首根っこを捕まえて前後に振りかねない様子であるが、まあいまは鋼鉄のごとく強靭な面の皮でスルーしておく。


「…現在の荒れ狂う時化の海のような国際情勢を、その渦中に知らず巻き込まれている徳川将軍家を、われわれは非常に危ぶんでおります。…その時々の、看過し得ない情勢についてはできるだけお知らせいたすようにはしているのですが、われわれの危機感を幕閣の方々と共有することはなかなかに難しいようで……歯がゆい思いをしておりました」


これは学校で歴史を習っている程度では知りえない事実である。

いろいろな思惑もあっただろうが、条約締結をもくろむアメリカの動きはかなり事前にオランダ商館から情報提供があったらしい。そのご注進に接した幕閣……あの切れ者である阿部正弘もその一人であったにもかかわらず、幕府はその情報を活かすことができなかった。

まさに鎖国の夢うつつで、そうした国際情勢がまるで身に迫って感じられなかったのだろう。それらのオランダからのご注進の事実を颯太が知っているのは、有力派閥の中枢に接したゆえである。


「メリケン国がわが国との通商の道を切り開けば、損をするのは貴国です。わが国はまだ現在の緩やかな鎖国政策を維持したい。貴国は権益を守りたい。…ならばどうです、数年後にやってくるだろう傲慢なメリケン人たちに、押し込んだ江戸前で一緒になって冷や汗をかかせてやるというのは。湾の前門にはいま造営中の幕府の砲台陣地が、後門には阿蘭陀艦隊が突如姿を現して、脅すつもりが絶体絶命の挟み撃ち……きっと『いい声』でキャンと鳴いてくれますよ」


6歳児の黒い笑みに、さすがの商館長も言葉が出ない。

見守る商館員たちも啞然としている。


「…ではカピタ」

「ああ、カピタン。また少しばかりお時間をいただきたいのだが!」


いましもかさにかかろうとした颯太の言葉が、永井様の横槍に阻まれる。

首根っこ掴まれるようなていで商館長の隣の席からつまみ上げられた颯太は、ふてくされたように頬を膨らませて上司たちを睨んだ。

…どうやら第2ラウンドはいったんここで終了するようだった。


「…阿蘭陀を海防に引き入れてやろうという企みには承諾を与えましたが、まてまて、それがどうしたら御城(江戸城)の内懐の江戸湾に阿蘭陀船を招き入れるような話になるのですか。江戸の守りに不安があるとはいえさすがにそれはない!」

「お前は何をどうしようとしておるのだ。われらにも分かるようここで洗いざらい吐いておくがいい」

「…ちっ」

「おまえいま舌打ちしたな」


ごつんと拳骨を落とされて。

そうしてしぶしぶ、おのれが交渉で持っていこうとしていた方向性と詳細を説明し始める颯太。つまらん。

幕閣の一翼である阿部派のふたりであっても、幕府のもとに集められている情報のすべてに接しているわけではなかったろう。そのつもりで仔細に解説を加えつつ説明をする颯太の姿を、二人は息を詰めるようにして見つめている。

話が進むうちに、上司たちの顎が外れていったのはまあほほえましい風景であった。


「しかしそれでは!」

「…いや、そこまで情勢が悪化するのならばそれを防ぐ手立てとしてはアリなのやもしれん。われらが打ち手の自覚もないままに南蛮人たち相手にめくら碁を打っておるのならば」


外交とは、端的にいうならそれぞれの身勝手な主張をぶつけ合って、妥協できる線を探り合うものである。海外列強のすれっからしの外交官たちが当たり前のように身勝手な主張をまくし立てているのはいつの世も同じであり、それをかしこまって聞き入れてしまっている外交童貞の幕府は現状ただ間抜けな鴨ネギでしかない。

『和親条約』という単純な条文の中に潜められた『不平等』のロジックに気付くことなく判を突いてしまった愚かな有色人種を見て、アメリカ人たちは思っただろう。


おいマジでまだ行けるぞ、と。


まさに獲物認定したお人好しの老夫婦に詐欺師が群がるように。

味をしめたアメリカ人たちが、舌なめずりしながらさらに厚かましく踏み込んだ条約を強面で押し付けてくる風景を思い浮かべるだけで目に沁みる。


「他人の国に無断で上がりこんだうえに先住民を鉄砲で追い立て、わが国の国土の何十倍もの土地を掠め取ってきたのがメリケン人たちです。土地を盗り尽くして西側の海岸まで来てしまったから、今度は海を渡ってきたわけです。虫けらのように土地を追われ離散した先住……いんでぃあんと申すそうですが……彼らもわれらと同じ肌の黄色い人種だったそうですから、彼らが良心の呵責を持ち合わせているなどとは努々(ゆめゆめ)思わないことです。…隙を見せたら、一気にいかれますよ」

