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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
164/288

036 せっかち者






そうと決まったのなら、ぐずぐずしてはいられない。

一般の6歳児と比べて痛々しいほどに世知辛くせっかちな性質になりつつある颯太が、その晩じっとしていられたかと聞くのはまあ野暮であったろう。

最初は寝床に横になってじっと天井を見上げていた彼が、あっさりと睡眠を放棄したのは夜半のこと。それから彼は忙しく旅の支度を始めた。ごそごそがさがさ、火の用心の見回りの人に咎められてからは多少落ち着いたものの、颯太の準備はとうとう朝方まで続いたのだった。

動き出すのが一刻早まればそれだけ天領窯に長く滞在できると思っているから、無駄にする時間なんかありはしないと、朝餉の準備に忙しい女中さんを捕まえて握り飯をふたつほど融通してもらうと、それをぱくつきながらまだ薄暗い道を蔵前へと突進する。まだ閉じられている御蔵を流し見つつ人の動きが見え始めている船宿のほうへと目を向け、それらしい人影にすばやくロックオンする。

朝早くからこんな蔵前にまでやってきたのは、美濃へと至る最速の船便を探すためである。何人かの水夫にいやな顔をされつつも支配勘定の権威をかさに着て情報を搾り取り、まるで高速バスの時刻表をチェックするようにメモを取る。


(運がいいぞ……今日は出る船がいくつかある)


なかでも今日朝一から荷積みが始まり、正午過ぎに出発という船が按配がよさそうである。たいてい船出は早い時間が多いのだけれど、そいつだけは荷の都合で遅発となるらしい。

颯太はその船の船頭を探し出すと、抱えてきた荷物を預けて、


「御用の筋やし。子供ひとり便乗ヨロシク」

「はあ…」

「ちゃんと待っとってよ! 待っとらんと、承知せんよ」


勘定所の小天狗はこの浅草御蔵近辺では出没機会が多いために顔が売れている。

ずびしっと指を突きつけられて、その船頭はこめかみをひくつかせながらも口をつぐまされる。江戸で出回っている小天狗の鯰絵を思い出して、その鯰が自分に置き換わるという白昼夢を彼が幻視しているなどとは颯太は露とも知らない。


「…も、もちろんでさぁ」

「あんた話が分かるねえ! 昼頃までには何とかしてくるから、待っとって」


ばしばしと船頭の脇腹を叩いて、颯太はまた脱兎のごとく御城へと向けて踵を返した。落ち着きがないもはなはだしいことである。




幕臣役方の出勤時間は割りとばらばらである。

いわゆる重役出勤というか、偉い人はごく一度をのぞき朝の4つ半(午前10時)ぐらいの登城である。その下っ端は下準備などのフォローもあることから朝の5つ半(午前8時)ぐらいにぞろぞろと出仕してくる。

冬の遅い朝がようやく明るさを増した頃、大手門内の下勘定所に最初に顔を出したのは三宅という初老のお役人だった。三宅さんは朝早くからぬくもりのこもった屋内におやっという顔をして、それから框のところに正座して控えているちんまい6歳児を目に留めた。

復旧工事の終らない本丸御殿内の御殿勘定所から一時避難している勘定衆のひとりで、御殿詰という経費の決済をもっぱらにするこの三宅さんは、颯太が狙っていたとおりにいろいろと事情に通じていたようである。


「長崎についてかい? …ああ、なるほどそういうことか」


長崎行きの辞令を発するだろう上役が来るまでの貴重な時間を、情報収集に費やすことにした颯太。

むろんそんな企みごとをおくびにも出さずに、教えを請う謙虚さ全開で用意してあった出がらし茶を勧めたりする。颯太の長崎行きの噂はすでに勘定所内に広がっているらしく、三宅さんも颯太の熱心さに感心したようにいやな顔ひとつせず親切に答えてくれた。

現在長崎奉行を務めているのは川村但馬守様と荒尾石見守様。交代制で務められていて、いまは川村様が着任されているとのこと。

長崎海軍伝習所の長が永井玄蕃頭様。

伝習所の開所が安政2年10月24日。

伝習所の場所が長崎出島近くということなど。

そして伝習所を開くにあたり費やされた関連予算に話が及んで、勘定所ならではの愚痴まで聞かされることになったのだけれども……幕府の恐るべきどんぶり勘定予算に絶句する。

まあ外国が絡むと幕府の金銭感覚が破綻するのはいまに始まったことではない。蒸気船を2隻も購入した上に予算の上限も定かにはされず、勘定所は底をついて久しい幕府財政を守りしているがために危機感がハンパないことになっているらしい。

例えばこのとき幕府がオランダに発注した咸臨丸は、10万ドル相当。一ドル=1分銀3枚のレートを照らし合わすと1分銀30万枚、7万5千両となる。

たった1隻で。蒸気船2隻で単純に15万両。


(俸給の遅配だって起こりかねないってのに、心労お察しします)


颯太としては愛想笑いするしかなかった。

さて。

伝習所開所が10月24日ということは今日が11月23日なので、設立からちょうどひと月ぐらいというところだろうか。

歴史の授業で覚えさせられるような出来事が、まだほんのひと月ほど前の話に過ぎないという不思議な臨場感に颯太は背筋におののきを覚えている。


(…まだ出来たばっかだな)


