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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
161/288

033 鯰絵





露西亜とのスクーナー取引を具体的にどのように進めるかはむろんこちらが勝手に決められるものではない。

カムチャッカもしくは沿海州近辺にあるに違いない軍港、あるいは相手方の元締めであるシベリア総督の御膝元で初回の取引を行いたい旨……引き渡す現物を現地まで曳航していくのでその場で即時即決して欲しいと、海上戦力を喉から手が出るほど欲しがっている露西亜が食いつかずにはいられないだろう餌を修飾巧みにちらつかせるけっこうやらしい文面なのだけれど……一通の書状が阿部様の手によって綴られ、半刻もせぬうちにあの恐るべき通信システム継飛脚がそれを懐にたくし込んでお城を発った。

向う先は長崎である。

これは外交のパイプが作られつつある証しといっていいのだろう、現状国内でもっとも門戸が開かれている長崎にひそかに名義人が書き換わった商館があり、表立っての主人にある符丁を示すことで露西亜への頼りなくも確実なホットラインが繋がれることになっているらしい。

このころ西欧諸国に蚕食されまくる清王朝の魔都上海も、アヘン戦争を皮切りに列強がぶん取った租界がスパイ天国であったのは有名な話である。その諜報戦争の波が上海便の重要な寄港地である長崎に波及しないはずもなく、一般人には知られない裏側でいろいろと物騒な動きが始まっているようである。

これで幕府の意思が書状にて発されたことで、事態は動き出してしまった。

スクーナー取引はすでにルビコン川を渡った。その時点でもう颯太の江戸拘束は確定してしまっている。何らかの動きがあったときに彼の居場所が分からぬなどということでは幕府が大恥をかいてしまうことになりかねないのだから当たり前の話である。

理性ではそうだと納得しているのだが、商売人としての彼の欲求不満は精神衛生上非常によくない危険な高まりを見せつつある。江戸の町だってまだ復興とは程遠い荒れ果てた状況であるというのに、これではいつ美濃に帰れるのやら。


「まあしばらくは市中復興に尽力していろ」

「江戸の惨状を目にしているのにそのついでっぽい言い方は、為政者としていろいろとダメだと思いますが」

「憎まれ口を叩いても、休みはやらんぞ」

「いい働きには適度な休養が必要だと、たしか史記に出てくる偉い人が言ったとか言わなかったとか…」


むろん、そんな人はいなかったりする。部下の労働環境に無頓着な上司に対する嫌がらせである。


「ならば大忙しの日が3日続いたら、1日だけほどほどに忙しい日にすることを許そう」

「………」

「…これが『馬匹道』です、陶林殿」


岩瀬様……いろいろと諦め過ぎじゃないですか。

この人は言われるままにフル回転して、他人の数倍は仕事をこなして来たからこその肩書状態異常なのだろう。有能で仕事ができてしまうことが不幸の始まりである。

幕末の三俊といわれた岩瀬忠震も、実際は阿部様という鵜匠に縄で繋がれた鵜のようなものなのだろう。高禄は食めどもプライベートは振り回してくる上司のために絶無、…現代に彼のような存在を形容する便利な言葉がある。


「いわゆる社畜ですね、分かります…」


がははと笑い声を上げる阿部様に、ふたりの社畜は小さく肩を落としたのだった。



***



継飛脚で長崎まで10日弱、そこから上海に向うのか別のルートがあるのか定かではないが、シベリア総督の手元に書状が届くのはだいたいひと月後ぐらいだろうか。単純に計算して、返答が来るのは約2ヵ月後。

そしてこれは運が悪いとしか言いようがないのだけれども、ちょうどそのころは真冬である。大陸から張り出す寒気団と強い北風、そして荒れた海原は外洋に慣れない水夫では厳しいどころの騒ぎではないだろう。

せめて日差しの緩む春を待つことになれば、さらに2ヵ月……その後船で露西亜へと渡り、戻ってくるところまで考えたならば、颯太が無罪放免となるのは最低でも半年ぐらい後のこととなる。

その間、颯太は天領窯の経営から物理的に切り離されてしまうことになるのだが、むろんのことそんな状況を諾々と受け入れるわけにはいかない。


(こっちからある程度遠隔操作できる体制を作り出さないと……それにこっちででもぼくにできる商売の道もある)


