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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
152/288

024 病臥





一昨年前のあの日、郷里である大原で安政東海地震の激震に見舞われたとき、颯太は何ほどのこともない、ただ小知恵の回る田舎の子供の一人に過ぎなかった。


わずかに村の庄屋である普賢下林家の庶子であったというだけで。

彼個人が無力な子供であったがために、助言者としての役どころからついに一歩も踏み出すこともなく、その功績はわずかな関係者の間だけにとどまるものでしかなかった。

しかしこの安政江戸地震では違う。

彼はちっぽけな6歳児でしかないその姿からは逸脱もはなはだしく、時の執権阿部伊勢守のお引きで泣く子も黙る幕府勘定所の役人として、その復興に関わっている。

地元で有力者たちの顔色をうかがいつつ手立てを考えねばならなかったあのときとはまったく違い、彼は他人から顔色をうかがわれる立場、『決める側』の人間としてそこにあった。

そして与えられた『支配勘定並』という役職が阿部伊勢守の気まぐれに投げ与えたものに過ぎず、ほとぼりが冷めればすぐに取り上げられて田舎に追い返されるに違いないと……心のどこかでそんな割り切り方をしていたからこそ、彼は比較的早く自重を放り投げて復興に全力を傾け得たのだろう。

米証文の構想が始動して、町会所の義倉の運用に道筋がつけられたところでひと仕事やり遂げたと気を緩めることもなく、まさに『生き急ぐ』彼の人生の縮図を見るように、陶林颯太はすぐに次の問題をあぶりだしてはカチコミを繰り返すこととなる。


「…どちらのことです!? 橋の復旧工事で集めた御家人たちが騒いで収拾がつかないと伺いましたが!」


東で橋の復旧工事が揉めていると聞いてはすぐさま駆けつけ、仮のものでいいと言っているのに本格的な橋を作らねばと無駄に意気込む旗本次男三男の冷や飯食いたちに、「自分で『使えない証明』してどうすんですか」とにこやかに突っ込みを行い、激高した御家人らに刀を突きつけられたりした一件。

比較的理性的であった数名を引っこ抜いてならば橋作り競争をしましょうと対抗戦を行い、たまたま近くを通りかかった大工をぺろりと雇って必要十分な強度のみを要求し、上っ面に廃材を並べて打ちつけたみばは悪いが実用に十分耐える即席橋を一夜で作って大人気なく(子供だが!)強情な脳筋ニートどもを粉砕して見せた。

そこで見守っていた見物人たちに6歳児の珍妙な幕臣がいると噂されるようになり。


「…幕府のお触れを無視して町家の復旧に人手を出さない藩邸があると聞いて参りましたが!」


西で近隣の大工たちさえも強面で掻き集め、おのが藩邸建て直しに没頭していた某藩の上屋敷にずかずかと乗り込むや、阿部伊勢守のご威光をかさに着て江戸家老を拉致り脅し、非協力な手合いへの幕閣裏ルールをまことしやかにささやいて泣きを入れさせた一件。

管仲が斉の桓公に語ったという、後でより大きく実りを得るために領民を大切にすべしという非常に実利的でありがたいお話を引用した6歳児に、その藩邸の人々はそれ以後非常に協力的になったらしい。

町の復興に弾みがついたことでそちらでも子供支配勘定の神采配が話題となり。


「…あの、こちらで市価の十倍で材木を融通していると聞いてぜひ後学のためにと見学にやってまいりました!」


幕府が颯太献策のプレハブ長屋製造に掛かり始めたいっとき、瞬間的に余剰材木の消失した市中で、運よく店が健在だった上野の材木商が独自ルートで持ち込んだ材木を驚くべき高額で売りさばいていると聞いて特攻(ぶっこ)んだ一件では、ふんふんなるほどといやらしいぐらいの誉め殺しを行った。

幕府が流入する材木を一元管理し市場の安定を願ってたゆまぬ努力を続けているというのに、目先の金に目がくらんで後ろ足で公方様に砂をかけて喜んでいる気の毒な材木商の話を『例え話』にして無理やりに流し込み、やさしく肩を叩いて陥落させたという。

土下座してさめざめと泣き崩れる商人の肩を叩く6歳児が多くの人間に目撃されて、いよいよただ事ではすまない鬼の子が幕臣にいると八百八町を噂が駆け巡ることとなる一件であった…。

いっときの腰掛職と勝手に割り切って自重を放り投げていた彼にむろん責任の大半は帰することとなるのであるが、行く先々で名前が知れ渡り始めるにつれて本人がわりと焦り始めたのはここだけの話である。

ただでさえ子供支配勘定など色物すぎて目立たずにはおられないと言うのに、まさに世間的な『役人はこうあれ』という枠に収まるどころか際どいスタンドプレーをこなしまくったわけで、名奉行とか千両役者とか『名物』の大好物な江戸町人の間で『勘定所の小天狗』なる愛称が独り歩きし始めるに及んで、さしもの颯太も自身の露出を控えるようになるのだが……もはやお約束のようにそれも完全に手遅れであった。

くだんの勘定所から「なんなのその噂」と疑念混じりの問い合わせが黒幕である阿部様へと上がり、急遽岩瀬様に伴して勘定奉行の水野忠徳様、石谷穆清様(※勘定奉行は3名体制です)にいまさらの面通しが行われたり、勘定所的に新米が必ず通らねばならない通過儀礼だとクソめんどくさそうな検算作業助手をしなさいと要求されたり……今現在は、目の前で阿部様に腹を抱えて笑われていたりする。




