027 江戸病
この時代の学究の徒というのは、マジでやばい。この医師もそうであるし、先日の通詞の男もそうであった。
幕末も近い江戸後期、長らくの太平を支えた『中世的停滞』……その鎖国体制のほころびが無視しえなくなっている昨今、出回りだしている海外の進んだ文物を貪欲に漁っている人たちが大勢いる。
学者や技術者……そのなかでも道を極めることに貪欲な学究の徒が特に多いのはやはり医療系であったろう。漢方医では対処することも叶わないいくつもの難病に、西洋医学が何らかの回答を見出していることが多かったために、患者の死という厳しいリアルに対面し続けてきた医師たちが熱心に蘭書を読み漁ったのは自然の流れであったといえる。
「…白米食をすることによって江戸病が発生するという見立ては、どこの誰のなんという書から読み取られたのか、この不才めにお教えいただきとうございます」
そう宗伯先生に懇願されたところで颯太にそれをかなえる手立てなどあろうはずもなく。
どこそこの本で読みましたけど……颯太の至高の言い逃れは、ここでは完全に墓穴を掘る最悪手となっていた。海外の情報が割合に得られやすくなっているこの時代においても、まだ流通する書物の数にはやはり限りがあったのだ。
書物の集まるところにこの手の輩も群がるし、原本が少ないから彼らの手によって手書きのコピーが再生産されそれがまた世間に拡散する……その繰り返しが全国で起こっているわけで、そちらでの太い情報源を持っていれば国内で手に入る書物のことなどあらかた調べがついてしまうらしい。
この浅田宗伯という先生、実は後世に『浅田飴』の名で広く知られることになる薬の処方を考えられた方で、その商品名もむろんのこと先生の名に由来している。もちろん颯太はそんなことなど知りようもなく、その勢いにただ圧倒されるまま冷や汗をかくしかなかった。
やばいやばいやばい。
眼力に気圧されながらも考えをめぐらせていた颯太は、持ち前の肝の太さで次第に落ち着きを取り戻しつつ、思案の手がかりを得るためにジャブを放っていた。
「…江戸病の原因は、まだご存知でないのですか?」
白々しいところではあったけれども、こういうときこそ落ち着きを失ってはならない。自分のしでかした失敗が何かは、もうこのとき颯太も自覚している。
江戸病=脚気という知識は後世なら教科書で習うレベルのものであり、ゆえに軽はずみに口にしてしまったわけであったが、この時代の当事者の視線から見れば現在進行形で原因の不確かな、しかし大勢の患者が毎年命を落としている厄介な難病なのである。
失敗したときは、次善の手で……揉み消しの経験則から編み出したさらに踏み込んでの寄り切りが上策! 土俵際まで一気に持っていく!
「宗伯先生も、患者さんには治療のための薬とか出しているのでしょう?」
「わたくしは蕎麦を食すよう促しておりますが……ただこれは薬というよりも経験的に申されている療法に過ぎず、思うように快癒に向わないこともありましてな」
なんだ、やっぱりこの時代の医者も蕎麦とか食べさせてるんじゃん。
東京で蕎麦食が盛んなのは、一説にはこの脚気対策がそのまま食文化として定着したのではないかともいわれている。白米食が悪いのかも知れないという推測はあっても、まだ栄養学的な観点がないために原因が特定できない……そのレベルでの知識の不足が蒙昧な霞となって医師らの視界をふさいでしまっているのだろう。
宗伯先生の中にもその『白米説』の推測はあったのかもしれない。
「田舎よりは都会で多く、庶民よりも富裕層に患者が多い。…なんだかなぞなぞのようだけれど、そういう消去法を試みていけば、白米にその原因を求めることはそれほど違和感がないと思うんですけど……すいません、白米で脚気になる、というのはあちらの書物からではなく、実家のかかりつけ医師からの受け売りなんです」
「そうですか、その件は洋書ではありませんでしたか…」
セ、セーフッ!
江戸病に関しては、本で読んだとかは言ってなかったし!
