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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
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006 コーヒーを一杯






その日、颯太は出島への一歩をついに標した。

先入観とは恐ろしいもので、その一歩が……なんてことないその土の地面が、まぎれもなく歴史上の『出島』であることを颯太はすぐには受け入れることができなかった。

差し渡し200メートル前後、奥行きは建物のせいで分かりづらくはあるものの、50メートルほどだろうか。人工の島とはいえ、ほんとうに猫の額ほどの大きさの島だった。

颯太がなぜ現実を受け入れがたかったのか……それは多分に、オランダ人の居住区なのだから洋館が並んで手当たり前……無知な思い込みのせいであったろう。

この時代には、まだ本格的な洋風建築はどこにも建てられていない。外国人が自国の趣味を持ち込めるほどに門戸が開放されるのは今しばらく後のことである。幕府が用意し、オランダにありがたくも貸し与えたこの出島に、オランダ人はただ間借りしているだけの店子に過ぎなかった。むろんのこと、その貸与物件は幕府が用意するのだから、当然ながら純和風……日本的大工の棟梁が腕を振るったずいぶんと馴染みのある(いらか)が小さな箱庭に並んでいた。

出島の出入りを取り締まる表門の役人に形だけの確認をされて、颯太は出島の小路を歩いていた。


「なんか方々からすごい睨まれた」

「…あれらは蘭学志望の書生連中でしょう。出島見物の物見遊山が大半でしょうから、いちいち気にする必要もないですよ」

「何の当てもなく向こう見ずに長崎まで押しかける馬鹿もまざっとるから、いちおうそれなりには注意を払っておけ。何とかと馬鹿は紙一重ゆえ」

「気をつけます……あっ、オランダ国旗!」


冬の白んだ青空にオランダの国旗が誇らかにたなびいている。

赤白青の横縞3色……いわゆるトリコロールというやつだ。

それが切っ掛けとなって、和風な建物群に中に、そこかしこに異国的なパーツを発見する。夜間用のものなのか入口近くに下げられた角灯(ランタン)、そしてその半開きになった障子戸の奥に風をはらんで揺れている厚手のカーテン。

木と紙でできた恐ろしく薄い外界との隔たりを西欧人が『心許ない』と思うのは致し方ないのかもしれない。むろん心理的な結界としてだけでなく、防寒の機能も期待してだろう、ほとんどの出入り口や窓に備えられている。

出島の道端で、颯太よりも少し年長であろう子供が数人、石を蹴って遊んでいる。駐在員が連れてきた子供であろうか。


「ヨコソ、イラシャイマシタ」


わずかな香水の匂いに惹かれるように顔を上げると、そこに薄青の瞳が彼を見下ろしていた。

商館員の出迎えだった。




茶と、菓子が出された。

いきなり会談というほど切羽詰った感じでもなく、まずは客人としてもてなされているようである。ちなみに菓子は後世のものよりややぼってりとしたカステラだった。

まあ遠慮なくいただこう。うん、ざら目のシャリシャリが旨い。

予想通り、畳敷きの広い和室の中央に、ちぐはぐな感じでテーブルが置いてあり、颯太は並べられた右端のほうの椅子に腰を落ち着けている。

日本の指物師(家具職人)もしっかりした物造りをするが、ヨーロッパの家具職人も実にいい仕事をする。つややかで平滑な天板の縁から伸びるまろやかな脚がぴたりと畳に接地し、小揺るぎもしない。

口の中の甘さを流すようにすすった茶は、客の好みを選んでか普通の煎茶だった。器もむろん、それがこの国での礼にかなっていると信じているのだろう、これまた普通の湯のみだった。

そうして、颯太はテーブルに向かい合うようにして座っている相手方の様子を伺う。

他文化のなかにあって、おのれの属する文明圏の優越性を信じ切り、それを誇示するようにしているオランダ人たち。颯太に言わすと珍妙この上ない格好であるのだけれども……カステラのパッケージに印刷されてそうな……端的に言うならトランプの『J』の人のそれに近い服装の男たちが3人、お前たちにこの良さは分かるまい的な雰囲気でティーカップを口に運んでいる。

その飲み物から放たれる鮮烈でどこか郷愁を誘う香り。


(コーヒーか!)


