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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
189/288

008 日蘭和親条約②





さあ、仕切り直しだ。

颯太の中で、第2ラウンドのゴングが鳴り響いた。

再びテーブルへと戻ってきた幕府全権たちを見守っていた薄青い瞳が、ひたと颯太を捉えて細められる。さて、この太いカピタンを揺さぶるのは骨が折れそうだ。


「…お話はまとまりましたでしょうか」

「ええ、まとめました」


まとまったのではなく、まとめた、と。

なんとも微妙な言い回しをして見せて、颯太はドンケルクルシュースを眺め見た。語学に堪能そうなこの商館長は、目の前の幕府全権の中で、主役が交代したことを正確に読み取ったようであった。


「では…」

「結論を申します前に、阿蘭陀商館長にひとつお尋ねしたきことがございます。…わが幕府と貴国との間に二百年余の長きに渡り続いてきた、特例的な通商とそれに伴う人同士の交流、その結果積み上げられてきただろう友好の精神は、疑うべくもない確かなものになっていると我々は信じておりますし、あつかましくもこの場ではそうであってほしいと期待さえしております」

「………」

「神君の天下統一より二百有余年、わが国はまどろみのごとき太平を謳歌してまいりましたが、その同じ時の流れの中で、貴国阿蘭陀を含めた海外進出を果たした諸列強国は平和とは程遠い苛烈な勢力争いを潜り抜け、結果我々からは想像もつかないほどの大幅な技術革新を成し遂げられたのでありましょう。世界中の人と国に神仏が平等に与えられていた時間を、あなた方が科学技術の前進に費やされたのとは対照的に、わが国は太平楽の夢うつつにただむやみに浪費してきた……それがこたびのメリケンの強引な武力外交に膝を屈せねばならなかった遠因であると……見たままの事実を申せばそのとおりではあるのでありましょうが……カピタンはいまわが国を混乱させている世情をどのように考えられているのでありましょうか?」


一気に言い切って、颯太は商館長を見る。

颯太の頭の中には、高度な歴史教育の賜物である俯瞰的歴史観がしっかりと根付いている。1600年の徳川政権の確立の時点で、一説によると世界有数の軍事力を保持していたというわが国ののちの歩み……殺伐とした時代の反動であったのだろうか、江戸幕府の太平楽は、他に類を見ない豊穣な大衆文化を育んできた。

一方で海の外の世界では、大航海時代を経て海洋をおのがものとした列強諸国が、血で血を洗うような勢力争いに明け暮れていた。

そのどちらの歴史がより正しく優れているかなどは誰にも評価できるものではないのだけれども、ただ国と国とのしのぎ合いという単純な暴力の世界では、決定的な差を生んでしまった。

その歩んだ歴史の差が、結果としてこの国を大いに動揺させている。

この国に君臨してきた徳川幕府の強大さを知るがゆえに……これまた付き合いがあまりに長いゆえに……幕府の無様な慌てぶりはオランダ人たちの目に複雑に映ったことだろう。

颯太の目に、力がこもる。

彼らに他人事のように『勝者の側』……外側から眺めさせてはならない。


「…話の流れがよく分からない、とカピタンが」

「ああ」


カピタンが、というよりも、同席するこの大通詞という人の通訳が追いついていないのだろう。しかしまっすぐにこちらを見ている商館長の眼差しは、おおよそを理解していると確信できる強さがある。


「…帰納的に申し上げれば、先だってお譲りいただいた貴重な新型蒸気船観光丸と、その操船技術を伝習するための海軍士官を派遣していただいた重ねてのご配慮……それらから貴国阿蘭陀国が、わが国のこの混乱を収めるためには、外圧に対処可能な最新の海洋戦力が不可欠と判断されていることが推察されます。…ありがたくもわが国を後押ししてくださる、まさに真の友好国といえる貴国のお立場とお考えを、失礼ながらこの場で改めて確認をさせていただきたかったのであります」


颯太の舌がすべらかに回転する。

通訳のタイムラグがもどかしいが、この龍太とか言う通詞はかなり優秀と見える。日本語の微妙なニュアンスもそつなく伝えられているようだ。

注意深く聞き耳を立てていたふうの商館長が、水を誘うように問いに応じる。


「ご心配に及ばずとも、わが国はいまも、そしてこれからも徳川将軍家の良き盟友であり続けることでしょう。お引き渡ししたスンビン号(観光丸)は両国の変わらぬ友好の証であると申せましょう」

