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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
184/288

003 和親条約と小天狗






強いアルコールがのどを焼いて落ちていく。


(……!)


目を見開く颯太。

今生はまだ子供であるので飲んだ経験などあまりないのだが、中身のおっさんには経験値がありすぎる。地酒の価値が再評価され、居酒屋に各地の銘柄が並ぶような平成時代に酒席を渡り歩いてきたのだから、酒の好みは割りとうるさいほうだった。


「…新酒だ。うまかろう」


その年の酒が出来てくる季節……ちょうどいま冬の頃が新酒のシーズンである。

季節の酒蔵でしか手に入りにくい新酒……それも水で割る前の原酒に近い独特の鼻にツンと抜ける強烈な香りが、飲んだあとしばらく経っても口腔のなかを余韻のように漂っている。


「…はい、酒は初めてですが、匂いが鮮烈ですね」

「酒は鼻に抜ける香りで千変万化の味が出る。『六十餘洲』という酒蔵のやつだ」


気に入りの酒を飲ませたかった、というところもあったのかもしれない。自分のほうが土地に詳しいと、地のものを自慢したがる人は多い。TPO的に飲んどいて正解だったようだ……かなり酔いが回ってきたけれども、彼の血筋は下戸ではないのが幸いである。

さて、仲居さんの仲裁は入ったものの、老中首座阿部伊勢守のたくらみを白状させるという目的を達していないふたりの気持ちがくじけたわけではない。現在進行形で場の圧力は再び高まり出している。

そもそも目上の人間に酌までさせたのだ、その酒を飲み干したうえはそのままだんまりを続けるというわけにもいかなかった。

颯太は御猪口を卓に静かに置くと、諦めたようにため息をついた。

やや居住まいを正しつつ、口を開く。


「申し上げさせていただけば……阿部様は凡愚には及びも着かぬような大所高所から、この世の情勢という棋譜を並べられておいででしょう。…それがしはそのなかのただの一目に過ぎませぬ。囲碁で申せば、『長崎』という星の周りでのせめぎ合いに、阿部様が何かを読んで置かれたのだろうちっぽけな石がそれがしだったというだけで」


しょせんは(はかりごと)をなすための駒ひとつの身。

地付きの小魚のごとき小役人が大海のうねりを知らないのは当たり前なのだから、無知で当然である者の目線で見解を述べさせてもらおう。


「…非才の身で愚考いたしますことお許しいただければ……先に結ばれた亜米利加(アメリカ)英吉利(イギリス)などとの条約を不本意とされた阿部様が、外事に練達した人材を欲しているのはすでにご存知のとおりでありましょう。…それがし陶林颯太が勘定奉行の川路様と知己を得る切っ掛けとなった、伊豆は戸田村での露西亜(ロシア)帝国の全権使節プチャーチン様との接見……恥ずかしながら実家の産品をご紹介させていただいたのですが、そこでの交渉の真似事が過大な評価をいただいたようで…」

「ほほう、例の焼物、《根本新製》とかいうやつのことですね。こちらの産地でもこのところ大きく噂になっていますよ。その稼業が長いのならば名前ぐらいは知っているでしょうが、磁器焼の有名どころの伊万里唐津などはすべてこのあたりが産地になります」

「は、天草ではよい土が採れるとうかがっております」


そうか、このあたりまで噂は伝わってきてるんだ。帰りがけに天草の陶石鉱山や窯元を見ていこうと思ってたんだけど、迂闊に口を滑らすと産業スパイ扱いされそうだ。


「先日は、また別の露西亜の商人相手に《根本新製》を売りつけたそうではありませんか。新型大砲を分捕って、彼奴らを半べそで追い帰したと聞いたときは、なにか新手の講談か何かかと耳を疑いましたが」


にこっと川村様に笑いかけられて、颯太の愛想笑いがひくひくする。

いままさに重要な外事に携わっているこのふたりが、ロシア商人との一件を知らないでいるはずもなかった。


「…さすが耳がお早い」

「幕閣でも大変な噂ですからね、こんな遠地にも頻々と伝わってきますよ」

「まあもう一杯飲め……こわもての露西亜人を舌先で転がしたって評判の小天狗が、今回はどうやってあの難物カピタンを料理しやがるのか……正直楽しみ過ぎて辛抱ならんかったんだらぁ。…で、あの曲者の南蛮狸をどーゆうふうに転がすつもりだがや?」


永井様が日に焼けた腕をまくって少し興奮気味に身を乗り出してきたので、その分押され気味に身をのけぞらす颯太。このひと、江戸弁崩れ気味だし、だらぁとかイントネーション的にもしかして三河出身?

ロシア商人との件がすでに知られてしまっているのならば、そのあたりの落着点で適当に茶を濁しておこう。


「あれはスイビーリ総督がうかつにコサック軍人なんかを送ってきたりしてたんで、…まあ相手がちょろかったということです。海千山千の諸国交易で揉まれた阿蘭陀の商館長が、こと国益も絡む大事な話し合いでそう易々と転がされるはずもありません。…条約締結の場には同席させていただきますが、あくまで外事の見聞を広めよというのが伊勢様のご意向です。よほどまずい内容でもない限り、それがしのしゃしゃり出るような幕はないと存じます」

「『カピタン』で、商館長(・・・)の肩書きがするりと出てきやがるか……ふふ」


あー、そうか知らないのがデフォか。

気まずそうにもぞもぞとする颯太に、手の酒をひと息にあおった永井様が不気味に肩を揺らすように笑った。

そうしておもむろに懐から紙束を取り出した。


「露西亜の高官をちょろいとかいろいろおかしなことをのたまわっとるが、…まあそれはいい、これが現状定まっておる阿蘭陀国との条約内容だ。書き込みだらけで読みにくかろうが、ひととおり目を通して思ったことを率直に申してろ」