ちらりと同行の上司の様子を伺い、「あのような泥水を飲むとは」的に馬鹿にしたふうの長崎奉行の横顔を確認する。とくに気圧されたふうでもないので、この場は対等ということを読んだ上で。

颯太は急いで熱い煎茶を飲み干すと、壁際に立っていた給仕らしき男に


「プリーズ」


と湯飲みを差し出した。

まったく物怖じしていない小天狗に高官たちが苦笑しているのを尻目に、給仕にお代わりを要求する。

すぐさま傍らの用意から急須を取ろうとする給仕の行動を手でさっと制して、颯太はにかっと微笑みつつ言葉を継いだ。


「カヒ、プリーズ」


そこでようやく、オランダ人たちがおやっという顔をした。

物流の関係上収穫からどれだけ経ったものか判然ともしないのに、出されたコーヒーは充分に香りが残っている。ザラメを入れようとするのも制して、おっさん的には定番のブラックでいただく。


「うん、うまい」


颯太が相当にあつかましい性格をしているのを分かっていた高官たちであったが、異国の得体の知れない黒い泥水を旨そうにすすって見せた彼には改めて驚いたようだった。

鼻をヒクヒクさせて香りを楽しんでいる颯太に好奇心を刺激されたふうのふたり。ちらりと今度はオランダ人たちの様子を伺ってから、颯太はティーカップを上司たちに掲げて見せた。


「あちらで流行っている黒茶です。苦いけど、香りが楽しいようです。…どうせなら珍しいものをいただいといたほうが得ですよ」

「…うっ、いやわたしはよい」

「これ、少しは遠慮せい」

「それは残念。死にはしないのに」


ひとしきり香りを楽しんだ後、ティーカップをソーサーに置いて、ひたと向かい側の真ん中に座ったオランダ人を見る。薄い金髪に丸っこい顔、そして上背もそれほどではない……あまりぱっとした感じのない小柄な男が、オランダ商館長ドンケルクルシュースなのだろう。

その見開いていた目を瞬きさせて、男はにこにこと笑みを作った。


「カヒが気に入りましたか」


語学が相当に優秀なのか、かなりナチュラルな日本語を口にした。

テーブル越しでなければ頭を撫でられていたかもしれない。子供好きなのか、はたまた颯太が仕掛けている『前哨戦』を嗅ぎ分けてアプローチしてきたものか。

颯太はしれっと、商売っ気を表明する。


「とてもおいしいです。このカヒの豆は売ってもらえるんですか? 1ポンドいくらぐらいでしょうか」

「はは、気に入っていただいたのに申し訳ありませんがこれは売り物ではありませんので、…そうですね、のちほどわずかですが御土産に差し上げましょう」

「只でいただけるんで? なんだか無心したみたいで悪いなあ」


もしも定量で買えるのならば、以前構想したティーカップの布教活動の一環としてカフェを開くことも出来そうである。嬉しい土産物ゲットだぜ。


「こちらの方は、なかなか『外』のことにお詳しそうですね」


年端もない颯太に対しても慇懃な態度を崩さない商館長に、颯太は試すようにさらに一歩踏み込んでみる。


「少し事情に通じた者から聞きかじった程度です。…このカヒの実も、南方の島で大掛かりに栽培されているとか? 植民地にされた島で作られたものをごっそり持ち出して商売されるわけですから、さぞ大儲けされていることでしょうねぇ」

「…殖民?」


つぶやいたのは永井様だった。

オランダ商館長ドンケルクルシュースは反射的に瞠っていた目をまた笑みに変え、


「ご冗談を」


と、ころころと笑って見せた。鉄面皮の男だった。

この時代のオランダは、後世で言うインドネシア周辺を植民地として支配していた。スマトラ、ジャワの両島では大規模なプランテーションが経営され、現地住民を奴隷のように搾取していた。そのプランテーションの代表的な作物がこのコーヒー豆だった。

少し世界史をかじっていれば知ることの出来る事実である。むろん颯太の中のおっさんもその程度のことは知っていた。

条約イベントも終了間近と気が緩んでいたであろう、幕府側高官たちの警戒の水位が急激に上昇した。それも颯太の意図したことだった。会談があまりにシャンシャンとなってしまうと、颯太の介入する余地があまりなくなってしまう。


(さあ、いっちょやり合いますか)


颯太の口もとに黒い笑みが浮かぶ。

幕命とはいえ遠く長崎にまで派遣されたその労苦を、漫然とただ同席するだけという御役目で浪費することは、あまりにあほらしいと朝の賢者タイムで切り替えた颯太。

上司たちには悪いのだけれども将来の陶林商会のため、ここは適度に荒れてくれたほうがありがたいのだ。

阿部様もこの程度のことは当然織り込んでいることだろう。そうであってほしいと期待する。露西亜ラインのついでに阿蘭陀ラインに唾付けとくのもありでしょ? 阿部様。


「カヒのおいしさに、つい差し出がましい口をきいてしまいました。…それがしは陶林颯太と申します。お見知りおきくださいますよう…」


この国を実質支配する徳川幕府の宰相、老中首座阿部伊勢守の肝いりで同席することになったという颯太の背景が長崎奉行荒尾様の口から伝えられると、商館長ドンケルクルシュースら商館員たちの視線が一気に集まった。

日蘭の攻防が、いま幕を上げた。


今日はここまで。

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