007 日蘭和親条約①
本来の歴史では、すでに条約が発効しているべき瞬間を過ぎていた。
陶林颯太という歴史の特異点さえ関わらなければ、今頃は関係者たちも長い精神的緊張から解放され、心の安息を得ていたのかもしれない。
が、颯太にとっての主観的現実……この日蘭和親条約は、そのゴール間近で大きな波乱に見舞われることとなった。彼という特異点の干渉により、幕府側の活力が賦活化してしまったのが大きな原因だった。
「…これらの変更は、上の方のご指図なのでありましょうか」
そう言ったのは、テーブルを挟む日蘭両国の審判席とでもいえよう下座にある男だった。
この男は会談時に同席することを取り決められている大通詞の龍太という者であるらしい。日本語に堪能そうであった商館長ドンケルクルシュースも、この場では母国語であるオランダ語を話している。
「終った議論を蒸し返すのはあまり建設的ではない、とカピタンは申されています…」
「ああ通詞殿、これは正確にお伝えするように。…幕閣のご指示は大所高所からの判断を大筋で示されたものであり、そもそも枝葉の決め事などありはしませぬ。それらの内意を汲み取り交渉に反映させるのはわれら全権の判断にゆだねられている。先回までの論議があったればこそわれらの側の理解も高まり……そこで初めて見えてきた事柄について、新たな見解が生まれただけのことである」
とりあえずは様子見とでも言うように、颯太はおのれが空気を吹き込み熱くさせた上司たちを傍観している。
ふたりとも、昨晩までは条約のことなどさっさと終らせたいような雰囲気であったというのに。まあ国の尻に火がつき始めていることが夢幻でない現実であると、『気付き』を得たのは為政者として重畳というものであろう。
(永井様もぐいぐい行くなぁ……昨日はひとに波風立てるなって涙目で縋ってたのに)
アメリカの外圧に押し負けて結んでしまった先日の日米和親条約は、幕府側官僚たちに『前例』という免罪符を与えてしまっていただろう。後に続く日英、日露と流れ作業のように同様の条約を結んできてしまった幕府の官僚たちにとって、「ことさら不利でなければOK」というゆるい空気は、思考を硬直させる毒でしかなかった。
外洋も満足に間切れない小船しか持たぬ上に、旧態依然の哀れなほどの射程しかない古ぼけた大砲を構えて震えている弱小国……そんな現状の母国が、餓狼のごとき海外列強にとって『餌』でしかないことを、幕府全権らはいま肌寒さとともに強烈に意識していることだろう。
長い付き合いで気心も知れていると思い込んでいたオランダですら、南海ではいくつもの国を侵略して、収奪行為を行っているのだ。国益をかけて叩き合う外交の最前線で、相手の手の内も調べずに表面的な友好ムードに流されるなど真正の『鴨ネギ』である。
幕府全権であるふたりは、そもそもオランダが東南アジア一帯に植民地を有し、プランテーションという名の巨大な収奪システムを経営していることなど微塵も知らなかったのだろう。知らないと言うよりも、関心がなかったといったほうがこの場合は正しいのか……黒船騒動で騒がしくなった昨今ですら、鎖国の夢うつつから人々の目はまだ完全には覚めきっていないのだ。
(…まあ、数万両の価値がある蒸気船をぽんと渡してくる相手が、何も利益を求めていないわけがないし。…状況はもうとっくに土俵際……ここからひっくり返せるかは、うん、まあ期待はしないほうが良いんだろうなぁ)
煽った本人は至って他人事の様子でコーヒーをちびちびやっている。
こいつは沈殿物の多い、トルコのほうのコーヒーに近い感じだな。
「…しかしそれだけの変更を求められるとなると、われわれも国許に伺いを立てねば応ずることが出来ません。そうなると1年以上は…」
「なに、クルシュース殿も国王の全権でありましょう? ならばわれらと同様臨機応変、互いに折り合える線を探ろうではありませぬか」
「…そうは申されましても……もう終っている議論を蒸し返すのはとても建設的とは」
「…終ったと、こちらは認識してはおらぬ」
「……!」
商館長ドンケルクルシュースは困惑したように瞬きして、そして意味ありげに端に座る颯太のほうに目をやった。その薄い碧眼の奥に「それがおまえの主人の意志か」と刺すような力がこもっている。
同席のほかの商館員たちも、苛立ちと焦慮の視線を投げてくる。
この思いがけぬ場の紛糾を裏で糸引くのはこのふてぶてしい子供に違いない……そう信じきっているように。
まあ実際、その通りだし。
交渉がほぼまとまりかけていると最後の追い込みに気合を入れていただろう商館員たちにとって、まさに悪夢的展開。にわかに高まり出した両陣営の緊張で、息まで詰まってくる。
(…シャンシャン締結だと、ぼくは結局オブザーバー以上にはなれんのやけど……予想外の波風が立てば……その主導権をうまく取ることさえ出来れば、波の高さ分だけ交渉用の『賭け金』が場に現れる)
オランダが和親条約をどれだけ強く望んでいるか……その切迫の度合いによって颯太の手に現れる札の強さは変わってくるだろう。
