005 生姜湯と黒糖蜜
勝海舟……このときはまだ勝麟太郎。
当年で三十代前半、まだ幕府上層部に見出されたばかりの、現状では海軍伝習所の生徒監(※学級委員みたいなもの)でしかない時期の勝麟である。貧乏御家人の出である勝のデビューは、後の活躍がまぶしすぎて誤解されがちだが、実際は非常に遅い。
黒船艦隊という外患に動揺する幕府の状況を憂慮し、新しい斬新なアイディアを広く下々の者たちに求めたのは阿部正弘……その目に勝の建議書が止まったことが彼の勝運の始まりだった。
つまりなにが言いたいのかというと、阿部正弘に市井からつまみあげられ、未来への先行投資とばかりに経験をつまされる新米官僚……勝麟と颯太、このふたりはこの時点でほぼ同じ立ち位置にいる、ということなのである。
勝のまなざしはものめずらしげに颯太の顔を眺めたあと、
「この童、もしかして総監のお子さんで?」
食べ残していた料理を口に運びつつ漏らした勝であったが、『勘違い』でそのまま自己完結したのか、もうその意識は完全に目の前の酒食に向けられている。
江戸と長崎は恐ろしいほどの距離に隔てられている。地震後に颯爽と世に現れて、鯰絵にされるほど評判になっている小天狗のうわさなど、耳聡い一部を除けばまだそれほど届いていないし、そもそも関心も集めづらいのだろう。知っていた高官二人だとて、おのれたちの領袖である阿部伊勢守の名がなければ、露西亜相手の派手派手しい『外交戦果』が派閥情報で伝わってなければ、やはり心に留め置くほどの関心は抱かなかったであろう。
このとき、座敷に乱入したのは三人。
いまひとりの……さっそくとばかり捕まえた永井様を無理やりに座らせて、酌を始めている二十代ぐらいだろう若者が、「矢田掘」という名前であるらしい。のちに幕府海軍の最高責任者たる海軍総裁にまで上り詰めた男であるが、颯太の生半可な知識には引っかからず、ただ聞いたことある名前だな、程度の認識である。
勝手に飲み食いを始めている勝に比べれば上司への配慮を欠かさない分だけ常識人であるのかもしれない。
そして名前のわからないもうひとりは、一番最後に入ってきて正座一礼したあと、勝の横にするりと入り込んで、さっそく箸を手に取っている。
「勝よ、一人で先にがっつきなさんな。少しは配分せい」
「亨次郎も食え食え! 料理なんぞ足りなきゃその分追加すりゃあいいじゃねえか……ここのは早い者勝ちだ」
「…あの、総監、というわけで遠慮なく」
「…結局たかるのだな!」
物静かだが乗っかるときは遠慮なく乗っかる要領のよい優等生タイプの男のようである。三十前ぐらいだろうか。細い目を卓袱台上に走らせて、さっそくとばかりに残り物争奪のつばぜり合いを勝と始めている。
この男は永持亨次郎。
のちに長崎奉行支配の外交官僚となり、颯太とも浅からぬ縁となりそうな男なのだが、生半可知識の颯太は無論その人物を知らない。
勝、矢田掘、永持はそろって伝習所生徒監。有能ゆえに艦長候補として送り込まれた者たち……それらがそろって酒を飲んでいるあたり、伝習所でのいろいろな愚痴や悩みなど吐き出しあっていたのだろうと想像されるのだけれども。
(うは追加注文に自重なし……永井様面倒見よさそうだし完全に足元見られてんな。…伝習所のたかり三連星恐るべし)
三連星という思い付きから自然とあの伝説の三段攻撃を思い出して、うっかり吹き出した颯太であったが、上座に押し込められしわい顔で酌を受けていた永井様が、その様子にぴくっと反応したのに気付いて遅まきながら顔を背ける。
まあ考えなしの馬鹿ならばここで厄介ごとのキラーパスが送り込まれそうだけれども、颯太を領袖の御目付役と勘違いしている永井様が守秘のTPOを履き違えるとも思えない。
そこにさっきの仲居さんが注文を受けに顔を出した。
「えいっ、静まらんかこの酔っ払いどもが! ああちょうどよい、おせん!」
「ご注文伺いに……総監様?」
「…御足はこれだけだ。ツケだけはくれぐれも聞かぬように」
仲居のおせんの耳元でささやいて、その手にいくばくかの金を握らせた後に、川村様、颯太と目配せをしてさっと廊下へと歩み出る。川村様が嘆息してそれに続くと、颯太もまた卓袱台に手をついて立ち上がり、「すみませんが」とやや狭くなった勝と永持の背中側を回りこんで高官たちのあとに続こうとする。
そうして期せずニアミスした歴史の風景を脳裡に焼き付けるように、最後に振り返った颯太。
彼を永井様の縁者と勘違いしている勝と矢田掘がいちおう居住まいを正して殊勝な感じにお辞儀をしているのとは対照的に、何かを見透かしたふうの永持の眼差しがややぶしつけに見送っているのに気付いた。
たしかに多少の冷静さが残っていたなら、彼らの乱入以前に奥の座敷で座を囲んでいた怪しい歳の差メンツに、バリバリと違和感を覚えたことだろう。
「下座で主客とは、謎かけ問答でありますか…」
うは、このひと面白そうだよ。もっと話し込んでみてぇ。
前世的ミーハーな好奇心がもたげてくるのを押さえ込みつつ、振り切るように颯太は長い廊下を歩き出した。
無闇な『歴史の潮流』への介入には、いまだに彼の中のおっさんがびびってしまっている。恐れつつも、いずれ伝習所を覗いてみてえともだえまくっている。
長崎やべえ。
興奮で体がぷるぷると震えた。
***
翌日。
安政2年12月26日(1856年2月2日)。