「お言葉をいただき、安心いたしました……そこでカピタン」

「なんでありましょう」

「…水心あれば魚心……そのようなことわざが古来よりございます。長年特別な関係でありましたわが国と貴国との間の初めての友好条約、それをあたら新参の他国の無粋な条約に倣わせるなどあるまじきことではないのかと……そのようにそれがしは考えるのであります」


ぴくり、と。

商館長の表情が動いた。


「…陶林様」


投げた釣り針に、脈が返ってきた。

もぞりと、颯太は尻の据わりをずらした。大人サイズの座面は、子供の尻を前へ前へとずらす特性がある。


「なかなか興味深いご提案のようです。…して、その水心と魚心、当方はどのように解釈いたせばよろしいのですかな」

「条文……現状の両国の紐帯の強さをかんがみれば、いま少し踏み込まれてもよろしいのでは、と」

「…ッ」


颯太はぺろりと唇を湿した。


「これだけ交流の歴史ある両国が、いまさら『和親条約』もありますまい」


まったく国交のなかった国同士ならば、あるいはその始まりとしての『和親条約』はありなのかもしれない。

しかし日蘭の状況は他国とあまりにも違う。


「先日、相次いで結ばれた諸列強との和親条約は、あくまで鎖国を敷くわが国への門戸開放を迫るためのものにすぎません。世界の大半を占める七大海洋を押し渡るのには快速の蒸気船ですら途方もない日数がかかると聞き及びます。人は水と食料が不可欠ですし、蒸気船は黒い石炭を鯨のように飲み込んでいきます。長い航海を安定したものにするためには、それらの物資を補給する拠点が必須で、ぱしふぃっくおうしゃんと申されるわが国の東の大洋では、そうした拠点が乏しいとうかがいました。その貴重な補給拠点の獲得が今回の『和親条約』の目的であることは、すでにそちらもご存知のことでありましょう。…その程度の条約であるので、あなた方もいまはまだこの程度の内容でも構わないと……いろいろと踏み込んだ内容については現時点で伏せておられるのではありませんか?」

「………」

「…遠からず、メリケン国は新たな条約を携えた全権を派遣してまいりましょう」

「…ッ!」

「彼らはもともと、わが国との『通商』の道を開くことこそが真の目的であろうと……そうはばかりながらそれがしは愚考いたしております」

「…なっ!」

「…はっ?」


うちの上司もなかなかいい反応するなぁ。うんうん。

むろん最初の和親条約を取っ掛かりとしか見ていないアメリカが、外交童貞の幕府をびびらすような条件をこの時点でおくびにも出すはずはない。しかしチート知識のある颯太の中のおっさんにとって、その隠された意図はぜんぜん隠されていなかったりするわけで。

ほとんど間も開けず、数年のうちにアメリカが次の段階を……『通商条約』をごり押ししてくるのは歴史的事実なのである。


「わが国の望むところはどうあれ、列強国の武威に押され気味の現状、通商条約を無理強いされればおそらく断るすべもありません。…そのときが来ましたら、貴国との約束であるわが国との交易の独占はあっさりと破られることでしょう」


にこっと、わざとらしい笑みを作って見せる。

颯太は商館長の眼差しを捉えながらゆっくりと席を立つと、テーブルを回り、慌てて席を立ったオランダ人助手を押しのけるように隣の座を占める。そのあつかましさに長崎奉行がぎょっと目を見開いたが、しらんし。

目と目がぶつかり合い、火花が散ったように見えた。


「思い出してください。わが国と貴国との間には、すでに現実としての『通商』があります。いま議論している条約のことを度外視しても、両国はすでにもう一段先の関係を確固として築いているのです。…長崎での細かな権益? それはそれでいくらでも議論に応じましょう。阿蘭陀人の当国内での権利? いいでしょう、検討いたしましょう。…わが国はそれら枝葉の譲歩をする代わりに、貴国に提案したい。一歩進んだ関係を築いた者同士、その関係の平和的維持のために、貴国にはぜひともご協力をたまわりたい」

「…提案、ですと」

「なに、難しいことはありません。いずれやってくるだろう新大陸の野蛮な田舎者どもを、そのとき一緒に打ち払ってくださればよろしいのです」


その瞬間、商館長は言葉を失った。


ジャンル指定をファンタジーにしようと思っていたんですが、あんな『定義』のされ方をされると選びようがありませんでした。


この物語はフィクションですので、そのあたり心置きしていただけますようお願い申し上げます。

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