034 飛脚事情
電話もなければメールもない。
そんな時代にあーた、江戸と美濃、400キロも離れた場所とタイムリーにやり取りするなんざどだいは無理というものでございましょう。
非常に原始的な宅急便、運送屋のロゴの話ではなく本物の飛脚さんを使ったとしてもそれが届くまでには相当な日数かかってしまうし、途中の遺失リスクも割りと高いときている。金額のはっきりしているものであるなら弁償云々言い立てることもできたであろうが、書状というプライスレスなメディアは届かなかったら『運が悪かった』と諦めるのがこの時代の習いであるらしい。
しかもその不便さを脇において、もっと大きな問題もある。純粋なマンパワーで運営されている飛脚に相応の報酬が要求されるのは当たり前の話で、一度試しとばかりに美濃まで最速便を出したらいくらかかると飛脚問屋に聞いてみて吹き出したのはなかなか痛い思い出である。
「美濃までの急ぎですか……仕立の正三日限(3日以内)で6両いただきま」
「……あ、えーっと、一番安いのは」
「並ですな……美濃のはずれとなると少し足を見てもらいますが、それなら30文ほどで…」
「…ッ! じゃっ、じゃあそれで…」
「空き便待ちで到着日も保証できませんけど、それでよろしいんですか」
「…だいたい何日ぐらいかかるもんなんですか」
「そりゃもう……30日以上は見といてもらわないと」
「………」
たった一通の書状のやり取りだけで、片道30日だと、向うの返信を含めてふた月もかかるということである。経営が軌道に乗った成熟した店であるならば阿吽の呼吸でそれでもいいのかもしれない。
だが颯太の天領窯は、彼の指示なくしておそらくは身動きひとつままならない未熟な組織だ。品の良し悪しの判断だけでなく、完成品を浅貞屋ルートに乗せる繋ぎ役もいまはまだ颯太しか請け負えない。納品は浅貞屋に大原まで来てもらうことで何とかなるにしても、ブランド保護のために尾張藩での検品を唆してしまったこともあるので、そのあたりの流れをはっきりとまとめねばいろいろと不都合が出てくるのは目に見えている。
尾張様を釣った後の反応に触れているわけではないので現状なんともいえないのだけれども、もしも尾張藩がブランド保護にまつわる利権という餌に食いついていれば、すでに動きが出ていてもおかしくはなかった。その尾張藩の動向は尾張名古屋というローカルな地域でしかいまは確認のしようがないので、タッグを組む浅貞屋にその動向の確認と調整を受け持ってもらわねば仕方がない。
そのあたりの『お願い』は一方通行なのでいの一番に書状を送ったのだけれど。(このときは高い金を払うのはいやだけど最低もいやだという庶民的な中途半端さで『正六日限』(6日以内)銀2匁という料金で送った)
浅貞屋はびっくりするだろうけど、あちらは颯太の現況もよく知っているので、無駄な悪態をつく暇があればその役人相手の面倒な手続きに骨を折ってくれるだろうと期待できる。
販路のほうはまあ浅貞屋という優秀な司令塔がいるのでそっくり丸投げしてしまうとして、焦眉の急はやはり船頭のいないまま波間を漂っていきかねない天領窯のほうであったろう。
飛脚の急送便は資金的につらすぎる。しかしリーダー不在のまま放り出されてしまった天領窯をこのまま放置するのはもっと危険すぎる。
…かくして思い悩んだ末に、颯太はひとつの妙手にたどり着いたのだった。
「…こいつを、その堀川の浅貞屋さんに届けりゃいいんかい」
「『御用』の向きのあるものなんやわ。頼むし」
瀬戸物町に荷揚げしていた水夫たちの中から頭立った者を捕まえて、にこにことドスの利いた笑みを浮かべつつ肩を叩く勘定所の小天狗。
狙いは瀬戸物町と尾張とを結ぶ瀬戸物物流に書状を便乗させるというものだった。太平洋航路を行き来する廻船は確実に尾張近辺を通りかかるし、瀬戸物を定期的に扱っているというのなら寄港するのも確実である。しかもいまは大地震の後の幕府の統制が厳しい時期でもある。勘定所キャリアのささやきは天の声にも等しい効果を発揮した。
否やもなく押し付けられるままに書状を受け取って顔をしかめざるを得ない水夫。むろん魚心あればというヤツで、銀1匁(約70文弱)ほど握らせてやる。尾張に程近いあたりで地元の飛脚にでも頼めば、半分くらいは水夫の手元に残るだろう。浅貞屋にさえ届けば、後はいいように手配してくれるだろう。
権力の乱用といいたければいえばいい。このぐらいの役得はあったっていいはずだと真顔で言い返してやる。船便なら天候次第で5、6日もあれば尾張近辺まで届くだろう。
…で、颯太からの書状はそのように送るとして、浅貞屋側からの返信はどうなるのかというと…。
「…なんでうちがあんたの手紙の受け取り場所になってんのよ」
「これは南蛮では『ポスト』って言うものやよ。ここに書状を入れてもらえれば、店が不在のときでも受け取りができる優れものやし」
「なんで名古屋の蔵元とのやらしいやり取りを、商売敵のうちの店ですんのって言ってんのよ!」
瀬戸物町には都合のよいことに、融通の利く知り合いの店がある。
そこに設置した簡易ポストに書状が届いてないかを毎日確認するのが、ここ最近の颯太の習慣となっている。今日は油紙で厳重に包んだ郵便が入っていた。
「おっ、こいつは…」
半月ほど前に催促した牛醐先生の新案絵図が送られてきていた。
チラ見している颯太の様子につられて後ろから覗き込もうとしていたお嬢からひらりと転がるように距離をとり、絵図を懐に仕舞いこんだ。業界的には素人に過ぎない祥子だけならまだしも、番頭の平助やその辺をうろうろとしている丁稚たちに見られるのはかなり気持ち悪い。
颯太のそうした様子からスイッチの入ったらしい祥子が飛び掛り、まさに子供同士の玩具の取り合いのような仕儀となる。当人たちに自覚が伴っていないのも悪いのだけれど、本家のときと同じく我侭令嬢をいまひとつ御しきれない西浦屋江戸店の大人たちの及び腰も問題ではあった。
祥子が颯太をあくまで郷里の幼馴染的に遠慮なく接してくるものだから、店の人間たちも颯太が幕府官僚のひとりであると忘れがちであるのも一因であったろう。6歳と13歳(!)では体格の差もあり颯太はすぐに劣勢になる。組み伏せられるのはむろん颯太であり、御仕着せの羽織なんかくしゃくしゃになってしまっている。
店の人間の仲裁は入らない……ガタッ!