長崎イベントのまさに初日ともいえるその日の朝、颯太は今生での大人の階段をひとつ上っていた。
寝不足の目をこすりつつ布団から這い出して、一言。
「…あったま痛ぇ」
寝不足と二日酔いのダブルパンチとか。マジか。
長旅の疲れに加え、酒宴での精神的な消耗……深更になってようやく待望の布団にもぐりこんだのであったが……嫌な予感はあったものの結局昨晩の興奮を引きずったまま睡魔に嫌われ、とうとう日の出を迎えてしまった。
酒もそこまで飲んだつもりはないのだけれども、二日酔いの原因であるアセトアルデヒドを子供の肝臓が分解し切れなかったのかもしれない。ずきずきするこめかみを押さえながら井戸で顔を洗い、ともかく衝動の続く限り冷たい水を飲んだ。
そうして廊下にへたり込んでいるところを女中さんに発見され、二日酔いにはこれが効くと生姜湯と黒糖蜜の欠片をもらった。民間療法というやつか、縁側に座り込みつつ縋るような思いでそれらを口に運んだ。無論すぐに効いてくるはずもない。後は昨日の自分に悪態をつきながらじっと耐えるのみである。
底冷えする冬の寒気に身を縮めながら、気を紛らわすように条約草案の写しを読み返す。生姜湯をちびちびと口にしながら、その文面をひいひい言って捻り出しただろうオランダ人たちに思い致し、苦く笑う。
今日にも颯太は出島のオランダ商館に連れて行かれ、条約批准の手続きをオブザーバーとして眺めることとなるのであろう。長崎出島といえば、言わずもがなこの時代の蘭学者たちの聖地である。
彼自身に蘭学への思い入れがあるわけではないのだけれども、多くの学生が入りたくてもなかなか入れない出島に、ぽっと出の颯太が簡単に入り込めてしまうのだから、人生とは不公平なものだと思う。
長崎の出島には、商館関係者が数十人暮らしているらしい。むろんのことそこにあるのは『オランダ商館』のみであり、くだんのロシアルートとして浮上した商館はそれとは別に……この出島ではなく中国人たちの押し込められた『唐人屋敷』のなかの一つであると聞いている。ここ重要なところである。
この唐人屋敷とは、明末の亡命中国人などが幕府の統制で長崎の一区画に押し込められたもので、後世で言う中華街のようなものを形成しているらしい。颯太の生きるこの時代、長崎には1万人に及ぶ中国人が暮らしていたりする。
…まあそちらのことはいまは置いておくとして。
出島オランダ商館でのイベントを前に馳せる颯太の想念は、なかなかにあつかましく商人的打算にまみれていた。
(…こんな遠くまでひいこらやってきたんだ、外事(外交)現場の見学とかだけじゃなくて、それなりに労苦の対価を回収させてもらわないと)
オランダ商館長とはすなわちオランダ政府の通商代表のことである。
想定される彼らとの問答をいろいろとシミュレートして、利益誘導の可能性を探るのはなかなかに興奮ものである。
(ドンケルさんのノリ次第だけど……どこまで突っ込んだら転んでくれるのかな……ふふ、タフな殴り合いになりそうだけど)
ゆくゆくは海を股にかけた海外交易に乗り出すつもりの颯太にとって、外人相手の商談に慣れるための絶好の機会であり、かつ有力なパイプを構築するチャンスでもあったりする。条約は条約でそれなりに結果を誘導するとして、その際にわずかでも将来の陶林商会に我田引水できればしめたもの。
実は颯太が往路で実家に立ち寄ったのも、そのための欠かせない『ネタ』の事前準備のためでもあった。ちゃっかりと庫之丞の荷の中に根本新製の茶器セットが仕込まれている。
(…くふふ。どうやって食いつかそうかな)
ちんまい子供の横顔に、黒い野心が滴り落ちた。
白い息をおかしそうに小刻みに吐き出しながら、黒糖蜜の欠片を口に放り込んだ。長崎奉行所は当地での最大の交易品である『砂糖』の統制に大きく関与しており、女中さんが気軽に口に出来るほどその剰余の恩恵に与っているようだ。
商売下手の幕府ですらこの砂糖商売で莫大な利益を上げられる……海外交易とはまさにチョロ臭漂う可能性のフロンティアであった。
遠く、鶏の鳴き声が澄んだ冬の空気を波立たせた。
「…お早い御目覚めで」
彼に少し遅れて起き出して来た後藤さんが、障子の隙間から顔を出した。
「冬やし、そう早い刻限でもないと思うよ」
「出島にお出かけになるのは何時頃となりましょうか」
「朝四つ(9時半くらい)には出られるようにしときましょう。…庫之丞殿は?」颯太の問いに、後藤さんは少しだけ仕方なさそうに、
「…昨晩はずいぶんと酒を勧められましたから」
その顧みる視線を追うと、いまだにすやすやと眠っている庫之丞の姿があった。芋虫のように布団のなかに丸まって、髷の一部だけが顔を覗かせている。
彼らはいちおう客であるので、少々だらしのないところを見せても問題にはならないのだろうが、こう武士のかっこつけ的には、女中さんが朝餉を告げに来たときにはぴしっと正座して待っているくらいが良いような気がするわけで。
颯太の生暖かい目配せに、後藤さんが小さく頷いてすっと障子を閉めた。
少しして庫之丞のぐずる声が……それが短い悲鳴のあと、腐女子が妄想をたくましくしてしまうような荒い息遣いと応酬があって……半刻後には後藤さんと二人並んで乾布摩擦する旗本御曹司の姿があった。
なぜに乾布摩擦…。
颯太はこめかみを揉み解しながら、震えている庫之丞に苦笑したのだった。