「白米を食べていると脚気になりやすいというのはそのとおりなのです。ただ蕎麦や麦飯を食べさせても効果がはっきりとしない場合もございましてな……江戸病を漢方にて根治せしめられる方法がみつかればと思ったのですが……そうですか」
割合にその治療法はニアピンにいっているようなのにもったいないことである。白米が原因と類推して、そこに近しい穀類を持ち込むことで何かの欠損を補完するという発想は悪くない。おそらくそこで効果が一定しないのは、蕎麦や麦を摂取する意義に深く考えを向けていないからだろう。必要なのは栄養素であり、穀類自体ではないのだから。
ちなみに歴史的には江戸病が解決されるのはずっと時代が下って明治以降のことになる。
すっかりと意気消沈した様子の宗伯先生。
危機回避に成功して気が緩んでいたのかもしれない。うなだれている宗伯先生が多少気の毒になって、草太はまたいらぬおせっかいを口にしてしまう。
「玄米を食べる田舎では起こらず、白米食の江戸で起こるということは、米が原因であることを示唆しています。その両者の間の差異は、なにを口にしていないことからくるのでしょうか…」
「……ッ」
「差は、ただ米ぬかではありませんか。足りないのはその米ぬかなのではないですか」
宗伯先生が顔を上げた。
その眼には少しずつ力がみなぎり始めている。
「白米を食べ始めると、玄米食にはなかなか戻れなくなります。ならばその精米でそぎ落とされる米ぬかを、薬として処方されてはどうですか?」
「理屈はたしかにそうですが…」
「そして米ぬかの『量』もお忘れなく。飲めばいいと耳かき一杯では何にもなりません。毎食食べる米の量から逆算して、服用量を調整すべきですね。その質と量が合わさってはじめて玄米食の再現になるのではないでしょうか」
「量を逆算……そうか!」
「食の内容を適正なものにするのなら、まずは手本となる本物に合わせなくては」
「まさしく、それこそが『医食同源』」
ぶっちゃけビタミン類が不足しているのだからそれをサプリメントとして飲めばいいのだけれど、むろん必要最低限の量というものも出てくる。毎食1合の米を食べるのなら、1合分の玄米からそぎ落とされる米ぬかの量こそ、玄米食再現の適正値であるといえる。
おそらく蕎麦食、麦飯食で症状の改善しなかった患者は、必要量を誤ってごく少量しかそれらを口にしていないのだと仮定すべきである。ゆえに、治らないわけだ。
宗伯先生の鼻がぷくっと膨らんだ。
おそらくは脚気に悩まされている患者を幾人も持っているのだろう。もういても立ってもいられないというふうにそわそわとしだした先生の様子に、岩瀬様が苦笑気味に「では、われわれも忙しい身なのでこのあたりで」と誘い水を向けると、やや申し訳なさそうに額をなでて頭を下げてきた。
「ご教授感謝いたします。お忙しいところ失礼いたしました。ではわたくしはこれで」
「思い付きばかりで申し訳ありません」
颯太たちもそれに会釈で応え、そこで互いの視線が交わらなくなる。
エマージェンシーがレッドからイエローに。ばくばくものの胸の鼓動をおさめながら、颯太はようやくひと心地をついた。
そうして歩き始めたときに岩瀬様がぽつりと、
「いったいその知恵がどこから湧いてくるのか、伊勢様があなたを逆さに振って喜んでいる気持ちが分かってきました…」
まるでボトルに残ったマヨネーズを振り回して寄せているマヨラーのような発言に、颯太はあははと渇いた笑いを漏らした。最近ほんと自重できなくなっている自覚はある。
(幕臣に引っこ抜かれたあたりでどこか自棄っぱちになってたかもしれん……いまさらだけど)
自棄になってチート無双するのも選択肢の一つなのかもしれなかったけれども、これは体験者だから言わせてもらうが知識はけっして万能ではないし、その時代状況に即して必要とされる知識の形も千変万化する。知識チートと言っても、それを実行するにはそれなりに生みの苦しみが伴い続けるのだ。
いままたひとつの知識がこの時代の医師に注入されたことで歴史が大きく歪むのかもしれない。
去っていく宗伯先生の背中を見送りつつ、その療法が死すべきであった時代のプレイヤーを延命させてどれほどの歴史的混乱を生むか、少し想像しただけで舌の根が干上がってくる。
「…いま、宗伯先生はどなたの治療をなされているのでしょうか」
「陶林殿は知りませんでしたね。あの先生は今年御目見医師になられたばかりの浅田宗伯殿。…江戸病といえば、たしか上様のご病状もそうだとうかがってますし、そのご療養にも関わっておられるのやもしれませんね」
「上様も江戸病なんですか」
「ご不調が多いのもそのためとうかがっています」
あのカステラ将軍(※徳川家定)……脚気だったのか。
まあたしかにあの偏食っぷりを見れば、脚気になってもまったくおかしくはない。あの将軍が延命するかも知れんのか…。
いまはもう深くは考えまい。なるようになるだろ。
「…それよりも陶林殿。伊勢様があのようでは、先ほどの話もしばらくは難しいのかもしれませんね」
「…ほんとはそのあたりを相談したかったんですけど、あののろけっぷりを見たら毒気を抜かれてしまったし…」
「まったく困ったお人です」
身体の奥底に沈滞した疲労を引きずりつつ御城へと向うふたりの背中もどこか煤けている。部下が身を粉にして働き詰めであるのに、その上司が年端もない少女の歓心を買うのに躍起になってるとか、なかなかに精神的なドMプレイである。
「…幕府財政も相当に苦しいところですが、江戸の町の復興にめどがついたならば例の露西亜向けの『造船所』の件、そろそろ取り掛からねば機を逸するかもしれませんね」
岩瀬様のつぶやきに、颯太もため息をついたのだった。