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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
154/288

026 カウンセリング






颯太の中のおっさんは、いつも健康診断終了後に医師に別室に呼ばれ、カウンセリングという名の言葉責めを受けるのが常だった。

いわずもがな、必要以上にふっくらしていたためである。ゆえに成人病予防の肝が『血糖値のコントロール』であり、食事の栄養バランスと適度な節制、そして運動が必要であることを脳髄にぎゅうぎゅうと詰め込まれている。

「独逸」という単語がすぐに頭に思い浮かんだのはまさに歴史好きの条件反射、彼のシーボルトが思い浮かんだためであり、それは同時に颯太がどこまでいっても歴史の専門家ではないという証左でもあったりする。彼の学生時代の教科書では『ドイツ人医師シーボルト』と教えており、実際安政2年の段階ではまだドイツ成立以前の『プロイセン』という国名が正しい。ここで『独逸』の国名を出すのは明らかなNGであったのだけれども、そもそも遠いヨーロッパの国名すべてをそらんじるような人物もいなかったようで、そういう国があるのだろうと聞き流すような形でスルーされた。このときのおのれの危うさに彼が気づくのは後のことである。


「酒の飲みすぎ、暴飲暴食で患ういわゆる『殿様病』というものがあると記されていました。裕福な特権階級にある王侯貴族がかかりやすい贅沢病だそうです」


岩瀬様がちくちくとやっていた分だけ、颯太もそれなりにちくちくと責めることにする。

人生で好きなように食っちゃ寝して浴びるように酒を飲み手当たり次第に女を漁る……西洋貴族の悪徳をそのままこの国に持ち込んでも必ずしも当てはまるわけではなかったけれども、特権に胡坐をかいて汗をかこうとしない大名旗本はそれなりに多い。有能ではあれども、目の前の阿部様も、汗をかきたがらないという点ではずっぽりとその範疇に含まれる。

普通の庶民に、毎日2升も日本酒を飲んだり足しげく吉原の遊郭に通い詰めることなど経済的に不可能である。それだけでも十分に特権階級であるといえただろう。


「江戸でよく流行る『江戸病』のようなもので、白米ばかり食べているから脚気になるのと同じ理屈です」

「……っ!」

「!?」


医師たちが何気にリアクションが大きいのだけれども、その手のことにやや不感症になりつつある颯太はあっさりとスルーしてしまう。


「いろいろとお聞きしましたが、まあはっきりお酒の飲みすぎと運動不足が原因でしょう。清酒は米を醸造して作る酒ですので、水飴をがぶ飲みしているようなものとお思いください。…そして恐れながらそのお腹! 少し忙しくしただけで玉のように汗をかくのがなまりきっている何よりの証拠でございます。食べ物は人が身体を動かすのに必要な栄養を摂取するために口にするのです。その栄養を十分以上にお腹に入れているのに、身体を使わないことは自然の摂理に沿わぬ行為です。過ぎたるは及ばざるが如し……過剰に摂取された栄養素がそこに……お腹にあのように溜め込まれることで体は重くなり、五臓は脂まみれで弱るばかりなのです」

「おまえは医学書も読み漁っておったのか」

「本であるならば選り好みしませんでしたし……そんなことはいまはどうでもいいのです。それよりも阿部様の生活習慣を改善しなければ、おそれながらそのご寿命を縮められることになるのは日を見るよりも明らか。手足の指先がしびれると仰っておられましたが、それこそがこの『血の病』の初期症状であるとお思いください。けっして軽くは見られないように……この病は進行するといずれその人間の命を刈り取るおそろしい毒素で血を腐らせます」

「……ッ」

「その毒素が全身に回ると、生きながらにして体が腐り始め、手足の末端……指のほうから順々に腐れ落ちていきます。指先の痺れはその前兆であるとお思い下さいますよう…」

「まっ、待て待て」


颯太の脅しに阿部様が真っ青になって飛び上がった。

その様子に颯太は内心ほくそ笑んだ。少々脅しをきつくしないと、この後の治療に真剣に取り組んでくれないだろうし。


「そ、そのような病気などわたしは寡聞にして聞かぬぞ! 冗談もたいがいにせぬと…」

「『殿様病』と申しました。…日ごろから苦労もなく贅沢三昧自堕落な生活をできるものにしか罹らない病でございます。この質素倹約が美徳とされる昨今、さらには尚武の気質もおありになる大名諸侯にも、阿部様ほど身体を使わない方は珍しいのではありませんか? 身体を鍛えられたものにはおよそ罹りにくい病だそうですし」

