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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
153/288

025 おとよ






美少女、という表現を軽々しく使う習慣のない颯太をして、『美少女』と感じせしめたそのおとよという名の少女は、そうした男女の出会いが時に輝きを放っているように錯覚するほどその他の存在から浮き上がって見えた。


(うはッ)


年のころはまだ14、5であるだろうか。

よく日に焼けているようなのに、その元来の白さが隠せない淡雪のような首筋に中庭の日差しが当たっている。顔を上げたとき、その慎ましやかに伏せられた瞳が歳不相応な艶っぽさを持っていることに気付かされる。

刷毛で掃いたような柳眉(りゅうび)と長い睫毛(まつげ)。小ぶりながらもすんなり通った鼻梁と赤い珊瑚のようにかわいらしく色づいた唇……このあと何年かしたら、などと保留にするまでもなく、いま真っ盛りに咲き誇る白い牡丹のような美少女だった。

颯太が思わず見比べるように阿部様のほうを見たのは、やはりその少女を阿部家の係累か何かだと誤解していたからだったが。

が、その想像はすぐに修正されることになった。


「これはこれは。田安様が知ったら大騒ぎです」


岩瀬様ののぼせた感想を受けて、阿部様が珍しく気まずそうに頭を掻いた。


「…権中納言には黙っておれよ。あとでうるさくされそうだからな」

「それにしてもよく山本屋が許しましたね。その手の誘いなどそれこそ帳面をつけねばならないほど多いと思いますし、ご執心の田安様のこともあればそう易々とは首を縦に振れぬところですが…」

「むはは、金五郎は快く承知してくれたぞ!」

「どうせ酒で酔いつぶした上に手管のひとつふたつ使ったのでございましょう? こういうことで融通の利かない田安様もおかわいそうに…」

「人聞きの悪いことを……おとよ、そんなところで固まってないと、こっちへきてこの不憫な病人を看病しておくれ」

「…はっ、はい」


慌てたように立ち上がり、水の入ったたらいとともに阿部様の側近くに寄った少女は、浸してあった手巾を絞って手に持ったところで、それを使うべき病人が胡坐をかいてしまっているのに気付いて「寝てていただかないと看病できません!」と、かわいらしく頬を膨らませるように怒って見せた。

泣く子も黙る天下の執権阿部伊勢守が、少女に怒られたとたんだらしなく目尻をやに下がらせて、おとなしく布団にもぐりこんだ。何かごっこ遊びめいた光景であり、最前までの同情めいた気持ちをしらっと霧散させた颯太が半眼になって眺めているのに気付いた阿部様が、目で「野暮は言うな?」と釘を刺してくるのには肩をすくめるしかなかった。

このおとよという少女、向島の長命寺門前に店を構える餅屋の娘であるという。

俗に言う看板娘というやつらしかった。


「ほんとにご病気なのですか?」


濡らした手巾を阿部様の額に乗せながら、飾り気のない素の表情で首をかしげているおとよさんは、リアルヒロイン体質なのかもしれない。ひとつひとつの仕種に愛らしさ補正がかかってるのではないかと疑惑が浮上するくらいに、周囲の馬鹿な男どもの目を引き寄せてしまう。

膝の上に添えられた指先をとらえようと阿部様が伸ばした手をぺちっと撃墜して、「お戯れを」とはにかんで見せただけでいい年こいたおっさん(阿部様)が気持ち悪いくらい喜色をあらわにしている。

いまをときめく老中首座阿部伊勢守に、先ほどから名前の挙がっている田安様……むろんあの有名な徳川の分家『田安徳川家』の当主(田安慶頼)である……と、逆ハーにこともなげに権力者が名を連ねるあたり、この少女のヒロイン体質は客観的に見ても誇張のない真正のものであるといえる。

で、いまのところさしもの徳川分家当主も、天下の執権には一歩及ばず、というところであるのか。向島といえば地震の被害もかなり出ていたはずであるから、その災難のなか掌中の娘を阿部様の上屋敷に出しているあたり、もはや内部的に軍配は阿部様に上がっているのかもしれない。

まあ、いいんだけどね!

なんだろう、このこみ上げてくる生暖かい達観は。

ここでロリコンとは敢えて言うまい。このぐらいの歳の差婚はこの身分格差、経済格差の著しい時代、娘の親にあまり拒否権がないということを差し引いても割と多い。貧しさから脱出するために積極的に売り込む親も多いために、社会的にその歳の差を非難するような風潮もなく、こういうのはいわゆる『玉の輿』という表現でポジティブにとらえるほうが時代感覚的に適正であった。

…そうした理屈はあるのだけれども、おのれの子供のような歳の14、5の少女相手にデレデレ状態のいい歳したおっさん(むろん阿部様)という光景は、やはり背徳感というかいけない感がむんむんと漂ってくる。

この色ボケ親父に常識ある大人が教育的指導したほうがよいのではないかと思うのだけれども、この福山藩上屋敷に殿様のご乱心を説諭できるような勇者がいるはずもなく。

岩瀬様の方をちらりと見ると、そこでくしくも目が合った。もしかして同じような希望を相手に求めての視線であったのかもしれない。無線通信によるいくばくかのやり取りの後、岩瀬様がため息をついて口を開いた。