これはロシア行要員にはあまり期待はしないほうがいいのかもしれない。

勝麟に始まる選抜された第一期生はおそらく優秀であるに違いなかったけれども、帆船の航海技術から蒸気機関の運用およびメンテナンスにいたる広範な知識をわずかひと月ふた月で習得するなど期待するほうが馬鹿げているといえる。仮にロシア行きが計算どおりに4ヶ月後以降になったとしても、航海の不安を払拭するほどの経験値はその短期間に積めはしないだろう。

聞くだけ聞いてじっと考え込んでいる颯太に、受け取った出がらし茶を口に運んでいた三宅さんが軽く笑って言った。


「頭がよすぎるのもこれは考え物だねえ。その歳で長崎まで遣いにやられるのもそうだが、元服前の役付きというのもたいがい型紙破り。まあ見ている分には面白いのだけどね…」

「…もう諦めてますし」

「おまえさんの動きはとにかく目立つから、上の人間も気にして耳を大きくしているよ。…ほら、お呼びのようだ」


促されて見れば、「陶林殿」と手招きしてる人がいる。奉行の水野様が葱坊主とかあだ名をつけてるお役人の青年がいる。どうやら別室に呼ばれるようだ。




…かくして別室で水野様から内々の形で『長崎行』の任が伝えられた後、しちめんどくさいことだが手順を踏むようにすぐに二の丸の阿部様の居所に連れて行かれた。阿部様から正式に告げられることで、事実上江戸市中復興の任を解かれ、長崎行の任がそのうえに上書きされる。

上役として同道した水野様の呆れたようなため息に、颯太もまた内心激しく同意していたのだけれども、面の皮の厚い阿部様は膝を扇子で叩きながらじっとこちらを覗き込んでくる。


「…阿部様?」

「…長崎に行き、『道筋』をつけて参れ」


言葉を惜しむように、それだけ言ってまた見やってくる。

表向き颯太の任務は日蘭和親条約締結の場で、幕府代表となる長崎奉行の参与として立ち会うことである。その件についてはすでに水野様から聞いている。

南蛮国でもオランダは長い付き合いで気心の知れている相手であり……オランダの目線で言えば長年のノウハウをもとにお武家との付き合いには謙譲の精神が必要だとわきまえているので周辺への根回しも抜かりなく……およそ会談に際しての幕府の緊張はない。もうすでに他国とも結んでしまっている条約をオランダとの間に結ぶのもある意味規定路線であり、会談の意味合いとしては『条約』をお題にした国家対国家の、国王の代理人同士の話し合いの機会が生まれる、ということのほうが重かったであろう。

史実ではあまり重要視されることのなかった条約であったので、会談自体はたぶん実りの少ないものに終ることだろう。その後世史観的に『実』の少なかった国家レベルの会談を、颯太という異分子が引っ掻き回すことで『有効』なレベルにまで成果を引き出せる可能性はおおいにあるのだけれども。

国内に入ってくるほとんどの情報を脳内に納めている老中首座の目は、別の何かを追っているように思える。

試されているのだと思う。


「仰せのままに。道を拓いて参ります」

「…長崎には、いまこの国が抱える世情が濾し取られたように濃密に集まっている。それに阿蘭陀人の口のすべりはよいぞ。そちらから最近はよう『ご注進』が上がってくるのでな」


皮肉げなその口調から、オランダの国益に沿わない他国列強の幕府への接近を掣肘する情報ルートがあるのだろう。そうか、国際情勢でまた何か動きがあったのかもしれない。

きな臭くなってきやがった。そういう面倒ごとも含めて子供に丸投げしようという阿部様の胆力には恐れ入る。


「おまえの口八丁で転がすもよし、何かの『利』をちらつかせて引っ張るのもよし。多少の金子は用意しよう。出島への出入りもすべて差し許す。その身軽さを生かして存分に動き、調べ上げい」

「ははっ!」


畳に額を擦り付けて、颯太は不敵な笑みを口元に浮かべた。

もういろいろと残念なことが重なって底なし幕府沼から抜け出せぬようだから、ここは自重を投げ捨てて抜け出せぬなりに手が届く範囲内で暴れてやるのもいいかもしれない。ふふふ……これはなかなかタフな出張になりそうだ。

さあ話が決まったのなら、さっさと江戸を引き払って旅に出ましょうか!


「…旅の支度に時間も掛かろう。船の手はずなど整えさせるゆえ、今日はさすがに休みをやるゆえゆっくりと英気を養って…」

「…えっ」

「なにを不思議そうに見とるか」

「…もうすぐにでも江戸を発つつもりなんですが」

「……っ?」

「…えっ、…まずいですか?」

「………」

「船はもう手配しました。昼には船の上です」


なにか考え込むように眉間を揉んでいた阿部様が、もう行けとばかりにひらひらと手を振った。

横でまた水野様のため息が漏れたが、おそらく今度のは自分に向けられたものなのだろうと颯太は悟った。


今日の更新はここまでです。

すいません。

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