「………」

「…いま女性といたしているときに少しは動いていると思ったでしょう?」

「…ッ! ダメなのか」

「そちらの『運動』で使われる栄養など、おそらくお猪口いっぱいの酒にも及ばぬものかと。男は出すものを出すとやり遂げた感で疲労を覚えるもののようですけど」

「………」


あちらのことについて6歳児が顔色も変えずに語るのは、周囲の大人たちにはかなり面映いところであったろう。が目の前のこの童の博覧強記ぶりに気を飲まれてしまっているために突っ込みタイミングを掴み損ねてしまっている。

颯太のほうも『糖尿病』に照準を合わせて語ってはいるものの、口にしているうちから「本当のそうなのか」と不安にさいなまれている。もし違ったらどうしようなどと揺れる小心者の心をねじ伏せられているのは、まさにいままで培ってきた鉄火場での胆力があればこそ。

思った以上に重病なのかもしれないと気弱さののぞく阿部様の懐へとさらに一歩踏み込んで、杭を打ち込むように病気への『恐れ』を刻み込む。


「このままご病気を軽く見て放置されれば、いずれそのお指も腐れ落ちて、ご執心のおとよさまの手も握れなくなるでしょう。おとよさまを篭絡したあとで男冥利を手に入れるには、五体満足でないといろいろと不都合が生じるのではないですか? …それとも安易な不養生を選んで、あの方を田安様の奥へとお見送りになられますか」

「…う、ぐう」


ふたりの眼差しがそのとき交差して、いくばくかののち阿部様の目が力なく手元へと落ちた。少々大人気なかったと思わないでもないんだけれども、今後の彼の人生の安泰のためには、心を鬼にしてでも派閥の領袖には長生きしてもらわねばならないのだ。

…かくして意気消沈した阿部様は、颯太プロデュース主治医団監修の療法を受け入れることとなる。

しょせんは素人のうえ6歳児でしかない颯太の横車は、専門家たる医師たちには相当に業腹なことであったに違いないが、阿部様を陥落させたあと彼が相談を持ちかけると案に相違して医師たちは軽々と乗っかってきた。

いわゆる殿様である阿部様に、医師たちがどれほど口すっぱく療養を求めても、いままで真剣に取り合ってもらえたためしもなかったらしい。むろん病気への見立ても彼らは颯太と違う立場にあり、『腎虚』と見做していたようである。

見立ては違えど、颯太の提示した治療計画にそれほどの差異はない……ならば乗っかるのもやぶさかではないとの大人な判断を下したらしかった。

彼らとの擦り合わせのうえ、今回の治療計画の骨子を纏め上げた。

要点を列挙すると、


・飲酒を控えめに

・適度な運動を行う

・十分な睡眠(静養)をとる

・医師団処方の薬湯を欠かさず飲む

・放精を避ける


…などというようになる。

その内容を聞いた阿部様はすっぱい梅干を口にしたようにしかめっ面をしたけれども、おとよさまの名を呪文のように唱えると画期的に聞きわけがよくなった。少女への愛ゆえか、はたまた田安様への負けん気ゆえか。

治療内容に食事の項目が抜けているのだけれども、実は阿部様、過度の飲酒が原因なのだろう、元来かなりの小食なのだそうだ。外食する習慣もないそうで、食事に関してはこの上屋敷の賄い方と調整すればそれほど抵抗もなく守らせられると医師たちが請け負ったのでそっちは基本任せてしまうことにした。


(…この療養がうまくいくかの肝は、たぶん阿部様に禁酒を徹底させられるかどうかになってくるやろうな)


アル中の断酒ほど難しいものはない……経営苦のためかアルコール依存症に近い同業の知り合いもかつてはいたので、颯太は断酒という苦行を軽々しくは見ていない。

前世では、アルコールはぶっちゃけ麻薬よりもたちが悪い、患者数から見ても史上最悪の部類に入る常習性薬物であると揶揄されていた。本人がわりと普通にしている場合がほとんどなのでその凶悪さを理解できない人が圧倒的に多いのだけれども、身近でそういう人間を見ると考えを改めざるを得ないだろう。

