040 田舎なんてものは
名古屋から大原への移動は、馬での時間短縮を考えていたのだが、あいにくと後藤さんは扶持米30俵程度の御家人で家格要件を満たしてないらしく、庫之丞も大身旗本の御曹司なれどもやはりそのたしなみはまだないようだった。
根本代官所のお役人が意外にへいっちゃらで乗っていたので、武士ならば乗れて当たり前くらいに思っていた颯太としては当てが外れる形となった。こういうのは組織の上下関係がはっきりしている場所ほど、上位者の監視の目もあるために規律が厳しくなるのやも知れない。根本代官所は代官様からして旗本の陪臣、基準に照らせば馬に乗れないことになるのだけれど、そんなことを守っていたら片田舎である林領では誰も馬に乗れないことになるから、現実に即してある程度基準も緩められていたのだろう。
これは豆知識なのかもしれん。
「…足が痛いの?」
「…心配はご無用」
あー。駕籠は楽チンだなー。
時間短縮の思惑が外れて困っている颯太に、気を利かせた浅貞屋が駕籠を呼んでくれたのだ。むろん料金先払いで。乗るのが子供ということで、それなりに安くはなったみたいなのだけど。
「濃州の我が自領まで名古屋から7里。その程度のことは教えられている。7里ぐらいたいしたことあるものか」
「無理なときは代わっていいし」
「大の大人が子供となど…」
「到着が遅くなるのがいやなだけやよ。こっちは地元やから慣れとるし」
駕籠カキのおっちゃんらは、やはりプロというか小走り程度のスピードをコンスタントに維持して、リズムよく駕籠を担いでくれる。健脚の大人でも急ぎ足でないとついていけないくらいなので、旅慣れていない庫之丞はやはり少し遅れがちである。
かたや後藤さんはさすがに平然としたものだが。一刀流の目録とか鍛錬も欠かしたことがなさそうで、強面の印象とは裏腹に経験不足のボンボンを気遣う余裕さえある。
平坦な濃尾平野が終り下街道が最初の難関である内津峠……その尾張側のふもとには旅の安全の願掛けであるのか立派な神社がある。颯太が初めて名古屋に旅立ったときに同じく詣でた、いろいろと謂れのある内津神社である。(※【鬼っ子東奔西走編】001参照)
その参道の門前に、知った顔が彼らを待っていた。昨晩のうちに報せを先にやっていた、大原からの迎えであった。
「…ひとりだけ駕籠とは……偉くなったもんやな」
駕籠からひょっこりと顔を出した颯太に、呆れたように慨嘆する次郎伯父と小者のゲン。その後ろには借り出してきたのだろう馬が3頭…。
身内ならではの遠慮のないもの言いに庫之丞がわずかに顔色を変えたが、それはひとりだけ駕籠に乗るというお大尽待遇で気恥ずかしげにしている颯太の緊張をほぐすための軽い冗談であったのだろう。次郎伯父はそのすぐあとに平伏まではしないが深々と腰を折ってお辞儀をし、大原の庄屋の次男で颯太の伯父に当たると当たり障りなく名乗った。
「…それで、失礼ですがおふたりのお供の方はどういった方で?」
言葉遣いの丁寧な次郎伯父はなんだか奇妙な感じがしたが、迎えるホスト側としてそういった情報を仕入れておくことは重要なのだろう。颯太の目配せで、まずは後藤さんが、続いて庫之丞が名乗る。
30俵2人扶持、平均的な御家人であるとはいえ御城詰めの番方、一刀流目録という後藤さんの武士らしいプロフィールには素直に感心した次郎伯父であったが、その後に続いた庫之丞の明らかにされた出自に、次郎伯父ははっきりと狼狽した。
まあそうだろうね。
「それがしは林庫之丞と申す。こちらでは『江吉良林』と呼んだほうが通りがよいのかもしれぬが……根本大原を領す林家2000石の当主林内膳はそれがしの父だ」
次郎伯父の間の抜けたような表情には、さすがにこみ上げてくるものがあった。田舎の領地になどまったく関心も示さなかった江戸本家御曹司の、突然の襲来であるのだから。
ちらっと颯太を見て近寄ってきた次郎伯父がぼそっと
「…本当か?」
と聞いてきたので、簡潔に
「まあ、そうかな」
と答えておいた。そんな絶望的な顔しないでよ、ドッキリカメラが成功しちゃったみたいな感じでツボに入りそうじゃんか…。
ぷくっと頬を膨らませて笑いの衝動をこらえていると、次郎伯父に審判のブラインドをたくみに突いた拳骨を食らった。いてっ。
気を取り直すように次郎伯父は携えていた水の入った桶に手ぬぐいを浸し、ゲンとともに客人らの旅の汗を拭って回った。
そうして駕籠カキの雲助たちに後はいいと帰らせて、引いてきた3頭の馬に颯太たちをまたがらせると、おのれはただの水先案内人だとばかりに手綱を引いて歩き出した。
次郎伯父の吐く白い息が、枯れ色の濃い峠の景色に薄く散っていく。
峠越えは1刻ほどのものだっただろうか。
やがて峠の景色が北斜面に入って翳り、山の合間から多治見の村落が見え始める。馬上からひらけ始めた美濃側の風景に、颯太はほっと息をついた。
