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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
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004 酒宴の夜






奇妙な話だけれども、『草案』を一読したことで、胸につかえていたものが一気にすとんと抜けたような、非常にリラックスした感覚が颯太の中に生まれていた。

酒のせい?

まあそれもあるかもしれないんだけれども。


(まあなんだ、条約っつったって、この程度のものか)


油断はいかんと思うのだけれども、まあ備えておくべき未知の議論の《底》が見えてしまったのがやはり大きな理由であったろう。後世の歴史を知るチート転生者として、後に結ばれる安政5カ国条約……いわゆる米英仏蘭露との修好通商条約を知るだけに、その前振りとして存在する感のある『和親条約』を重く捉えられないのもその弛みに作用を及ぼしていたの違いない。


(どうせ数年で上書きされる条約なんだから……うん、割り切った)


恐ろしいまでの傲慢さで、颯太は胸のうちで割り切ってしまった。

それは修羅場続きの人生で彼が勝ち得た、胃潰瘍からおのれの身を守るための超絶スルースキルの発動であったろう。

条約の内容を把握して、落着地点を測りながら適当に阿蘭陀商館長たちを揺さぶってやるだけなら、もう難しく考え込む必要もないし。なによりこのイベントは、事態の結果に責任を取ってくれる頼りがいのある防波堤があるのだから、同席するだけの下っ端オブザーバーがびくつく必要もない。


「…天狗がニヤニヤ笑い出しましたぞ」

「冷静に見ると……気色の悪いガキだなぁ」

「お酒のせいですから念のため」


いたいけな子供に飲酒させて文句をぶうたれている高官たちに釘を刺しつつも、草案の写しを新聞のごとく広げ見ながら最近薄れつつある前世の記憶を手繰り寄せる。とりあえず恥をかかない程度には、対応を誤らないために日蘭の今現在の関係を踏まえておかなくてはならないだろう。

幸いにして、いまならば優秀な補講の先生がふたりもいるのだから、抜け落ちた設問の答え合わせに使わない手はない。

えーっと……たしか勘定所の三宅さんにも聞いたけど、この時期オランダから蒸気船2隻を発注したんだよなあ。たしかそのひとつがあの『咸臨丸』(※勝海舟が乗ったやつだ)だから、まだ納品には程遠いはずなんやけど……別口で1隻無料で貰ったんだっけか? そもそもその蒸気船が手当てできたからこそ長崎で伝習所が設立できたわけで……その授受の経緯はどうなってたんだっけ。

長崎海軍伝習所のくだりは、歴史好きなら割合に知識があるものだ。たしかスなんとか号…。


「…そういえば伝習所に訓練に使う蒸気船があるとうかがってますが、あれは阿蘭陀国から買い請けたんでしたっけ?」

「観光丸のことか」


情報を引き出せて、颯太はぺろりと唇を湿した。


「そうその『観光丸』のことで、たしか阿蘭陀国から融通されたと聞いておりますが……どうですか、蒸気機関を積んでいるだけでも当世一等の軍船かと思いますが、買われたんでしたら千両箱をどれほど積み上げられたのでしょう? …また、長崎に出入りしているほかの国の同様の船と比べて、遜色など感じられはしませんでしたか?」


黒船艦隊に押し込まれてブルっていた幕府にとって、悲願とも言える最初の外国製蒸気船である。長年の取引実績があり、かつ南蛮列強の一角とみなされる阿蘭陀に幕府が泣きついた事は容易に想像できるし、それを手に入れるためならばいくらでも小判を吐き出したことだろう状況も目に浮かぶ。

買ったのか、貰ったのか。

船は新式か、旧式か。

買ったものなら遠慮は要らないし、陳腐化した旧式船ならそのことを心に留め置かねばならない。


「船齢2年と聞いとるし、阿蘭陀国王の名で上様に贈られたものがそもそもおかしなもののはずがないだろ。あまり僭越なことは言…」

「…贈られたのなら、そうですか、ロハで貰ったんですね。船齢は2年、と」


なるほど、この観光丸という比較的新しい蒸気船を、阿蘭陀は気前よく幕府に贈呈したというわけか。この開国元年ともいえる安政2年の混乱期に行われた貴重な蒸気船の譲渡は、それなりに相手の意図が込められていると見たほうがいいだろう。

永井様から聞くに、観光丸という船の諸元はこんなものである。


排水量 400余トン

船長 29間(約52.7メートル)

船幅 5間(約9メートル)

蒸気機関出力 150馬力

搭載火器 大砲6門


大きさでのクラス分けなら、せいぜいスクーナークラス(戸田村の君沢型と同等)である。江戸湾に押し入ってきた2000トン以上もある黒船艦隊の旗艦と比べれば大人と子供ほどの大きさの違いがある。むろん搭載砲門などの数も段違いである。


