031 造船談義
『幕末』、という怪しくも混沌とした年間が間近に迫っている。
そのどこか特別な響きのある時代言葉が、徳川の治世の終焉をどこか美化するような、ロマンティシズムの眼鏡を通して見ているような感じがするのは気のせいであるのだろうか。
戦国の争乱の果てに誕生した史上3度目の最も強大な武家政権……盛者必衰の理をなぞるように時代のカタストロフに落ちていく大徳川の滅びの情景を、後世の歴史を俯瞰する者たちが特別視する向きがあるのは否定できない。傍観者にとっては魅惑的な刺激に溢れた動乱の時代であり、人々の国家観をコペルニクス的に変換するその年間……あまたの偉人たちの人生絵巻が火花のように輝きを放つわずか十数年の年間に『幕末』という特別な呼称が与えられたのは、多分に歴史好きたちの思い入れが含まれているのは間違いない。
その『幕末』のとば口……江戸幕府衰亡の節目で分かりやすいのはむろんのこと彼の『安政の大獄』であっただろうが、その政変を引き起こす切っ掛けとなった井伊直弼の台頭の契機はまさに安政の江戸地震……阿部正弘の老中辞任と江戸復興のもたつきが幕府のけちのつき始めであったといえるのではなかろうか。
その阿部様の健康不安を目の前にして、時代の動揺を感じずにはいられない颯太の胸中は苦しく重い。
「…桑名に一艘船を差し向けるぐらいならば、全体に与える影響も知れておろう。好きにするがいい…」
「また隠れて酒を飲まれたそうですね。…本当にお身体のことを考えるならば金剛石の忍耐力で禁酒をお守りくださいますよう」
「…加減が悪くなるのもたまのことだ。今すぐどうこうなるようなものではないわ。ああ、そのようなことはもう後回しにせよ。それよりもはよう手を打たねばならんのはすくうなあの建造よ……伊賀」
脇息に肘をついたまま力のこもらぬ声を上げる阿部様に、岩瀬様がいらえを返す。
「今回の江戸への材木差し回しの現況と材木商らからの聞き取りで、造船所建造に適した候補地はいくつかに絞られておりますが…」
「木材を集めやすい場所であることが前提だが、南蛮人どもの目が届かぬところを慎重に選ばねばならん。露西亜へと引き渡すのならば表側(※日本海側)の便がよさそうだが、わが国のすくうなあ交易が露西亜帝国の戦船増強に寄与することを良しとはせぬ国もあろう……船載の大筒で容易には焼き払えぬ国土の内奥あたりに置くことも考えねばならん。黒船の容易には入り込めぬ瀬戸内か、遮るものの多い湾奥……そのようなあたりになるか」
思案するようにふくよかな顎を揉むようにする阿部様。寝室に近い奥の間であったので、元から少し薄暗かったのだが、普段に増して阿部様の顔色は悪い。
先日交渉した露西亜人ボリス・イワノフが帰国してだいたいひと月半ほどが経っている。スクーナー取引という餌にシベリア総督が食いつくのかどうかはその時点では不確定……あのときの感触からして可能性は非常に高いと颯太は踏んでいたが……数日前にとうとうシベリア総督の親書として取引に応じる旨が伝えられたという。
クリミア戦争のさなかにある露西亜は極東方面の海洋戦力が低下しているのか、自国の船ではなく上海からの他国船に客として便乗するというかなりこそこそモードで使者を送って寄越したらしい。小型とはいえこの時代の駆逐艦に相当するスクーナーはいままさに喉から手が出るほど欲しいもののようである。
シベリア総督からの書状を受け取った阿部様は、静養中だというのにいたく興奮してそれで禁じられていた酒に手を出してしまったようだった…。
「崩れた台場の旧式をすべて取っ払って、より堅牢に固めた台座にあの新式砲を設置させる。口径に合わせた匁玉が準備できしだい、早急に試し撃ちをさせる予定だ。…それがあの黒船どもが停泊していたあたりにまで届くようなら、こちらも強気の交渉を挑めるだろう……すくうなあを次々売り払って、新式の武器弾薬をもっと手に入れられれば、使うに使えぬ預かり物に指をくわえていることももはやないわ。…メリケンと対等にやりあえたなら、他国との交渉にももっといろいろなやりようも出てくるに違いない」
もぞもぞとしたかと思うと、行儀悪く足を崩して、脇息ごと懐へと抱え込んでしまう。いても立ってもいられない様子である。
「…豊富な良材を求めるのならば熊野か、飛州(飛騨)か……船作りの盛んな地に作れば船大工どもの協力は得やすかろうが……しかし瀬戸内は江戸から遠すぎる」
「阿部様…」
颯太は思惟に沈んでいきそうな阿部様を呼び戻すように声をかけると、気持ち膝を進めておのれがしばらく考えていた案を提示した。
「伝え聞きますに、彼のメリケンの黒船……あの黒く見えた船体は、信長公がかつて作らせたという鉄甲船と同じ、鋼の装甲を張って防御力を高めたものとか。矢玉への防御力を強めたそうした鉄甲船が世界での主流となりつつあるのではないかと推察いたします。…であればいずれ鉄板の艤装を施すにも溶鉱炉のある場所に造船所を構えるのが普通となると思いますので、此度のすくうなあ建造の場所はしょせん仮初の地、…ならば材木調達の利便と江戸からの距離のみを勘案してお決めになればよろしいかと」
「なんと、あの黒船どもは鉄甲船であるのか!」
こくり、と颯太はうなずいてみせる。