麻薬とかのヤク中が幻覚に悩まされるあれが、アル中でも起こるのだ。

…もしもアルコールが切れていらいらとしだした殿様(阿部様)から酒を出すように命ぜられて、突っぱねることのできる家臣がこの藩邸にどれだけいることか。

阿部様の自制心を疑うわけではないけれども、颯太や岩瀬様が四六時中監視につくわけにもいかないので、完全な禁酒はおそらく無理だろうと踏まえておかねばならない。阿部様の断酒破りも織り込んでの手をあらかじめ講じておかねばならなかった。

こういうのは、攻城戦とおんなじようなものである。

完全包囲よりも一部だけ逃げ道を作っておいたほうが敵の動きを誘導しやすいのと同じで、『飲んでよい酒』を奥の手として用意しておくことが次善の手となってくるだろう。


(焼酎手に入るかな…)


健康管理を求められるおっさんの常識として、『焼酎は負担が軽い』というのがある。蒸留されたアルコールは体内で熱に変換されやすく、いわゆる『エンプティカロリー』(カロリーはあるけど身にならない!)と呼ばれるもの。むろん飲みすぎはもってのほかであるが、量さえ管理できればガス抜きにはうってつけである。

焼酎が江戸で手に入るのかどうかはわからなかったけれども、それを提案したときの医師たちの反応的には入手はそれほど困難でもなさそうである。まあ幕府におもねる薩摩藩をつっつけば船一艘分くらいすぐに送ってきそうだし。

なにゆえ清酒はダメで焼酎はよいのか、という医師たちの素朴な疑問には、「蒸留酒は良いそうなんです。ほんとはウイスキーとかあちらの蒸留酒が推奨されているのですが、こっちで手に入る蒸留酒は焼酎ぐらいですし」と、『蒸留酒』という耳慣れない言葉をキーワードに煙に巻く。蒸留酒は酒を煮立たせてその揮発したエキスを集める製法のことです。えっと、詳しくは自分にも分かりませんが、そのあたりは全部本の受け売りですので質問はご容赦を。…という感じにはぐらかしておいたった。もはや至高のお約束である。


「ははぁ……そういうものですか」


もの言いたげに見つめてくる医師たちの生暖かい眼差しに、にこっとプライスレスの微笑で応じた6歳児に、彼らは盛大なため息をついたのだった。




かくして阿部様延命計画という降って沸いたような騒動の後、颯太たちは復興経過の報告を無事に済ませ、福山藩上屋敷を辞去したのだけれども。

市中復興の事案などを話題にしだしたふたりの背後に、小走りで駆け寄ってくる足音。

屋敷から少し離れたあたりで、その人物に捕まりました。


「お忙しいところお呼び止めして申し訳ございません。わたくしは…」

「これはこれは宗伯先生。どうされましたか?」


相手が名乗る前に岩瀬様が名を言い当ててしまった。

少し驚いたような顔をしたその医師は、さきほど屋敷で颯太と打ち合わせをしていた中の一人であった。演歌の大家を思わせるその大きな鼻の穴が颯太のひくい視点からよく見える。剃髪した禿頭をつるりとなでて、宗伯先生はざっかけなく笑った。


「知っていたとは、岩瀬様もお人が悪い」

「御城で一度だけお姿を拝見しておりました。近頃御目見えになった腕のよい医師がいると評判でしたので、一度覗きにいったことがあったのです」

「浅田宗伯と申すものです。お初にお目にかかります、陶林颯太様…」

「………」


鼻の穴がぷくっと膨らんだ。

予期せずおのれの名を告げられて、颯太は嫌な予感に額に汗を感じた。


「…して、宗伯先生がわれらに何用でございますかな」岩瀬様が話を向けると、待ってましたと宗伯先生がしゃがみ込んで颯太に視線を合わせてきた。


「…思いもかけぬ『江戸病』(※脚気)と白米食のご説に、非常に興味をそそられまして。ご迷惑を承知でお声をかけさせていただいた次第でございます…」


宗伯先生は黒目がちの目に活力がみなぎる感じの男であった。

静かに踵を返し、遁走を図ろうとした颯太であったが、襟首を掴んで持ち上げられたところで三十六計最上の策はあっけなく破られたのだった。


たくさんのご感想ありがとうございます。励みにしております。

誤字脱字対応は精神的余裕がないので少し遅れます。報告はチェックしているのですが、その前に改稿更新作業を、と焦っております。すいません。

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