「お邪魔のようですので、後はお元気そうな伊勢様にお任せするということでそれがしどもは役宅に戻らさせていただいてもよろしいでしょうか…」


岩瀬様が腰を浮かせるのにあわせて、颯太も乗り遅れまじと追随する。

立ち去ろうとする二人の生暖かい眼差しにようやく気付いた阿部様が少女の手を離してがばっと起き上がった。


「待て待て、何かわたしに聞きにきたのだろう?」

「…そのつもりでございましたが、少し取り込み中のようですので後日改めまして」

「目が笑っとらんぞ。か弱い病人の多少の戯れではないか。…ああ、わかったわかった、そういう目でわたしを見るな」

「…見るなも何も、それがしどもには見たままにしか分かりませぬゆえ。馬に蹴られるのもごめんこうむりますので、どうぞおふたりきりで、存分にお楽しみくださいますよう」

「…伊賀~」


遠回しにちくちく責めるようなもの言いがまた岩瀬様らしいといえばらしい。


「ただこの地揺れ騒動が収まるまでは、田安様を刺激するようなことだけはなるべくおやめくださいませ……というか、もうその娘にお手を付けになられたのでしたら手遅れかもしれませんが…」

「……ッ!」


やるな岩瀬様。一番気になるところに相手の虚を突くように踏み込んだ。このクソ忙しいときに、好いた腫れたで幕府内部に揉め事を起こされるなどたまったものではない。

驚いたのは阿部様よりも介抱していた少女のほうだった。


「ちっ、違います!」


気色ばんで立ち上がろうとしたところで相手が誰かに気付いたように腰砕けに再び座り込んだ。庶民の娘が幕閣のお偉方相手に意見するなどおよそ想像の埒外であったろう。


「もっ、申し訳ございません!」


畳に額をこすり付けるように平伏してしまった。

そちらにちらりと目をやって、落ち着かなげにまた岩瀬様に目を向ける阿部様。

その無言のやり取りの中に信頼する腹心との間の阿吽の呼吸があったのだろう。

「大切な話があるようだから下がっていなさい」と阿部様に言われて、少女はほとんど顔を上げもせず静かに退室した。その涙に潤んだ瞳が一瞬だけ異質な存在である颯太に気づいて止まるものの、二人の初めての相互認知はただそれだけのものであった。のちに交流を持つことになるふたりであったが、このときはまだ互いにすれ違っただけの相手に過ぎなかった。

少女が退出した後の形容しがたい空気は、さすがに気を回した阿部様自身がぱっと払って見せた。


「言っておくが、まだ手桶に入れてはおらんぞ」


そういう言葉がしれっと出てくるあたり、このおっさん本当に女遊び慣れしているらしい。慣れている男がその方面の話で虚勢を張るはずもなく、手をつけていないのは本当の話なのだろう。


「いずれにせよ田安殿には渡さんがな!」


そのあけすけな独占欲は同席する男たちの苦笑を誘ったが、颯太はそのとき片隅に座る医師たちが嘆かわしそうに首を振っているのを見た。

その後岩瀬様から吉原通いを突っ込まれ、さらにはうわばみのごとき酒豪っぷりをたしなめられた阿部様。権力者なのだからお妾でも囲っているのかと思っていたのだけれども、女遊びが大好きな(!)阿部様は遊郭通いもしているらしく、この震災後も大被害を受けた吉原が別の場所に仮の営業を始めたところそこにも顔を出していたというからかなりの筋金が入っている。

さらには一日2升も酒を飲んでいるという驚きの事実。2リットルではなく2升! 3.6リットルである。この時代の酒とはむろん日本酒であるから、そいつを1升ビン2本を毎日痛飲しているというのだ。


(そりゃ、健康なくすわ)


颯太のなかで阿部様の病気の分析が始まった。

まず酒の飲みすぎで肝臓と腎臓が逝ってる可能性。

そして酒好きがよく陥る症状で、酒を飲むために他のものをあまり食べない、という極度の偏食の可能性。塩辛いつまみしか食べていないということも考えられた。

そこに加わってくる要因が、女好きである。

荒淫が原因で体調を崩すことは考えられる話で、この時代でもヤリ過ぎによる失調を指して『腎虚』という病名がよく知られている。あのおとよという少女にまだ手はつけられていないとはいえ、この体調不良のなか遊郭に出向くこの困ったおっさんにはふさわしい病名なのかもしれない。…というよりも、彼らが震災の現場で四苦八苦している間に、憂さ晴らしとはいえ遊郭通いしていたこのおっさんには天罰があってしかるべきなのかも知れん。

ともかくそれらから考えられる病根は、肝臓と腎臓、それに膵臓あたりだろうか。まだそれほど症状は出ていないのかもしれないけれども、性病の線も確実にある。

素人判断でもそのように考えられるのだから、あそこに座っている医師(たぶん漢方医師)たちも同じようなところに原因を求めたのだろう。ゆえにあのとき、『腎の臓』という言葉に反応を示したのだ。あるいは『腎虚』と診断しているのかもしれなかった。

医師らはどのような治療法を提言しているのだろうか。この時代の医者というものが伝統にすがるばかりのかなり無力なものであるのを颯太は知っている。大名の主治医になるくらいだから漢方医としては立派な人たちなのだろうけれども、外科的手段を持たず漢方薬の処方だけで病気に向かい合う彼らの限界はやはり低いと思わねばならない。

対症療法的な西洋医学が外科という直接的な手法に結びついたのとは対照的に、医食同源というやわらかな思想のもとに病原を根治させようという東洋医学。おそらくは彼らの処方する薬を飲んで、ひたすら静養というのが今のところの阿部様の治療方針であるのかもしれない。

性病であったならば「青カビの培養で」とか厨二暴走してしまいそうであるが、専門性の高い分野の事柄に素人が口を出す『恥ずかしさ』を、製陶の専門家として普通に颯太のなかのおっさんもわきまえている。

が、ここで何か干渉を行わなければ阿部様は数年内に命を落としてしまうのかもしれない可能性を考えると、そういうことも言ってはいられない。唯一対応が可能そうな『糖尿病』の初期症状だと仮定して、手を打っておいてしかるべきだったろう。


「…独逸という国の書物に」


颯太は口を開いた。


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