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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
163/288

035 気遣いの人






(…いいな、これ)


何度も繰り返し眺めているというのに、図案の中の気に入りの数点はまさに穴が開くほどの熱心さで見入っている颯太。


(こいつと、こいつにGOを出しとくか……ああ、ぼかしの技法もこなれてきたことだし、伝統文様の緻密な線画とうまく組み合わせるようにだけ注文をつけとくか……それで図案としてもかなり締まって見えるやろうし)


手にした図案が、ボーンチャイナのぬめっとした乳白の肌に配されたさまを想像する。もともと製造の専門家であるから、そうした立体像のシミュレートは得意である。

検討しつつ、颯太は指示書の書きつけも行っている。

デザイナーという典型的な文系職と会話するとき、不得手でもイラストで意思伝達を図るのが効率がいい。言葉という抽象表現で語るより、絵という形で見せるほうが彼らにはよく伝わるのだ。ゆえに颯太も、その脳裡に浮かんだイメージを『絵』として紙に焼き付ける。

器のどこにその絵図がはまるのか、その上でプラスアルファや配置の変更等を、三面図のような形でまとめている。書状という2次元的な伝達方法で齟齬をきたさぬよう配慮するとどうしてもこうならざるを得なかった。


(…ともかく定期的に新製のティーセットを用意して、幕府に買い上げてもらわんと資金的に厳しいし。現場は遊ばせた分だけ金が溶けてってしまうし、定期的に買わないかん『骨灰』をだぶつかすわけにもいかん……ああ、くそっ、分身を務めてくれるような有能な番頭が欲しいな)


本格的な冬に差し掛かろうという夜空はこぼれるように星の輝きに包まれている。筆を取る指がかじかんでくるのに、はぁーっと息を吐きかける。その暗がりの中に広がる白い湯気が、季節の深まりを生々しく実感させる…。




安政2年11月22日(1855年12月30日)。

江戸に呼び出されて、はやひと月半……現代であれば師走もまさに終ろうというド年末のことであった。

市中復興という激務のなかで、プライベートの『悩み事』が許される夜半、睡魔を寝技で組み伏せるように濃く淹れた茶を口に含んでもぐもぐとしている颯太に、予想もしていなかった思いがけない人物の来訪があった。


「…本当にここにおったわ。…変わりはないか、ぼうず」


月の明かりを開け放った障子の間から引き込み、その淡い光の中でその日持ち帰った根本新製の図案を部屋いっぱいに広げていた颯太は、そこに落ちかかった人物の影に、どろんとした目を向けた。


「…まさか阿部様の中屋敷とは……珍しく岩瀬殿が『飼い殺し』と毒を吐くわけよ。…この絵図はまたあの焼物の図案か何かか? 夜遅うまで無理をせぬと、二束のわらじは履けぬか」

「か、川路様…」


京に行って不在であった、川路聖謨(かわじとしあきら)その人であった。



***



「伊勢様にこき使われるご同輩が増えたと岩瀬殿から聞いたが、まさかその歳で支配勘定、あの方の無茶振りにも困ったものよ。ぼうず……いや、もう『陶林殿』であるか……あまり張り詰めすぎると、早死にするぞ」

「…早死には……たしかに勘弁ですね」


思い当たる節がありすぎる。とりあえず胃に穴が開かないようにストレスを発散させねばなるまい。

彼はいま、小石川にある福山藩の中屋敷のひと間を借り受け、部屋住みの格好となっている。急な上京であったために、呼び寄せた張本人である阿部様がいろいろと配慮してくれた結果がこの藩邸での部屋住みであった。

朝夕2食付、残り湯なら風呂にさえありつくことのできる、なかなかに至れり尽くせりの住環境である。老中首座にある殿様の指図で迎えた『客人』であるために、藩士らから腫れ物を扱うような接し方をされるのが難点であったが、いままでに培ってきた面の皮の厚さで彼はほとんどそちら方面は気にも病んでいない。

もちろん幕臣としての役宅がどこぞに与えられているはずなのだけれど、颯太はまったく興味も示さず、探すこともしていない。先日の大地震で多分えらいことになっているはずで、下手にそれを知るとやぶ蛇になる予感に妖怪アンテナがピンコ立ちしている。当然ながらそのことは知らぬ顔で押し通す。

目下藩邸から追い出されぬよう『手間のかからない客人』であることに努めている颯太は、夜でもほとんど灯明の類は使わない。寒い冬であるにもかかわらず障子を開け放って星明りで図案を検討しているのも、何気に高価な灯明の油を無駄遣いせぬためである。

すっかり冷え切った颯太の居室は相当に寒いのだが、夜道を歩いてきたのだろう川路様は旅装の厚い羽織の裾を払って、平然とその場に座り込んだ。


「いつこちらに戻られたんですか」

「昨日の昼前頃にはこちらにいた……それよりも地揺れはやはり相当にひどかったらしいな」

「…この地揺れは江戸の真下の鯰が暴れたようで、距離が離れるとそれほどの被害もないようですけど……もう行かれたのですよね? ご自分の役宅には…」

「見事にぺしゃんこになっておったわ。手紙を送って寄越していたからいろいろと覚悟しておったのだが、厩番の辰五郎には気の毒をしたが、まあ家族に犠牲がなかっただけでも良しとせねばなるまい」