無為に半年という時間を空費するわけには行かない。

やれることはいろいろとあるはずなのだ。


(西浦屋ですら江戸支店があるんやから、天領窯にだってアンテナショップがあったっていいと思うんやけど……ただ天領窯には店頭販売するほどの商品量はないし、そもそもそちらのほうは浅貞屋に丸投げしてる手前、原則的に直販は禁止……直接販売に手を出さないことで抑えられている経費もあるんだから、その方面は要検討か)


ならば『根本新製』のトップセールスマンとして、某元県知事のようにあらゆる機会をとらえてプロモーションしまくるか……幸いに幕府のお偉方につてはできてしまったし、その絡みから民間の資本家にもつながりを模索できるだろう。

冷え込みの強くなってきた初冬の空気は、吐く息をほんのりと白くする。

冷えた手をこすり合わせ、暖めるように両袖に突っ込んで腕組みした颯太は、ぶつぶつとつぶやきながら街中を歩いている。

『阿部派の小天狗』として顔が通り始めた颯太は、御役所やその他関係先に支障なく出入りできるようになったため最近岩瀬様とは別行動が多くなっている。あの人も相当に忙しいので、颯太にばかり構ってはいられないというのもその通りなのだけれど。

江戸拘束が決まったあのときから早数日、おのれの精神を衛生するために思案した諸々の方策を形にすべく、職務の傍ら仕掛けをして歩いているというのが最近の颯太の活動スタイルとなっていた。

朝に御城に出仕して、大手門内にある下勘定所でそこに詰めていることの多い岩瀬様ほか勘定所のお歴々と軽く打ち合わせをしたあと、担当の復興現場を見て回るというのが近頃のお定まりコースとなっている。その道すがら、復興の汗を拭い白湯で喉を潤している町人たちの湯飲みや茶屋の軒先で散見される器の数々をリサーチして、全国各産窯の品の占有率をひそかにまとめるのも日課のひとつとなっていた。


(この茶屋は駒焼か……あっちの産地が近いからなー)


駒焼。

現代では正式に相馬駒焼というのが正しい。福島にある達筆な馬の下絵付けを施した味のある焼物である。江戸の住民の半分は御武家であるので、そのステイタスの象徴でもある馬の意匠は結構好まれているようである。下勘定所の役人の湯飲みも、駒焼が多かったりする。

正直、そうして広く親しまれていることに窯経営者の端くれとして、ジェラシーが疼かないでもない。


(根本新製のアンテナショップ、販売目的じゃない形で何とかならんものかな……たとえば……急には無理だろうけど、オープンカフェとか)


カフェならば、今ティーカップを作っているのは天領窯のみなのだから、自然と西洋茶=根本新製という等式のもとガンガンアピールできる。

天領窯の経営戦略上、国内へのコーヒー紅茶文化の導入は必須となる。

ゆえに颯太もその方面の話には耳をそばだてていた経緯で、長崎経由ですでにコーヒーが国内に持ち込まれていることが分かっている。入手量が少なすぎて根付かなかっただけで、文化のグローバル化はひたひたとその足音を近づけている。

長崎にまで出向ければ、すぐにでも出入りのオランダ人やイギリス人から豆なり茶葉なりを買い付けて、江戸でアンテナショップを立ち上げるのに。

もの珍しい飲み物を、もの珍しい茶器でいただくという『南蛮茶屋』というスタイルは、新し物好きの江戸町人の興味を掻っ攫うことは想像に難くない。


形態が簡易なだけに営業再開が比較的早い茶屋はどこもかなり混んでいる。

町人の金回りがよいのは颯太発案の『米証文』が一役買っているのだが、そのスポット相場で盛り上がれる立場にない彼にはいまひとつそのご利益の実感が乏しかったりする。

そうしておのれの妄想に鼻息を荒くしている颯太の背中に、少々イラついたようなぶっきらぼうな声がかかった。


「行くなら行くぞ! いちいち立ち止まりやがって!」


いらいらと睨みつけているのは、まあ本家筋のストーカー君なのだけれど。


「おまえいま何かめちゃくちゃ失礼なことを考えただろ」

「………」

「その安い笑顔を止めろ、うっとおしい」


ちっ。

大株主の息子でなければ今すぐに金的蹴りでもかまして逃げ去っているところだけれど。苦い現実に舌打ちしつつ、颯太は再び歩き出した。


「…庫之丞殿も、こんなぶらぶらしとる間に、御屋敷でいろいろとやらないかんこととかあるんやないの」

「…なんだ、急に」

「いろいろと御城で耳にしたもんやから……城のなかで詰めとる人も暇さえあれば自分の役宅の修理に追われとるみたいやったから、本家のほうもいろいろあるんやないかなぁと」