…えっ?
「さあもうそろそろ戻りましょうかねえ陶林殿」
表情を引き攣らせた庫之丞が台詞棒読みでふたりを引き剥がした。
ああ嫉妬爆発というヤツですね分かります。引き剥がす振りをしてやけに未練がましく祥子の腕から手を離しているのがなんともほほえましい。
何か感じることがあったのか祥子が珍しく庫之丞を見ている。敏感にそれを察知した庫之丞は立ち上がりかけたまま硬直したのだけれど…。
「…ただのお付きがなんでそんな偉そうなの?」
「……ッ!」
その言葉がいかに庫之丞青年の心を傷つけたかは察してあまりある。
この時代多治見盆地で最大級の領地を持つ旗本様の御曹司が、半士半農の庄屋の孫……いまは養子縁組して分家当主になったとはいえ高々40石取りの……どこから見てもちんまい6歳児でしかない颯太の『ただのお付き』扱いを受けたわけだ。
爆死……絵に描いたような爆死というやつである。
「…どんまい」
「肩を叩くな」
…そうして瀬戸物町の西浦屋を辞去するふたり。
不安定ながらも天領窯との連絡チャンネルを手に入れホクホク顔の颯太とはまさに対照的に、ずーんと鉛を呑んだように血色の悪い顔を俯かせて歩く庫之丞。さすがに痛々しくて哀れみを覚えた颯太であったが、6歳児に恋わずらいを指摘されるのは彼の沽券に関わる問題であるようだ。…むふふ、しばらくいじりネタとして楽しませた貰おうか。
2000石の大領を持つ旗本の御曹司なのだ、それを当て込んだ縁談など腐るほど舞い込んでいるだろう。おそらくは家を継ぐか正式な役職をたまわるような人生の節目にあわせて親御さんがセッティングするものなのだろうけど、まあこの時代の婚儀など拒否権などないし、人生経験のない馬鹿な男ならば単純に美人に目が吸い寄せられるものである。祥子お嬢がその『美人』であるのかは個々人の主観の問題であるといえたが、恋愛など麻疹のようなものであり、将来を約束された庫之丞のような御曹司でも簡単には割り切れるものではないようだ。
まあ御曹司の色恋沙汰などはとりあえずまあどうでもよいとして、届いた図案をはやく確認したくて仕方がない。
どん底まで落ち込んでいるおのれとあまりにもかけ離れた『幸せ者』が目にまぶしかったのだろう。庫之丞の視線に気づいて颯太が顔を上げると、「まさか泣いたのか」と突っ込みたくなるほどに赤らんだ目があった。
「…自分だけ浮かれやがって……何がそんなにうれしいんだ」
「だって……男なら分かるでしょ」
「…ッ!」
颯太がぽつりと漏らして瞬間に、庫之丞の目がくわっと見開かれて、次の瞬間胸倉つかまれて吊り上げられていた。
「…そんなに…大きかったのか」
「…えっ」
「くそっ、柔らかかったんだな! あ~ッ。ガキのくせして! クソッ!」
「焼物に燃えあがる男のロマン…って、えっ?」
仕事にこそ人生最上の喜びを見つける男のロマンの境地にはぜんぜん達していないエロボケザルには会話が通じませんでした。
あったなぁ、頭がエロでぐるぐるになってた時期とか。
颯太は胸倉をつかまれた状態でぽんぽんと庫之丞の肩を叩き、にやっと笑ってサムズアップした。
「そこまでは大きくないが、将来期待だ!」
うわっ、なんとなく乗ってみたら本当に泣き出しやがった。
静かに男泣きとか、すまんツボにはいった。とっさに俯いて笑いをかみ殺している颯太に、哀れ庫之丞青年は立ったまま灰になった。