「………」


おそらくは打ち合わせの間に用意された途中段階の『草案写し』に、以後の変更を書き加え続けたものなのだろう。押し付けられるまま折りたたまれたそれを広げて、颯太はすばやく文字情報の流れに意識を投入した。

なるほど、いろいろ紆余曲折しているようだけれども、紛れもない本物の歴史資料、かなりレア度の高かろう歴史の断片であった。



書き出し……おそらくは法律書関係でよくある『前文』というやつなのだろう。日蘭関係をより緊密にし、信牌(しんぱい)に基づいて条約を取り決めること、オランダ全権と我が国全権によって締結すること、と前提条件から始まっている。


・長崎におけるオランダ人の自由は日米和親条約およびその付録に基づくこと

・出島およびそれに付属する住居等の所有は、正式にオランダ商館に売り渡されること

・貴国政府(朝廷?)とオランダ領事は、交渉にて長崎港湾規定を決めること…


…などなどと、オランダ語と和約が交互につらつら書き連ねられている。

文章の内容を流れで読み解いていくと、これを書いたのはオランダ人側で、その草案をこちらの通詞が翻訳、清書していると言うものであると分かる。国家間の条約などに経験のない幕府相手では、どうしてもオランダ側が主導せざるを得ないのだろう。オランダ国王から全権を付託された出島商館チームが草案をまとめて、その内容を幕府全権に少しずつ理解させていくという地道な作業が繰り返されているようである。

内容的には、まあオランダ人の日本国内での権利を具体的に確定、できれば他国との和親条約を引き合いに出して少しでも拡充しよう……的なものだ。もっと膨大な取り決めが交わされているイメージであったのだけれども、わずか三十数カ条、半紙十数枚で収まってしまう程度の分量である。


(…保険契約の詐欺くさい免責事項に比べたら百倍分かりやすいな)


零細企業経営者として任意労災やら物損やら保険をかけざるを得なかったおっさんにとって、その条文は小学校の教科書でも見ているような感覚である。素人同然の幕府全権に理解させるために、あたう限り平易なものに落とし込まれているのだろうけれども。


「…ここにある『銀札』とはなんのことですか?」

「こちらの商人と阿蘭陀商館が取引をするときの両替為替のことだ。取引が大きくなると、その場の手持ちの銀が足りなくなることもある。海の向こうでは洋銀での取引が普通らしいのでな」


なるほど、銀決済のシステムがすでに長崎では定着機能しているということなのだろう。

いろいろと書き連ねられているが、後半以降は現在オランダ商館が所持している既得権を明文化して認めさせることに費やされている。まあこのあたりのシステムは颯太の知るところではないのでスルーするとして。


「…修正するとしたら、こことここですかね」


颯太の指差す箇所に川村様と永井様が顔を近付ける。両人の肩に押し出されるように背筋をそらせた颯太は、幾分離れたところに坐り直してコメントを入れる。


「四つ目の……阿蘭陀人が貴国の法を犯した場合、『阿蘭陀の国法で裁かれること』というのを、『領有者の主権に従い在地の法で裁かれること』」


まあこの時代の不平等条約の根っこを断っておきましょうか。


「そのあとの五つ目、『阿蘭陀人が貴国民から不都合な取り扱いを受けた際には、貴国民は貴国の国法にて裁かれること』というは前項のつながりでしかないので無意味になってますから、ここは商習慣の食い違いで紛争となるのを防ぐ意味合いで、全文書き換えて……『両国民は善意の解釈に従い双方の商習慣を尊重することとするが、争いが起きた場合は在地の法の裁定に任せ、その決定に従うこと』とでもしておきましょうか」

「………」

「…これではわれらが一方的に有利すぎぬか」

「謙虚も行き過ぎると侮られます。ここはわれわれの国なのですから、国内限定でも構いません、守護者たる幕府が毅然たる態度で国民を守るべきです」

「…ううむ」


この時代の人間は、すれてないというのか善意の解釈を当たり前のようにしているので、少しばかり譲った内容でも「そのあたりは相手が計らってくれるだろう」と思ってまったくノーガードで安心してしまったりする。謙譲の美徳は悲しいかな世界では通用しない。少なくとも母国からはるか遠くは慣れたこの極東の地にまで命がけで押しかけてきている阿蘭陀人たちに、曖昧な価値観は理解不能なことであろう。


「…先の他国との条約は知られてしまっている。阿蘭陀にだけ厳しく当たるようで、先方が怒りはせんか」

「幕府の方針が変わったのだといえばいいのです。他国との条約も早急に見直す、不服ならば今回の話はなかったことにしても構わない、…それぐらい言っても怒りはしないと思いますが」

「………」


先のロシア人をちょろいとか言い放つ童である。グローバリゼーションの世で鍛えられた颯太のなかのおっさんは、外国相手に脇が甘いと尻の毛まで抜かれかねないことを知っている。そもそも明治時代にいち早く外貨獲得手段の花形となった焼物業界こそ、油断したあとの辛酸を舐めさせられた嫌な意味でのパイオニアであるだろう。

その凋落を防ぐことこそが彼の根源的目標であるのだから、基本外国相手に辛口なのは当たり前であったりする。


「こいつを同席させて大丈夫かしらとか、いま思いましたね」


うろたえたように肩を揺らしたふたりに、颯太は澄まし顔で草案の写しを畳み始める。そうしてずいっと川村様に写しを返して、


「大丈夫ですよ。空気ぐらい読みますし」


ついにぶっちゃけた。


「おまん、酔っとるな」

「………」


颯太は少しだけ自省してみて、合点した。

あっ、マジで酔ってるわ。


三河弁部分を修正いたしました。

大丈夫かな?

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