「…そんな無法が」

「騒乱の後期には、いんでぃあんもいくらか最新武器も持っていたようですが、基本彼ら先住民の武器は原始的な弓や石の(おの)……そこに列強人が大量の銃火器を持って押し寄せたのですから、どのような正義も理屈も通りはしなかったのでしょう。…あっ、まるでつい先日に江戸で見たような光景ですね」

「……っ」

「互いの持つ『武器』の性能に差がありすぎると、強者の側は圧倒的な優越感をこじらせて、足元にも及ばぬ弱者など獣以下に見えるのやも知れませんね。…まあともかく、メリケン人の此度の到来は、西部開拓という名の西侵の延長線上にあるものと考えて大きく外れるものではないでしょう」


まあわが国とインディアン諸族とでは、『国』という明確な政体を持つか持たないかの歴然とした差はあるのだけれども……たとえ最大勢力のスゥ族が国家を名乗っていたとしても、白人たちは何の躊躇もなく略奪を続けたことだろう。

この時代の彼らの感覚は、文明人たる白人以外は人ではない、という傲慢さで形作られている。


「…ともかく現状、メリケンの黒船艦隊は御城の内懐たる江戸湾に易々と侵入して、あまつさえ恐れ多くも上様に大筒の先を向け、われらに無理矢理『条約』という怪しげな証文に判をつかせたのです。わが国が他国の無法に抗するためには、殴れば殴り返されるやも知れぬ相手であると分からせること……つまりは黒船を確実に沈められる武器を用意せねばなりません」

「きゃつらの大砲の性能は恐ろしいほどに先をいっている。鉄を作る炉のないわれわれにはまだ対抗できるほどのものは作れまい」

「…もちろん、一から作るよりも持っている国から買ったほうがともかく早いです。いまそれら先進の銃砲を融通してくれそうな相手はあの阿蘭陀人たちのみですが……ここが肝心なところで……商売というのはなにごとも『独占させると高くつく』ものだということです」

「おぬし……言っていることがさっきと違う…」

「独占の御用商売の大店では目の飛び出るような高値でも、競争の激しい商売では客の気を引こうと値下げ合戦が起こってどんどんと安くなる……これは武器購入に望ましい状況を導くための理屈を逆から追う話なのですが……南蛮列強国に対抗するためには、『通商』を『開放』しておいたほうが確実に都合がよいのです。…このままでは、ないないづくしの国内で対抗手段を構築できないわが幕府は、武家の棟梁の面子を保つためにもいずれ『武器を売ってやろう』という外国商人に頭を下げねばならなくなる日がやってきます。…阿蘭陀から必要なものを購入するのも悪くはありませんが、競争相手のない独占商売は高いうえに品物も満足に選べないという馬鹿馬鹿しいものになるでしょう……彼らに『商売敵』を作ることが、交渉を有利に進める上ではまず必須であり、そのためには競合相手を招き入れる『通商』の開放が前提となってくるわけです」

「………」

「…いい銃砲を、それも安く購うために、どうせ他国に『通商』への道を開くのなら、なるたけ『いい条件』で条約を結びたいじゃないですか」


言葉を失っている上司たちの耳元に、颯太は声を潜めて囁いた。


「いまは多少の利を与えて、彼等を使い倒してやりましょうよ」


陶林颯太という特異な子供が、阿部伊勢守に引き上げられ幕臣となる以前に、天領窯という進取の新製焼を製造する窯元の経営者であり、有力な商家とも渡り合う恐るべき胆力の持ち主であることはすでに派閥情報として上司たちの中にある。

いままさに、この子供が根っからの『商人』であることを理解した川村永井の両名は、遠く江戸の地からこちらを見て腹を抱えて笑い転げる阿部伊勢守の姿を幻視したに違いない。現状の彼らの稚拙な外交に、もっとも欠けているのは商人のクレバーな損得のやり取り、駆け引きへの粘り腰であったろう。


「さすが伊勢様…ということですか」

「ここは乗っておけ、ということですか」


にやにやと調子に乗っている小童の頭に拳骨を落としたのを合図に、幕府全権たちは再び交渉の場へと戻ることとなった。

そこからは、もはやジャイアンリサイタル……もとい、小天狗による独壇場と言っても過言ではなかった。


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