実際は防弾装甲の船はまだ世界でも作り出されては折らず、ただ船体をピッチと呼ばれるコールタールで黒く塗ることで防水・防腐処理をしていただけである。が、そんなことは阿部様は知らないし、後のことを考えて造船技術の進歩の筋道を注入しておくことに意味はある。
たしかヨーロッパで鉄装甲の船が登場するのはもう少し後だったような気がする。こうして考えると、16世紀に鉄甲船を発想して見せた織田信長の先見性が輝きを放って見える。
「…そうか、南蛮ではすでに鉄甲船さえも普及しておるのか……あれだけの大筒で撃ち合っているのだ、鉄が安く手に入るのなら防備にも回すのが当たり前か」
「ではやはり候補は熊野か飛州の材木が集まる桑名のあたりで…」
岩瀬様が軽く方向性を絞ったところで、颯太はさらにいくつかの注意点を喚起する。
「紀伊様などの御三家の地はお控えられたほうがよろしいかと。政情によってはその虎の子が政争の道具にされかねません。また飛州からの水利に恵まれた桑名のような利便の地は、街道の要衝でもあり人の目に晒されやすうございます。この露西亜との交易はあまりおおっぴらにしてよいものとも思われませぬゆえ、できうるならば人目に付かぬことも考慮して設置されるのがよろしいかと」
「…うむ」
もしも木材を安価にしかも大量に手に入れることだけを考えれば、本来ならば手付かずの自然が残る蝦夷地のようなところが理想的だろう。だが江戸からあまりにも遠く、未開拓でありすぎるゆえにそれ以前の労苦がまず頭をよぎってしまう。
紀伊熊野は豊かな材木と九鬼水軍ゆかりの地ならではの造船に関しての伝統的な技術力が期待できる。…が、御三家の影響下にそれを置くと、状況によっては理不尽な要求の人質とされかねない。時代は幕末間近だ。これは相当に可能性が高い。
桑名は代々譜代藩の地でいまはあの寛政の改革を行った松平定信の子孫に当たる松平定猷候が治めている。譜代藩であり老中も輩出している家柄なのでお願いはしやすかろうが、いかんせん船荷の集まる要衝でもあるためその海岸に造船所など築けばすぐにスクーナーの異形が噂となってしまうだろう。恐れるべきは人の耳目であり、近く条約の締結に乗り込んでくる外国人たちの耳に情報が伝わってしまうことだ。
海外利権の争奪を繰り返す彼らにとって、極東露西亜の戦力が拡充することは好ましくはないだろう。それへの幕府の関わりを知れば、大砲で焼き払うなどの強攻策に出ることも十分に考えられる。
ならば現状、幕府の防備が最も整った場所とはどこだろう?
颯太はおのれの思案を吟味しつつ、口にした。
「…短期的に復興需要で木材の用立てに難がありますが、台場砲台などで防備を固めている江戸前の湾内が最適地かと。防備が固く、程よく江戸の町から距離のある場所といえば、横浜、浦賀、横須賀あたりになるのでしょうか。そのあたりならば幕閣の管理も届きやすいでしょうし、台場の配置如何で防御を厚くすることもできます」
言葉を紡ぎつつも、案の内包するデメリットにも意識を向ける。
アメリカ黒船艦隊の使節上陸地点は、一回目の来航時は浦賀、2回目は横浜であった。どちらも東京湾の西岸であり、まさに『発見してくれ』と言っているような場所であるのだが、逆に言えば次の修好通商条約の年、1858年までは安全なのだということもできる。
(むしろそのときに、鉄壁の砲台陣地と建造中の洋式軍艦を並べた本格的なドックを見たアメリカ人はどう思うのだろうなぁ。…ぎょっとして青くなる彼らの顔が思い浮かぶな)
むふふ、と思わずほくそえんでしまった颯太は、阿部様の視線を感じてコホンと咳払いした。
後世でも大規模な造船施設が立ち並ぶこととなる場所でもある。立地的にもまず失敗はないだろう。
「台場で守るのならばたしかに理にかなっているのかもしれんな。…しばらくは材木を江戸復興に取られようが、需要もそろそろ落ち着き始めておる頃合いだ、多少はそちらに回しても支障はなかろう」
「韮山の鉄を持ち込むにも近うございますな」
岩瀬様の反応も悪くない。
「…うむ、悪くない。それだけ近ければわれらの管理も行き届こうゆえ、差配もし易かろう。…忠徳をここへ呼べ!」
近習を呼ばわり、阿部様の指示が飛ぶ。
療養中のことでありここは福山藩の上屋敷。遣いに走った近習の向かう先は忠徳こと勘定奉行水野忠徳様のところである。むろん水野様も阿部様が引き上げた人物で派閥の一人である。おそらくは造船所設置にかかる財政的な問題を水野様にぶん投げるつもりであるのだろう。
復興予算のやりくりで荒ぶる水野様がどんなリアクションを見せるのか、怖くて想像もしたくない。
水野様の到着を待つ間、尽きせぬ相談事で語り合った3人であったが、颯太は話している間中なにげなく足の指先を揉み続ける阿部様の様子に胸騒ぎを抑えられずにいた。
本人は何も言わないのだが、もしかしたら指先の痺れがひどくなっているのかもしれない。いまは気分が高揚しているから気にはならないのかもしれないけれども、痺れがひどくなると足全体の感覚が鈍くなり、そのまま症状が進行すればいずれまともに歩けなくなる。
「…指先がしびれるんですか」
「………」
目線を外された。
時代のキーマンの不摂生の背後から、幕末の足音がひたひたと近付いてきているようであった。