川路家の役宅は地震で全壊していた。

当主不在時に災害に遭い、家人がどれほど不安に震えていたかは想像に易い。全壊であるから、そこを再び従前の状態に戻すには完全な建て直ししかない。

地震かみなり火事オヤジではないけれど、災害があるたびに被害を受ける市中の木造家屋……旗本の役宅もその被害を免れることなく、損壊するたびに発生する修繕費はむろん個人負担である。石高の1割を上限に幕府が貸付を行っているのだが、家屋全損の建て直しがそんな少々の金で賄えるはずもない。


「壊れたのなら仕方がない。建て直せばよいだけのこと」


その男前の発言を支えているものは、勘定奉行ほか阿部一派によくある状態異常的要職兼務から得られる役料バブルがあるのかもしれない。ともかく、そのあたりについてはもう吹っ切ってしまっているようで、昨日帰着、今日登城という忙しい合間に颯太のもとを訪れただろう理由……何か恐ろしげではあるものの……川路様は阿部伊勢守からの言伝に口を開いた。


「明日勘定所に顔を出せばおのずと伝わることとなったろうが、少しでも早く知りたいのではないかと思ってな。私がこの状況に引き込んだようなものであるし、責任は感じておるのだよ」


ふふふ、と川路様は颯太を見て笑った。


「長崎に行って参れ」

「…ッ!」


いったいなにを言い出すんだと颯太が目を丸くするのを眺めながら、川路様は微笑ましげに口元を緩めた。


「長崎より、阿蘭陀(オランダ)が和親を結びたいと申し出てきたらしい。おぬしも知っていようが、プチャーチン殿らと結んだ露西亜との条約と同じものだと思えばよい。会談する奉行(長崎奉行)に従い、その場に同席せよとのことだ」


日蘭和親条約……アメリカやイギリスなどの新参の外国との条約締結が目を引くこの時期、長い付き合いのオランダもまた日本市場を失うまいと遅ればせながらの条約締結を申し出てきたのだ。

その場に同席せよとは、颯太の南蛮人にまったく物怖じしない交渉力を期待する部分もあったろうが、おそらくはまだ6歳にしかならぬ彼を『外交官』として育てようとする意図もあるのだろう。

いよいよ本来の願いである焼物商売から遠ざかる流れに、颯太はただため息をつくしかない。


「長崎にはいろいろと見聞きすべきものが集まっている、それらをつぶさに調べ、報告するのがおぬしの役目だ」


そのいろいろと含みのある言い方に、颯太が気付かぬわけもない。

閉じた口の中で舌を巻きつつ、『長崎』というキーワードで思案する。


(…オランダ人と交渉するというのはそのまま受け取るとして、あとはロシアにつながるっていう商館とつなぎをつけて事前調査をしろというのにも取れるし、……それに『長崎』といえばいままさしく歴史の起爆点となる人材の集まるところがある…)


長崎海軍伝習所…。

阿部政権が行う安政の改革の目玉ともいえる施設がそれであった。少しでも歴史に興味があればその名前ぐらいは触れたことがあるはずだ。

あの幕末の麒麟児たち……勝海舟が、榎本武明が初めて本格的な『外国』に触れて、急激な精神的成長を遂げた幕末聖地のひとつである。


(…近々行われるロシアとの秘密取引は、スクーナーを沿海州あたりにまで引っ張っていかなきゃならんし、帰りの船のことも考えるとちゃんとした航海技術を持つ人材が必要になってくる……取引の性質上、外人は抜きでだ)


日蘭和親条約は逆に言えばそれこそがまさに付け足し……阿部様の意図する本命は、ロシアとの取引に必要な諸事の『穴埋め』であるのに違いなかった。

そういうことならば、颯太がそちらへ行くことにも意味はあるのだろう。


「正式な指示はあす下勘定所であるはずだ。わたしに対して承るべきことではない。…会談の日取りは師走の半ば過ぎ、ちょうどいまよりひと月後あたりになるだろう。その足で歩けば相当な急ぎの旅になるだろうが……なに、やりくり次第では実際のところ半分以下の日数で行けないこともない。…そこまで申せばおぬしなら分かるな?」

「…ッ」

「米の買い付けに大量の廻船が動き回っているいまならば、西に行くのに不便はないだろう。その支配勘定の肩書きは、こういうところで使うものだぞ」


暗に、提案してくれているのだ。

やりようでは半月ほどの時間がひねり出せる。

そうして旅の途中で、美濃に立ち寄るのも裁量のうち…。


「弦も張り詰めすぎれば切れるしかない。許されるなかでうまく立ち回ることもこの仕事を長く続けるコツよ」


役宅が大変な折にわざわざこちらにまで立ち寄ってくれた川路様の気の回しようは、まさに神掛かっている。不本意に生業から切り離されてしまっている颯太の苦悩を一番分かっている立場にある……あえて言うならこの状況に引きずり込んだ犯人の一人なのだけれど……川路様であればこそのエアリーディングであった。

不覚にも、ほろりときた。


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― 新着の感想 ―
日本が西欧列強に侵略されずにすんだのは、地震大国日本に白人たちが震え上がったというのもあるかも?
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