023 震災始末⑦
「仰るとおり、個々人で満足に煮炊きできるようになるまで籾米の分配は必要ありません……欲しがる人がいるかもしれませんが、しばらくは公平に炊き出しに並んでもらっていればいいと思います。…えっと、いま勝手掛として岩瀬様からご許可いただいたので、これから言う『御用』は幕府勘定所の御用であると取ってもらってかまいません…」
颯太はいったん言葉を切ると、ここにやってくるまでに大まかに決めていた構想に齟齬がないか束の間吟味して、ゆっくりと口を開いた。
「なにも難しいことはありません。両替商のあなた方にとって、まさしく《十八番》の業務なのですから」
颯太のなりがちんまい6歳児である違和感も、すでに両替商たちには過去のものとなっている。颯太の口をついて出る言葉の一つ一つが敬うべきお上の意思なのだと、彼らはじっと聞き入っている。
行政(お上)からの思わせぶりな言葉は、商人にとってたいていろくなものではない。すっかりと警戒モードに入っている彼らを意地悪くなぶるように、颯太は様式美とばかりにもったいぶった言い回しを続ける。
「今回の地揺れとその後に起こった大火の被害は、おそらく江戸全域に及んでいるものと思われますので、あわせての被災者数は途方もないことになっているでしょう……まさしく先ほどのご指摘どおり、不用意にお救い米の触れを出すと人が殺到して取り付け騒ぎが起こりかねない状況です。勘定所としましては、来るべきお救い米分配時に無用な騒ぎを起こさぬよう準備を整えておきたいわけです」
「…準備、と申されますと?」ようやく釣り出された言葉に、颯太はにこっと笑ってようやく話を核心のほうへと持っていく。
「来た者に闇雲に米を渡すわけにもいきません。二度三度とたかりにくるこすい手合いが出るかもしれませんし。その個人の家族や被害状況に即して渡す米の量も加減せねばなりませんし、その判断をその配布所で行うなど効率の面でまったくありえません。事前にあらかじめ援助の高を判別しておくことはもとより、米の二重配布などの手違いを起こさぬためにも、『米の受け渡しの許しが出ている』という証文を事前に該当する被災者に配り置くことを考えています」
「証文、とは」
「為替証文ではありませんが、それと似たような、町会所が米の引渡しを約束する『米証文』のようなものです」
「そのお救い米の、引渡し証文をてまえどもが…?」
「はい。町会所が保証するその『米証文』の勧進元となり、その発行と配布をあなた方にお願いいたしたいのですが…」
『米証文』
ここまでやってくる間に颯太がおなかのチートポケットから取り出した案がそれだった。
町会所の義倉で起こっていた機能不全を解消した後は、その米をいかにスムーズに被災者に配分するかが最重要の問題であった。彼自身が先に口にした通り、地震に大火と災害のダブルパンチに見舞われた江戸の町はいまはまだかろうじて平静を保っているものの、そこここに暮らしを奪われた要救済者が溢れている。事前に受給権を確定させることで、取り付き騒ぎの防止効果を望めるし、信用ある大両替商らの『証文』が保証する『約束された米』が将来の不安を解消させるだろう。
「お任せできますか?」
颯太は彼の言葉に聞き入る両替商たちを見、その横で予想外の展開に目を丸くしている紀ノ国屋の反応をうかがった。
「一枚で籾米一升(10合)と交換できるということでどうでしょう。人別帖をもとに町年寄より各町名主へ枚数を割り当て、現場を監督する彼らの責任において住人を飢えさせぬよううまく配布させます。その『米証文』は会所に持って来れば無審査で必ず米と引き換えます。このあたりはあなた方のやり取りする為替手形と同じで、証文そのものが兌換保証する一升の米と等価の価値を持ちます」
颯太がその考えを紐解いていくうちに、ようやくこの話が持つ『別の意味』に両替商たちが気付き始める。颯太の構想は、なにも米を配ることだけに目を向けているわけではなかった。それはある意味とても商人的発想に拠っており、市場経済という社会の血の巡りを睨んだものであった。
利に聡い両替商たちが顔に血の気をのぼらせた。注がれる視線が痛い。
「…なるほど」
「そういうことならば…」
「…証文の有効な期限は半年。発行する証文の枚数はだいたい4回転分……40万枚(約11400俵分)ほどとしましょう。交換後の証文を会所もまた町年寄に再配することで市中に循環させますが、期限が残りひと月を切った後は会所にて回収と同時に破棄していきます。期限と同時にそれはただの紙切れとなって、役割を終えるという性質のものです…」
「期間限定のお救い米相場というわけですな!」
突然の乱入者に、颯太がのけぞるように飛びのいた。
話の潮目が劇的に変わったことを読み取ったのだろう、蚊帳の外にあった紀ノ国屋が話に割って入ってきたのだ。
おまえ部外者だろと他の商人たちが目で威嚇するのをそよとも恐れはばからず、人垣に図太く割り込んだこの男は、そのまま膝を折るようにして興奮に目元を赤くした顔を颯太へと近づけた。最前までその身に宿していた義憤の仁王様は、すでにタクシーに酔客を押し込めるようにご帰宅願ったようであった。
うん、その通り。
颯太は紀ノ国屋の目を見返しながら、知的キャッチボールが成立したことに満足の笑みを浮かべた。
(この『米証文』、ただの配給券なんかじゃおさまらんし…)
