002 阿部派閥の風景
さて、条約草案の進捗状況はどうだったのか……長崎奉行川村様から聞かされた内容は、やはりというかほぼフィックスな状況で、老中からの要望を細部にまでちくちくと煮詰めているところであるという。…というか、おそらくはこれからやってくるという『阿部様の秘蔵っ子御目付』が到着するまで、オランダ人たちに不満を漏らさせぬよう時間調整していたのではないか……そんな想像が働いてしまう颯太である。
すでにこの条約がらみで充分以上にストレスを与えられてきた川村様は、「さあ行こうか」ととてもよい笑顔で颯太の襟首を掴み、野良猫でも運ぶように連れ出そうとしたのだが、そこで急ぎ旅の颯太たちから漂う芳しい旅垢のにおいに気づいたようだった。
「着いてすぐにお役目というのも童には酷ですか…」
…結局、翌日までの猶予が与えられた。
庫之丞と後藤さんは傍目にもほっとしたように腰を落とし、留守居のお役人に苦笑されている。颯太もおのれの服から我知らず漂っていた悪臭にようやく気付いたように、くんくんと袖の臭いを嗅いで小さく咳き込んだ。
「さて、風呂で旅の垢を落としたあとで、旨いものでも食いながら伊勢様の企みごとをきりきり吐いてもらいましょうか……永井殿、小天狗をつるし上げるのは例の店の座敷でよいでしょう」
「そうですな、吉田屋なら伝習所の連中を連れてよく行くし、顔も利くからそれがしのほうで席を頼んどきましょう。…あの方がわざわざ寄越したぐらいだ、まさかただの御目付役というわけではあるまいし、人に聞かれぬ奥の座敷が塩梅もよさそうだ」
「ちょっ、吊るし上げって、…あ、あのですね、伊勢様の御目付などと……それがしはただいろいろと見聞してまいれ、といわれているだけで」
「老中筆頭たる伊勢様の寄越した『見聞役』が、そも御目付役でなくてなんだというのですか」
屏風水野が根回しを寄越し、老中首座が『見聞』などとはばったい名目でわざわざ派した人間が、ただの立会人であるはずがない……長崎奉行と伝習所総監理が固く信じて譲らないのも無理からぬことだった。立場が逆なら、颯太だってそんな世迷言信じたりはしなかっただろう。
まあ正直なところ、阿部様が具体的に何を考えているのかは定かではない。アメリカやイギリスなどの武力を背景にした砲艦外交は半ば脅迫のようなもので、対外的に相手にいいように翻弄されるしかない幕府としては、古い付き合いのオランダであるならば交渉の余地もあろうと期待をかけているのではないか……その程度のことは颯太にも想像できる。
実際、今回のオランダとの条約にはすでに老中が取りまとめた『要望書』が長崎奉行に渡っているらしく、そのあたりの幕府優位を引き出す切っ掛けに、読みきれない『変数』としての異端児を放り込んでみたのかもしれない。ロシア人を手のひらの上で翻弄して見せた颯太ならば、何か予想外の波が立てられるのではないかとでも思ったのかはしらないけれども……そのときふと悪戯を仕掛けて忍び笑いする阿部様が脳裡に浮かんだのは、彼の被害妄想と片付けていいものなのだろうか。
(御目付というよりも、たぶん引っ掻き回し役だろうな…)
そういう『設定』をおのれのなかで追加して、そっと深呼吸する。
いろいろと出足で失敗しているのではと据わりの悪さは依然残るものの、しょせんはすでに幕閣主導で動いていたイベントに、阿部様の思い付きで放り込まれただけの木っ端役人である。雲の上の期待のほどは想像するしかないのだけれども、諜報戦の最前線と化しつつある長崎で浮上した『露西亜ライン』の確認が今回の主任務であるとすれば、すでに固まりつつあるこの和親条約関連はしょせん『従』ということになるのだろう。
大人たちの勢いに押され狼狽気味の颯太であったが、頭が整理されることで急速に持ち前の落ち着きを取り戻した。
どうせいっぱしの幕臣面したところで、6歳児の肉体スペックではしょせんネタ扱いは変らない……信頼関係を醸成せねばならないほど長崎に長く居座るわけではないのだから、多少遊ばれてしまっても大人の寛大さでスルーするのが得策であるのだろう。
颯太は商売勘のようなものに従い、このとき思わせぶりなひそめ笑いという態度を選択した。目は笑っていないのに、口もとを吊り上げる的な胡散臭い笑み。
「…ではそういうことで結構です。でもいちおう『そうではない』とそれがしが申していたことだけは胸にお留めくださいますよう」
「……」
「……」
ふたりの大人がきょとんとしたのはつかの間のこと。
ぶわっと威圧感とともに吹き出した高官二人のやばげなオーラに、颯太は目を見開いた。
言葉よりも先に手が出るタイプなのだろう、にやっと大人な笑みを張り付かせた永井様にどーんと背中をどやしつけられて、吹っ飛ばされぎみにたたらを踏んだ。加減を知らない大人のどやしつけは、全力もみじパンチばりに強力だったため、痛みにそのまま座り込む。
その頭をわしゃわしゃと掻き回しながら、川村様が笑う。
「童とはいえ手加減は要らぬようですね」
「いっぱしに駆け引きたあ、将来が恐ろしいなぁ! ご同輩!」
こどもとっけんの通用しない、キレキレの大人とかほんと怖かとです。
***
歓迎の席が設けられた『吉田屋』という料理屋は、長崎でも相当に古い老舗であったようだ。丸いテーブルのうえに次々と出されてくる食べ切れぬぐらいの料理……いっそつつましいといえるこの時代の食事風景にあって、違和感さえ感じる『現代っぽさ』は、なるほど、腹いっぱいにもてなす中華の影響かと永井様の薀蓄語りで理解する。
盛んに出入りする外国商人たちが持ち込んだ食文化が、日本お得意の換骨奪胎と現地化を経て長崎に根付いたものらしい。和・欧・中のハイブリッド料理……長崎名物の卓袱料理である。
ことに現代っぽいと感じたこの料理の特徴は、「躊躇なく油を使っている」ところであるだろうか。天麩羅が普通に出てきたのもそうだけれども、海老か何かのしんじょう揚げとか、なにかの薄い生地をぱりぱりに揚げたやつとか、油分に飢えていた現代人の胃袋を痛く刺激する。
この丸い座卓も中華テーブルにルーツがあるのだろう。これが後世に『卓袱台』として全国に普及することになるのは、また歴史の面白いところである。
「…で、伊勢様の目的はなんなのです。小天狗殿」
「…ですから、ただ後学のために見聞してまいれと、そう命ぜられただけで……って、それお酒ですよね、それもやばいほうの……飲めませんって無理です無理ですってば」
「長崎の食い物もいいものだろう! 年寄りには少し胃に堪えるが、伝習所の若いやつらは腹空かせた鯉みたいにパクパクがっつきよる。それに酒もいい!
