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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
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038 いざ長崎へ






「…お上の御用に、否やはねえけどよ」

「無理を言って悪い。…それで、時間は間に合うの?」想定よりも割りと多めの心づけを船頭に押し付けつつ上目遣いに言うと、

「風がいいから下田ぐらいまで行くつもりだったんだがよ、大島までいきゃあ御の字かもしれん」くせのあるもみ上げを風になぶらせながら、船頭は展帆にもたもたしている帆柱を叩いて急かしている。

「…ほとんど空荷だったからよかったようなもんだ。急に人数が増えたって言われても、金積まれたって無理なもんは無理なんだからよ。…それに出発を一刻も遅らされるなんざありえねえし」

「…申し訳ない」


出発が一刻(2時間)も遅らされたら、それは怒るというもの。

突然旅の供を願い出た庫之丞との問答も問題であったのだけれども、その話し合いの最中にさらにひとり同行者が乱入したのだ。

後藤さんというひとで、ちらっと見た覚えのあるお役人だった。大手門内にある下勘定所のそばに同心番所という警護人の詰め所があり、そこで勤めているのだと言われて、ああと納得した。

知的労働をこなす役職を『役方』と呼び、警護などの肉体労働を求められる役職を『番方』という。平和なご時勢、使える能吏は『役方』としてお役人業界で花形となる一方、昔ながらの武士として身体を張る『番方』は閑職として脳筋旗本の吹き溜まりのようになっている。

阿部様はもともと颯太の長崎行に護衛をつけるつもりだったらしく(子供の一人旅とかさすがに無茶振りも過ぎるし)、そちらの準備もかねての「休日」の申し渡しであったのに、どこかのせっかち者がそれを台無しにしてしまったようで。呆れたように颯太を下がらせた後の阿部様……その火急の下知が暴風のように関係各所を席巻したのだという。

護衛の適任者はおらぬかとの問い合わせに『番方』の各所が人材を推薦、その人物のキャリアなどを手がかりに後藤さんが抽出された。一刀流の目録だという後藤さんは同心番所一の腕っこきだとか。

命ぜられて身支度を整えるのに許されたのがたった半刻だったと、冬だと言うのに汗を拭っている後藤さん。にこにこと人当たりのよさそうな笑顔を浮かべているものの、こめかみのあたりの刀傷っぽい痕がなにげに物騒な雰囲気を漂わせている。もしかしたら怒らせてはいけない人なのかもしれん。

まあ庫之丞と押し問答していなければこの人も完全に乗り遅れていたので、何が幸いするか分からないものである。

ところで庫之丞のほうはというと、結局ほかの同行人が増えた一点からなし崩しのように結局同行することとなった。だってこいつ船に掴まって離れないんだもの。置いて行かれたら泳いででもついていくと顔を真っ赤にして言われたら、もうね。

そうしたまっすぐな熱意に弱いらしい後藤さんがとりなし、後ろでは船頭さんが時間を気にして苛々しだしていたこともあり、颯太も受け入れざるを得なかった。

まあ確かに出世したいのなら気概を見せろと発破を掛けたのも自分なのだから、それを実践して見せた庫之丞を拒否するのも道理に合わない。大人はおのれの発言に責任を負わねばならないものである。まだ6歳であるが中身のおっさんには大人としての自覚が不幸にも備わっていた。


「分家したとはいえ養子のぼくは庫之丞殿の弟ということになります。本来ならば兄上をお立てするのが筋なんですが、この任においてはこのぼく陶林颯太が主任者。随伴は認めますが、ぼくに対する敬意は常に忘れぬこと。ぼくの言葉を主命としてけっして背かぬこと。…それらを必ず守ることが最低条件です」

「むろん、むろん!」

「そしてこれは公費での旅。私的な従者への流用はできないんで…」


あくまで形は颯太個人が連れて行くことに決めた従者……そこに発生する旅費は主である颯太が負担すれば済む話なのだけれども、颯太の懐も実際かなり厳しい。

颯太としては、本家の御曹司として期待するだろう贅沢に釘を刺すつもりでそのようなはばったいことを口にしたのだが、無理押しをしている自覚のある庫之丞はそれを別の意味にとらえたようだった。


「…いましばし! 些少ならば工面いたします」


ぱっと岸壁へと這い上がると、止める間もなくその姿が見えなくなる。

えっ! っと驚く面々。出発時間がただでさえ押しているというのに、もしかして屋敷に行くつもりか……この思慮足らずの馬鹿ボンがと険悪な空気が漂い出す中、さすがにというか庫之丞は存外に早く戻ってきた。


「いま用立てできるものはこれしかありません…」


申し訳なさそうに差し出した庫之丞の手には、黄金色が5枚……5両(約25万円)載せられていた。

御城の西側にあるという林家本邸にこんな短時間で行き来できるわけもなく、そうでなければどうやって金を工面したのか……うっすらとした想像が、彼の腰に下げられていた得物が1本足りなくなっていることに気付くと確信に変わる。