冬の農閑期、まさにいまが美濃焼生産のシーズンである。いたるところから窯の煙が立ち上り、製陶という第2次産業が盛んな地域であることを旅人たちに認識させる。わずかに漂う炭の匂い。
「庫之丞殿。…あれに見えるのが根本大原、林家の屋台を支える領民たちの住む土地です」
「…本当に、何もないな」
「江戸みたいに人は多くないけど、ここはいい土が採れてあの煙の数だけ器を焼く窯がある……本郷(多治見郷)みたいな盛んなところだと、米よりも焼物のほうが多くの金子を生み出してる」
「…我が家の窯はどのあたりになる」
初めておのれの家が土地持ちの旗本であることを実感しているのだろう。領とそこに暮らす領民たちにリアルを覚え始めるほどに、2000石の旗本というのが会社員ではなく諸藩に近い『領主』である事実が胸に迫ってくるに違いない。
無意識に横柄な言葉遣いに戻ってしまっているのは、おのれが領主の子であるという事実に酔いを感じているのだろう。別段それに注意を与えることもなく、颯太は庫之丞の反応を興味深く観察し続ける。
「…たぶん左端のほうの、あの煙あたりがそうだと」
「我が家のは、ひとつだけか」
「正確にはそのひとつにおいても、全部が全部林本家の所有ではないけどね。《天領窯株仲間》において本家の株の持分が39株。…実際には、あの煙の4割ほどが本家の煙やね」
「…4割か」
さらに正確に言うと、より株を多く持つ普賢下林家のほうが『所有者』と呼ぶべきなのだけど。祖父の貞正と颯太の持分を合わせれば過半を押さえている。
一度擬似的に資本主義の洗礼を浴びさせてみようか。株仲間の会合に本家の名代として参加させて、大株主ながらも過半を押さえた相手に意見を封じられる厳しい現実はなかなかこの時代味わえるものではないだろう。
一行が多治見側のふもと、池田町屋の宿場に至ったあたりで、さらなる出迎えを受けた。窯頭である小助どんと絵師の牛醐先生が手ぐすね引いたように颯太の到着を待ち構えていた。数ヶ月離れていただけに、いろいろと懸案が山積しているのだろう。
彼らの横には、陶林家唯一の家人かもしれないお幸が足踏みしながら寒さをしのいでいた。彼女は颯太の顔を見るなり表情を輝かせて駆け寄ってきた。成長の早い時期なのかもしれないけれども、もともと体格のいいお幸が女性としての姿を完成させつつあるのが、間を空けたからなのかひどく不意打ちめいて感じられる。
「お帰りなさいませ、旦那様!」
「ただいま、お幸」
おい、そこの御曹司。
なりは大きいがまだ子供のお幸にまで変な目を向けるなよ。ちょっ、なんだそのリア充もげろみたいな目は。勘弁してくれ、付き合っとれんわ。
「柿の木畑の家は、いまどこまでできてる?」
「棟上げは済んで、棟梁が床を張ってるところです! いまから見に行きますか!」
お幸は元気いいなあ。
本当はすぐにでも様子を見に行きたいんだけど、こうして次郎伯父の引く馬に乗せられているてまえ、最初の訪問先はおそらく普賢下の屋敷か、根本の代官所か。まずは祖父の在所に連れて行かれることだろう。
陶林家の屋敷が出来ていないのだから、連れのふたりの世話を考えると、普賢下の屋敷に転がり込む一手しかない。普賢下の屋敷……あの太郎伯父の姿を思い出すと、気分がやや沈みそうになるけれど。
そのあたりの問題も、今回の帰郷の間になんとか処理してしまいたいところだ。すでにそちらへの対策はいろいろと思案してある。
馬上なので背の高いお幸も見下ろす形になる。その頭をぽんぽんと撫でて、「後でね」と答えておく。お幸ははにかんだように頷いて、そのまま後ろをついてくるつもりのようだった。
「お待ちしとったわ、勘定役」
「お帰りなさいませ、陶林様」
小助どんと牛醐先生がタイミングを合わせ馬の横に並ぶように歩いてくる。
長旅で疲れているだろう颯太にそれ以上は言わないものの、物事の一段落を見計らって拉致る気満々なのだろう。彼らもそのまま一行についてくる。
道ですれ違う村人たちも、颯太の姿を見て手を振ってくれる。地元での颯太の存在感の大きさに、庫之丞も目を丸くしている。後藤さんも興味津々の様子だ。
次郎伯父の足はやはり普賢下の屋敷に向っていたようである。門前で家人たち総出の出迎えを受け、颯太たちは下馬して門を潜る。
「おじい様」
「よくおいでくださいました。この家の主、庄屋の林貞正と申します」
玄関では祖父が平伏して待っていた。
その後ろにもうひとり、背を丸めて平伏する人影がある。…むろん跡継ぎである太郎伯父なのだろう。祖父と太郎伯父の顔が上がって。
暗くぎらついた眼差しが、上目遣いに颯太を見、そして床に落ちた。握るこぶしに力が込められるのを、颯太はただじっと見つめていた。
誤字脱字、さらっといけるところは対応いたしました。
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