米が不足すると分かっているときに、一升の米と交換することが保障されている証文に価値が見出されぬわけがない。金本位制ならぬ米本位制の紙幣というほうが正しい。
「この紀ノ国屋にも、ぜひ一枚噛ませていただきたく…!」
他の大手両替商の大番頭たちが選り抜きの秀才であるのは当たり前であったが、両替商としてはまだ駆け出しのこの男が颯太の暗喩したスポット相場にいち早く気付いたのはなかなかに鼻が利いているといえる。
颯太はそれへと小さく頷き、紀ノ国屋というニューカマーを気にしている他の者たちに「些事などいまは捨て置くように」と笑顔で釘を刺す。すでに話は聞かれてしまっているのだ、情報を抱えたプレイヤーを野に放ったらなにをされるか知れないのだから、ここは適当に取り込んでしまったほうがベターであろう。
「破壊された町が復興を遂げていくためには、生きるための米も必要ですが、そのほかのありとあらゆる需要を喚起し、全体としての血の巡りを良くすることが肝要かと考えます。物を必要としている顧客がそも素寒貧では、生活を立て直す余力もなかなか持てるものでもありませんし……『米証文』が一時的にでも金子の代わりが務まるようになれば……やりくりのしようでは米以外のものだって手に入れられるようになると思うんです。それも相場価値が期間限定とくれば、乗り遅れたら損とばかりに誰しもそのご利益を換金しようとするしょう」
地震だけならばまだしもであったのに、その後の大火が江戸の町に存在した多くの消費財を焼き尽くしてしまっているのだ。直近の飢えから脱した人々は、平静さを取り戻していくうちにいろいろと生活に不足しているものに気付くはずなのだ。籾米の現物支給だと転売するすべもない庶民も、ものが証文であれば現金化も容易となる。
そして両替商たちもまた、相場のプロとして『お救い米相場』からその才覚に見合った利益を抜き出すことであろう。災害によってその潜在価値を高めている義倉の米を、ただ食料として配るよりもこのほうがずっと面白くなるに違いない。市中に不足する米を注入すると同時に、市場経済も賦活化するのだから一口で二度おいしいというやつである。
しかも……と、颯太が唇をぺろりと舐めた。
高騰相場から得られる利益に目がくらんでしまっている両替商たちは、颯太のもう一段底に潜めた狙いには気付いていない。
(…幕府がどれだけ統制しようとしても、こういうときは物価が跳ね上がるしかない……米の値段も上がるだろうけれど、繰り返し循環で新たに配布される『米証文』の相場も引きずられて上がっていくに決まってるし。被災者の手元資金を膨らませられれば、資本家たちに一方的に食い物にされることもないやろう)
「その証文の勧進、われらで承りましょう」
「些少の手間賃はいただきますが…」
「無論です。証文を刷るのもただではできませんし。手間賃とかの歩合は後ほど相談させてください」
鉄火場慣れというのはなかなかに恐ろしいものである。
冷静に見れば、颯太はその瞬間またしても新たな綱渡りに踏み出している。
老中首座の後ろ盾があるとはいえ支配勘定並という職権を大きく逸脱しているに違いない話を進めている自覚もあるというのに、その綱渡りを人生の一部として受けて入れしまっているおのれを颯太は諦観したように見つめている。
もうすでに毎日が波浪警報な6歳児である。
顔色も変えずに大風呂敷を広げかつ実行してしまった6歳児を、なかなかに恐ろしい笑顔で観察している岩瀬様の視線も感じている。きっとどの程度の力量なのかと値踏みしているのであろうけれども。まあ事が幕府とは関係がないとされる町会所内での施策であるので、それをについて後で責めを負うリスクは割合に低いことだけがこの際は救いである。
値踏みなど勝手にすればいい……颯太は腹をくくった。
美濃の片田舎から無理やり引っ張ってこられてこんな鉄火場に放り込まれてしまったうえは、多少の好き勝手はさせてもらうし、その尻拭いもあのメタボ老中に存分にさせてやろう。
てんでに企みごとを始める気配の両替商らを手を叩いて注目させる。
「あと、いちおうですがあなた方に発行させた証文の確認も行います。…本来ならば御城の勘定所にて吟味いたしたいところではあるのですが…」
支配勘定並が本来詰めているべき勘定所の様子を見たことなどむろんあるはずもないのだけれども、自転車どころか火炎車状態の幕府復興予算の火消しで猫の手も借りたいだろう状況であることは想像に易い。部署の監督者である勝手掛岩瀬様の命であるならばねじ込むことも可能であったが、颯太の現代脳はたやすく別の手段にたどり着いている。
「そこの……紀ノ国屋さんとおっしゃいましたか」
じっと颯太の動向を見守っていた紀ノ国屋に、切れ上がるような大きな笑みが浮かんだ。
たったいま町会所の御用両替商と反目になりかかっていたのをこの目で見たばかりである、ある意味監視にうってつけの第三者となってくれるであろう計数に明るい男を使わぬ手はない。
「てまえは神田三河町にて紀ノ国屋という店を構えます、美野川利八と申します。それで、てまえはなにをすればよろしいので?」
美野川利八……後の三井財閥中興の祖といわれる大番頭の、若かりし頃の姿であった。
感想ありがたく読ませていただいてます。
ちょっと身内ごとで周辺がごたごたしてます。改稿しているのにその内容が怪しいとか生産性のないことになりかかっているので、そのうち改稿の改稿とか、手が止まるかもしれません。
若干のペースダウン、お許しくださいませ。