「…脇差を質草にしたんですか」


質屋は江戸のいたるところにある。蔵前にもむろん、飲む打つ買うの太く短い生き方をする船乗りたち相手の店がいくつかあり、そういえば船宿の並びにも看板が出ていたかもしれない。

武士がその命とまで言われる刀を質草に出すというのは、清貧をもって尊しとする彼らにとって相当に恥ずべき行為とされていた。おのれの沽券にかけてでもそうした質草はかならず取り戻さざるを得ない武士の事情をわきまえているので、質屋も快く金を貸すらしいのだけれども。

むろんのこと、貧乏浪人ならまだしも、2000石の大身旗本が刀を質流れさせたとなれば体面を大きく傷つける問題になる。長旅の端緒に質草に入れて、もし帰りが遅くなって質流れになったらとか考えなかったのか…。


「…しっ、質流れになどけっしてさせませぬ! ちゃんと書き付けも渡しておいたので、質屋の遣い走りが今日中にも代金を新屋敷の本宅に受け取りに行く手はずです! …こ、これで父上に突然の出立を伝える手間も省けたというものです」

「庫之丞殿…」

「颯太様について歩けと命じたのも父、怒り狂うでしょうが用立てはしてくれると……たぶん思う。…たっ、足りねばこいつも道中で路銀に換えたっていい。…これは颯太様にお預けいたします」


残った刀の柄を叩きながら差し出された手を、颯太は苦笑気味にやんわりと押し返した。


「それは自分で持っとりゃあ」


おのれの大切な脇差を質草に入れてのお金である。そんな重いお金をほかの金子と混ぜてしまうのはなんだかいけないような気がしたのだ。

それにその限られた資金を彼自身に管理させることで、いろいろと彼の才覚も……物慣れぬ娑婆での金銭のやり取りを彼がいかにするか……横から観察することでその経済的センスを推し量ることもできるだろう。条件反射並みによこしまなことを考えているおのれに苦笑しつつ。


(…慣れない敬語で口元引き攣らせちゃって……いつまで持つのやら)


颯太に自身がどのように見られているのか不安でたまらなそうな庫之丞のようすがなんとも微笑ましかった。

この甘ったれた御曹司がこの物見遊山とはとうてい言い難い長崎弾道行になど身を投ずる決心を固めてしまうほどに、顕職に縁遠い斜陽の大身旗本というのは切羽詰っているということなのだろう。ならば社会人の先達として、彼のなかに眠る経済人としての才覚をこの長崎行で彫琢(ちょうたく)してやるのも一興。

将来避けがたく大株主のひとりとして付き合っていかねばならない相手でもあるので、そのあたりの彼の経済人的思考水準は引き上げておいて損はなかった。




かくして、佃島で廻船へと乗り込んだ颯太一行は、西行を開始した。

冬場は北東からの風が強いため、基本南西向きの西行き廻船は順風をはらみやすい。風の冷たさに閉口しつつも、その船足の早さには感動すら覚えた。


「風が強すぎると波が高くなって、それはそれで難儀するんだけどな、今日は塩梅がいい」


海に出ただけで機嫌が劇的に改善した船頭は、空荷の重石代わりに積んだ船底の砂俵にどっかりと腰を下ろして、持ち込んだ徳利をさっそくラッパ飲みし始めている。寒さを紛らわすためか、ほとんどの水夫が酒を口にしている。


「今日の停泊は、やっぱりさっき言ってたみたいに大島(伊豆大島)になるんですか」

「風がいいから届くだけでよ、時期が違や、(江戸)湾の口にも届かねえところだ。…しかしこんだけ出航が遅れると大島も厳しいか……もしかしたら三崎のあたりになるかもしんねえな」


三崎とは、三浦半島の先っぽにある東京では新鮮な魚介の水揚げ港として名の知られる漁港のことであろう。この時代にその漁港があるのかは知らないけれども。


「大島、三崎あたりの魚はそりゃぁうめえぞ」

「えっ、やっぱりうまいんですか」


この時代、保存手段の乏しい魚介類は、新鮮な食材として大衆の口に入ることはあまりない。足の速い魚はすぐに腐るし、そうでなくても常温で三日も四日も掛けて運んでは鮮度は駄々下がりである。

そういえばこっちに生まれて6年になるのに、刺身なんか食べたこともなかったな…。

その産地でしか食べられないグルメ……しかもいまは刺身の旬ともいえる冬場である。

これはテンションが上がってきた。旅の醍醐味とはまさに食道楽にあり、だ。


「ウゲゲ~ェッ」


結局三崎で夜を明かすことになった海路での初日、庫之丞と後藤さんはそろって舷側にへばりついたオブジェと化していた。何でこんな簡単に酔うのかなー。ちょっと軟弱すぎなんじゃないの。

その日晩飯は、近くの漁師から調達してきたというメバルが食膳に上がった。冷え切った身体に、熱々の海鮮鍋はとってもおいしゅうございました。煮えたメバルもおいしかったけれど、やはりというかぷりぷりした刺身に醤油をぶっ掛けた海の男たちの豪快盛りがまたとくにおいしゅうございました。

庫之丞と後藤さんの分まで、心ゆくまで堪能した颯太であった。


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