蒸気船まで与えて何の結果も手に入れられなかったら、このカピタン、ドンケルクルシュース氏はキャリアに大きな傷を負って、外交の第一線から退場と相成る可能性が強い。ほとんど表情を変えない鉄面皮の商館長が、その内心に隠し通そうとしているだろう苛立ちと焦りはいかほどのものか。
追い詰めるネタはいくらでもあるのに、幕府全権たる上司たちはそうした交渉の生臭い息遣いに気付かない。気付かないままに、愚直にじたばたと手足を暴れさせている。
川村様が、永井様が。
「…それらは受け入れられません。それではわが国は亜米利加や露西亜に劣る扱いになります」
「その規定については他国とも順次内容を改定していく所存だ」
「ならばわが国とも、その改定が明らかとなった時点でご提案をいただくべきで、現時点でのその要求はとうてい聞き入れられません、…とカピタンが」
「…う、うむぅ」
「わが国王室は貴国将軍家に尽きせぬ親愛の情を抱いており、その証として貴国が強く求められた新型蒸気船を供与いたしましたし、その操船技術の調練を行うため、貴重な海軍士官をそちらの永井様の元に派遣させております」
「…それは……恩には着ておるが」
「この条約の締結にわが主君は大いに期待を寄せております。その期待を裏切るような結果に陥るというのならば、全権として貴国に供与している便宜を引きあげることも検討せねばなりません」
「……ッ」
「いかんいかん、それは!」
国と国。
外交は対等であるように見えて、実は相当に不平等な手札を叩き合う公平さから大きく隔たった場所である。当然のように、オランダと幕府……互いの手の内にある札の強弱は滑稽なほど差異がある。
議論の成り行きのまずさに大慌てで永井様が手を大きく振って打ち消しにかかる。
長崎海軍伝習所は、オランダの協力なくして成り立ちはしないのである。これは時価数万両の価値のある新型蒸気船を投げ与えることでオランダが購った、強力な手札だ。当然脅し半分にちらつかすわな。
「………」
「………」
交わされた両全権の眼差しが、無言の言葉を交わし合う。
幕府側がもしもこれ以上強力に内容変更を迫るときには、長崎で手に入れつつある列強の技術をご破算にする覚悟がいる。オランダ側の『デッドライン』の明確な提示だった。
血の気ののぼった川村永井両名の横顔が、刺し通すように相手に注がれている。
その様子を見極めて、少し迷うようなそぶりを見せていた商館長ドンケルクルシュースの表情が、わずかに動いた。
このままでは火が激しくなるばかりで益がない……そう見極めたような淡々とした眼差し。交渉巧者の小男は、次の瞬間には今日この場の交渉の中断を告げるつもりであったろう。
その後の手回しが容易に予想できる。
いったん引いて、そのあとに伝習所に派遣しているオランダ人教官を体調不良とでもなんとでも言ってサボタージュさせ、観光丸の機関にも専門家にしか分からないレベルの細工をしてエンストさせる。
たったそれだけで、少なくとも伝習所総監理たる永井の心は簡単に折ることが出来る。そうして改めて交渉を再開すれば、好きなように話を運んでいけるだろう。
むろんそれは颯太も望むところではない。
場の息遣いを見極めた彼は、わざと聞こえるようにティーカップをソーサーに強く置いた。
「…すいません。よろしいでしょうか」
ついに颯太が場に割って入った。
商館長が瞬きして、ほんの少しだけ肩をすくめたのが分かった。
「少しこちらの論点を整理したく思います。…川村様、永井様、ちょっとよろしいでしょうか…」
颯太の目配せで何かを察した様子の上司たちが席を立ち、おとなしく廊下へとついてくる。オランダ人たちの視線から逃れたと見た永井様がさっそく口を開いた。
「小僧、さては俺たちを噛ませ犬に使いやがったな」
「まあまあ、今は内輪で揉めている場合ではありません。…よろしいですか」
まさに会話の呼吸を読みきったかのように、勢いのままに上司たちの意気をあっさりと散らして。颯太は言葉を継いだ。
「昨晩はいろいろと意見してしまいましたが、この期に及んでの大幅な条文修正には少し無理があるようです。…このままでは相手の譲歩はあまり望めないと思います」
「しかし先方のいうままに受け入れておっては…」
「川村様」
口に指を立てて見せる颯太に、ふたりが押し黙る。
小天狗の口元がわずかに上向いているのにそのとき気付いたに違いない。
「メリケンや露西亜相手に同じような条約を交わしてしまったあとです。ここであの程度の内容を受け入れてもさほど問題にはならないでしょう」
昨日と言っている事が違うだろうと永井様が突っ込みそうになったがそれは颯太の人を食ったような笑顔に抑えられた。多少の条文の修正など米英露との同条約のあとだけにいまさらであるし、海軍伝習所の存続と吊り合うほどの価値があるともとうてい思われない。
だから、颯太はその欲をあっさりと捨て去った。
「…この際、《利》は別の形でいただきましょう」
ほとんど囁くような小さい声で。
そうして颯太は、おのれの企てを開陳したのだった。