「あのー」


いろいろやり過ぎたとは思っているのだけれども、ここですべての原因である阿部様に大笑いされるのは何か間違っているような気がする颯太である。

笑いすぎで痙攣を起こして言葉がなかなか出てこない阿部様に代わり、岩瀬様が口を開いたのだが、


「いや、ほんと自重しませんでしたね」


開口一番それかよと。

ええそうでございますとも、いろいろとはっちゃけすぎた自分が悪うございました! 反省はしてますから、めんどくさい火消しはそっちでお願いしたいんですけど。


「水野殿に『うちに小天狗なんかいるのか』とか真顔で質されたときは、さすがにどう答えてよいやらへどもどしてしまいましたが……そも勘定所のお歴々に挨拶しておかなかったのはこちらの……というより明らかに伊勢様の手抜きでしたし、それをネタにいろいろと言われぬでもよいことをつけつけ言いつけられたこちらにも、責任ある領袖として相応の労いの言葉がかけられてもよいかと思うのですが」

「ああ、いや、伊賀(岩瀬)もごくろうであったな……『小天狗』がいい具合にツボにはまってな。颯太、お前のことは勘定所ばかりか奥勤めの口さがない茶坊主どもまで噂しておるぞ。すっかりと名が売れたな!」

「…うれしくはないですけど」


ぶっすりと漏らす颯太にまた少しだけ笑いの衝動に駆られたふうの阿部様であったが、さすがにからかいすぎたと思ったのか、おほん、とわざとらしく咳払いしてから、表情を取り繕ってしまう。

そこは御城の二の丸御殿ではなく、阿部様の起居する備後福山藩の上屋敷である。

阿部様が胡坐をかいていたのは、座布団の上ではなく布団の上……身に着けているものも白い寝間着で、彼らの談笑を部屋の隅で医師らが聞くともなく聞いている。

颯太が江戸に呼ばれてはやくも半月ほどの時間が流れていた。

その慌しい江戸市中復興の喧騒の中で、どこか健康に不安を抱えた様子であった阿部様がついに倒れたのだ。


「それでお加減のほうはよろしいのですか」

「…見ての通りよ。ひと晩寝ておったらもう元気を持て余してしまってな」


声の張りは確かにある。

睡眠をとったせいか目元のくまも幾分か和らいで、自ら口にするとおりかなり体力も回復したように見える。だが岩瀬様の問う視線に気付いた医師は、軽く首を振って真面目に取られますなと釘を刺してくる。

医師の見立てでは、『過労』であるとのことなのだけれども、現代の高度医療に浴してきた颯太の中のおっさんはその見立てを鵜呑みのすることを拒んでいた。


(やっぱり健康上の問題が出てくるのか…)


そのあたりの詳しい歴史を知らない颯太はただ状況から類推するしかなかったのだけれども、歴史の教科書にも必ず出てくる江戸時代の一大イベント、安政の大獄が1858年(安政5年)、翌年の1859年(安政6年)には水戸脱藩藩士による桜田門外の変が起こるわけで、そのときの大老……井伊直弼の政権が誕生するのはいまから4年後くらいなのだろう。

江戸幕府が崩壊するまでの歴史のダイナミズムが颯太の介入をもってしても崩れていないのならば、いわゆる彼自身も組み込まれつつある『阿部派』の命運もあとたった4年のことであり、阿部様の容態を見るにおそらくは井伊直弼政権が誕生する前にワンポイントで別の人間が執権を握っていたのかも知れず、そうであればいよいよ雲行きの怪しい落ち目の派閥であるともいえる。(※実際はすでに堀田正睦に後任を託していなければならず、歴史事実が歪み始めてたりします)


(そろそろ政権交代があるのかな……井伊直弼の安政の大獄が歴史通りに4年後に起こるとして、そのすぐ後に桜田門外の変……阿部様がこの病を理由に公職を退いたのかどうかは分かんないけど、健康不安が原因のひとつなのはおそらく間違いない…)


派閥に入ったつもりはないのだけれども、外から見たらそんな彼の考えなどまさに世迷言だろう。いまとなっては阿部様の秘蔵っ子扱いなのだから。

それに颯太は、この生まれながらの貴公子として人の上に立つおおらかさと腹黒さの同居するメタボ怪人が嫌いではなかった。好ましい人物にはぜひ長生きしてもらいたいと、普通に思っていた。

いったい、何の病気であるのだろう。専門外とはいえ、この時代の人間よりは医学についていくらかの知識がある。


「阿部様……失礼ですが、いま手足の指などに痺れを感じたりはしていませんか?」


体格からして成人病なのかもとか思ったのだけれども。


「すこし痺れのようなものはあるが……おまえは医学の知識も持ち合わせがあるのか」

「…あっ、まあ……いつか読んだ蘭書にそのような記載があったと思い出しまして。たしか腎の臓がもとの血の病であると…」


腎の臓、と颯太が口にした瞬間、部屋の隅に控えていた医師が弾かれたように顔を上げた。その驚きに染まった目が食い入るように見つめてきて、颯太はおのれの素人診断が不安の地脈に触れたことに気付いたのだった。

やっぱり糖尿病か……そう早合点しそうになったそのとき。


「失礼いたします…」


廊下から消え入るように小さな女性の声がして。

開いた障子戸の向こうに、小柄な少女が水を張ったたらいとともにお辞儀をしていた。女中さんにしては違和感のある年恰好と上等すぎる着物から、もしかして阿部様の娘かと思った颯太であったが…。


「おとよか」


面差しをもたげたその少女の、衝撃的なまでの美しさに絶句したのだった。


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