おーし、飲めんのならそこで鼻をつまんで一気に……」
ふたり掛りとかって、ちょっ、ヘルプ!
現代ならパワハラでしょっ引かれそうな勢いの長崎奉行と伝習所総監理。酒を便利な自白剤か何かとでも思っているのか、やたらと飲まそうと……いや、喉にねじ込む勢いで流し込んでくる。ヘッドロックとか! 仲居さんヘルプヘルプッ!
「いけませんよ子供に無理強いは」と、いじめオヤジの背中をお盆で少し小突いて仲裁に入ってくれた綺麗な仲居さんに、ああいやそのと、少しはにかむようにつるりと額を撫でた永井様。贔屓の店の看板娘ででもあるのだろうか。
颯太はこれ以上のパワハラに掣肘をくわえるべく、うるうるとした上目遣いでその仲居さんの袖の下を取り、「あ、ありがとうございます」と震える声で感謝アピールをする。そうして仲居さんの「めっ」が、効果覿面に高官ふたりを錫伏する。
「あちらでいつっちゃん生徒さんたちが、ちっとも追加注文してくれんで女将が困っとりますけん。…子供に飲ませるぐらいなら、こっちに呼んであげましょうか? 総監様?」
「あんの悪太郎どもが来ておるのか」
「…いかんいかん! あやつら相手では尻の毛まで抜かれてしまいます!」
拒絶のジェスチャーをするふたりに、ぷくっと少し不満そうに頬を膨らませた仲居さん。まあ男の性など見透かしたポーズに過ぎないのだろうけれども、客と従業員の一線を明確に意識したその巧みな手玉の取りようはべた付いたところがなく見ていて快い。
おせん、という名の仲居らしい。
(…へぇ、この店に伝習生が)
颯太の目が、自然仲居さんの向うにある障子の隙間に向けられる。ここは奥の座敷であるものの、一階の解放された店内では客たちの飲み騒ぐ喧騒がひっきりなしに続いている。後に大成するとはいえいまは無名に近い伝習所の生徒さんたちが、くしくもその喧騒の中に現実に紛れているという。
歴史ロマンについにニアミスとか、うはっ、マジなのか。
冷静に考えれば、現時点で国際条約などというだいそれた国事に参加し、そうそうたる幕府高官たちと座を囲んでいる彼こそがすでにして歴史の表層部分の際立った存在になっているという状況なのだが、悲しいかな本人の自覚はあまりない。
「…おせんを味方につけるとは、抜け目のないヤツだ」
「女子にかばわれて恥ずかしゅうないのか」
「目ば離したらまたおなじことしそうやけん。陶林様はここで、ちゃんと卓袱ば食べたってね」
「ありがと」
ふふふ。どさくさにまぎれて仲居さんの隣に引越したった。
仲居さんは常に部屋にいるわけではないけれども、下座のあたりに陣取れば廊下へのアクセスも最短である。
ようやく人心地ついて、さっきから気になっていた肉団子みたいな揚げモノを口に運ぶ。むふ、油うま。
…ちなみにこの部屋には長崎奉行と伝習所総監理、そして颯太の三人しかいない。庫之丞と後藤さんはどこか別の座敷で接待を受けているとのことである。
仲居のおせんが障子を閉めて姿を消すと、いろいろと諦めたふうに肩の力を抜いた大人たちが、御猪口に注いだ一杯の酒を、すっと颯太の前に押し出した。
「…付き合いなさい。一杯だけでいい」
子供だから、と断ることは出来るのだろうけれども、この場を支配する時代のTPOは「飲んどけ」であった。
おそらく自白剤半分のつもりであるだろう酒であるものの、年齢的・社会的身分にしてもはるか上の人物が飲めとわざわざ注いだものでもある。面子を保つためにも、受け手である颯太が飲み干さねば格好が付かないのだ。子供がどうのと理屈をこねる前にそういう状況ではないのだろう……お猪口の酒精の臭いに顔をしかめつつも颯太はひと息に煽ったのだった。