「そんなものは全部下人や女どもが何とかする。父上に任された一等の仕事がおまえの『付き添い』なんだからそいつを優先するのがあたりまえだろう。幸いうちは火事にもならなかったし、たいした修繕もない。おまえは余計な気を回さずに、せいぜい俺を上の方に紹介することに注力するがいい」

「………」

「…で、今日はあの瀬戸物問屋には寄るのか?」


この色ボケザルが。

颯太が仕掛けの一端として結構な頻度で西浦屋に顔を出すようになったことで、この御曹司の祥子に対する慕情が確たる形を伴い始めているようだった。

西浦屋で重要な客人として遇されている颯太に、令嬢である祥子もかなり親密に会話を交わす相手となり始めている。そのたびにジェラシーの炎に焦がされているこの青年は、その眼差しでおのが想いを伝えようとしているのか祥子をガン見してドン引きさせている。

むろん最後には寄るつもりであるのだけれど、庫之丞を喜ばせるのは非常に癪なので敢えてだんまりを決め込み、見回りのコースを脳内で最大距離に再設定する。


「おい…」

「見て回らなかん長屋の現場が多いし」


市中のいたるところで、集中生産が功奏したプレハブ長屋が着工している。その進捗を確認して回るのも颯太の担当となっていた。

つぶれた家屋はもったいない精神が息づく江戸の町では放っておいてもリサイクルが始まり、きれいに片付いていってしまうのだろう。損壊のひどかった地区はすでにきれいに更地になっていて、そういった地区ほどプレハブ長屋が優先して着工している。更地が多いので、そうした建築現場がよく見渡せる。

人の多く集まったそうした現場のひとつに近付いていくと、材料搬入早々に上棟が始まってしまうパレハブ長屋の即製っぷりにぽかんと見入っている町人たちの会話が聞こえてくる。


「噂の『仕組み長屋』ってのは、ほんとに組み立てるだけなんだな!」

「初めて見たときゃたまげたぜ! 左官屋の塗った土壁が乾くのに日がかかるだけで、2、3日もありゃ仕上がっちまうんだそうだ」

「見てよ、雨戸までもう仕上がってあそこに積んであるんだから! あれはめたらもう立派な家じゃない」

「最初から全部用意して組み立て始めさせるなんて、奇天烈なことを考えるやつがいたもんだぜ」

「…なんでもこの仕組みを考案したのがあの《小天狗》だってよ」

「なんだそりゃ! ほんとかよそれ」

「『木工場』で働いてる大工に聞いたんだ、間違いねえよ」

「…そりゃ『鯰絵』にもなるわな」


…聞かなかったことにしておこう。うん。

それよりもなんだその『鯰絵』ってのは。

気になることを耳にして、颯太の目が通りかかる家々の玄関あたりに貼ってある擦り絵に目がいった。

『鯰絵』とはここ最近で急に流行り出したもので、地下で地震を起こしていると信じられている鯰と、それに対抗する神様が勇ましく調服しているという体裁の擦り絵……配色の少ない浮世絵のようなものであった。

地震除けの護符代わりなのだろう、家の見えるところに貼ったり折りたたんで持ち歩いたりする町人が多いのは知っている。質素倹約令によって浮世絵が規制されているというのに、この地震の混乱のさなかから新たな流行が生まれる江戸の文化創出力には恐れ入る。

近くに寄っていくつかの絵図を見比べると、巨大鯰を神様が踏みつけていたり、民衆が寄ってたかって押さえつけるような図案が多いようである。


(『鯰絵』になるって……まさかな)


不安を振り払うように、颯太はまた歩き始める。

目立っているとはいえまだ彼が町を歩いていてもすぐにそうと気付く人は少ない。が、たまに両替商や勘定所絡みで顔を知られている御用商関係者からお辞儀されることも多くなってきている。

米証文を扱っている両替商のひとつ播磨屋の前の人混み……証文を握り締めて換金待ちの列を作る町人達の後ろを通り過ぎるとき、そこにも『鯰絵』が貼ってあるのが見えた。

近くに寄ってまで確認することははばかられたけれども、なにか鯰の上で赤い生き物が飛び上がっているような図案だけが見て取れた。

ぶわっと一気に額に汗が浮いてきた颯太であった。


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