(過大な武器を与えた相手に卓袱台をひっくり返されたら目も当てられないし、まあ問題にならない程度の小物に抑えるのは当然か……たしか小さい船には反動の大きい大口径砲は積めないはずだし、口径が小さい上にこの砲門数じゃ火力も知れとるやろう。…近代兵器に飢える幕府に投げ与えるのに適当な物件というわけやね)


後世で言うなら、海上戦力を持たない後進国がお情けで小型の駆逐艦を貰ったようなものである。もっとも小型艦とはいえ、広大な地域に分散する植民地支配に艦隊の運用も逼迫しているだろう阿蘭陀にとって、身を切るような贈呈であっただろうことだけは想像に易い。

まあそれだけわが国との貿易が彼の国に利益をもたらしてきたということなのだろうけれども。…阿蘭陀商館長は、これだけの大出血サービスをしたうえで条約交渉に臨んでいるということである。きっと本国の重い意向を背負って、目をぎらぎらさせていることだろう。


「おぬしがどれほどのやり手かは知らぬが、取らぬ狸の皮算用もほどほどにしておくのだぞ……そのひそみ笑いを見ているだけで恐ろしゅうなってくるわ。カピタン・ドンケルクルシュース殿にはいろいろとよくしていただいてもおるのだ。くれぐれも先方の面子をつぶすようなことは口にせんでくれ」

「ドンケル?」

「ドンケルクルシュース殿だ。伝習所への教官派遣にも便宜を図ってもらっとる。…そういういきがかりで、正直強気の交渉など、川村殿はともかくオレにはなかなか荷が重いことでなぁ」

「………」


永井様のため息が、幕府の立場の弱さを物語っていた。

なるほど、彼の不用意な歴史改変が、巡り巡って伝習所からの教官引き上げを誘発し、幕末の偉人誕生が不発に終る可能性もあるわけだ。

自重をなくしつつあるおのれのせいで明治維新が史実どおり起こるのかどうか確証もないこの頃であれども、この歴史改変は充分致命傷クラスになりかねないと分かる。

…下手な介入は……まあ止めとこう、うん。


「その辺もようわきまえて、なるだけ自重はしてくれよ」


ちょ、なんで永井様半泣きなんですか。もしかして泣き上戸ですか……って、痛い痛い!

両肩をがっしりと掴まれて、がっくんがっくんと前後に揺すられる。


「頼んだぞ絶対だぞ!」


やりません! 絶対じっとしてますから!



***



阿蘭陀商館長、ドンケルクルシュースなる人物についての話や、出島内や長崎での商慣習、銀札についてなどいろいろとご教授いただく間に酒食は進み、種が尽きた後はいい感じに酔いも入ってやくたいもない颯太たちの長崎までの旅の話や、江戸の復興話とかで会話が続いた。

やや羽目を外した颯太もそのあと何杯か酒を飲んで出来上がってしまった。酒の注ぎ合いを子供と交わし続けるのもどうかと冷静になったのだろう川村様からお開きの声が上がり、宴が果てたのだけれども……そのあと胸熱の事件が颯太を待っていた。

席を立ちさあ帰ろうと障子を開けた永井様が、その廊下側で箸を片手にスタンバイしている怪しげな人影を見つけて……相手と目が合ったところまでは分かったのだけれど……何事もなかったようにふたたび障子をぴしゃりと閉めて俯いた。


「裏……裏から出よう」

「うむ、賢明でしょう」


中庭側から逃走を図ろうとした高官たちであったが、その気配を察知した廊下の不審人物たちが障子を撥ね退けるようにして室内に乱入してきた。


「これはこれは! 総監とお奉行様ではありませんか!」

「こんなところでこっそり飲まれるなんて、なんちゅう水臭い!」


颯太はただ目を見開くばかりで。

乱入してきた汗臭い男たちの畳を踏みしめる音が、それをリアルだと伝えてきていた。


「この悪太郎どもが! 酒が入ればなんでも無礼講と勘違いするでないわ!」

「永井殿、それがしはこのあと所要があるゆえ、相すまぬが先にお暇させていただく…」

「ちょ、殺生ですぞ川村殿!」


長崎海軍伝習所が開設されて数ヶ月…。

まだ年季が入ったとは言いがたい学生たちではあったのだけれども、一様にその横顔は日に焼けて、汗を吸って着崩れた着物を捲り上げた腕はがっちりした筋肉に覆われていた。

体育会系の部室の臭いをぷんぷんとさせたその男たちの乱入で、部屋の温度が一気に高まったような気がした。


「矢田堀! こいつできあがっとる……こらっ、勝!」

「おせんちゃーん、お酒追加頼んだぜぇ」


座敷に転がり込むや、あつかましく追加注文を始めた小柄な男。

まさか、である。


「ありゃあ、こんなとこにちんまい小僧がおるぜ」


目が合った。強い光を放つ双眸が、じろじろと颯太の様子を眺めてから。にかっと日に焼けたその細面が破顔した。


(勝……海舟…)


多分こいつが。

心臓が大きく跳ねた。


誤字脱字対応は少しお待ちください。


三河弁対応は、既存部分アップが終了してから振り返ってみます。

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