021 震災始末⑤
「わぁたちの理屈は通らねぇ!」
声を荒げたその男は、まさに仁王立ちの様相でその他の気色ばむ男たちを睨みつけていた。
そこは颯太たちのまさに目的地……焼失した会所の代わりとして町役人たちが集まっているという、向柳原の空き義倉のひとつだった。
土間の上にどこかから持ち込んだのだろう畳を敷き詰めて、急造とはいえ『会所』としての体裁をそれらしくは整えられている。そこに車座になっていたのだろう男たちが、入口あたりの仁王立ちの男を迎えるように、全員で立ち上がってにらみ返している。
まさに今イベントが発生しました! というものものしい雰囲気である。
倉の中の人数はおそらく町会所の幹部連に違いない。見ただけですこぶる上等と分かる着物に身を固め、権威の鎧で周囲を威圧してやまないその様子は、前世の商工会議所あたりでよく見かけた、組織の幹部になりたがる輩と同じにおいがする。町会所の上層部であるならば、まさに長者と呼ぶべき旧家や有力家たちばかりであったろう。
その有力者たちに噛み付いている男は、声を荒げてなおもまくし立てている。
「何でいまこのとき、江戸の町が大変なことになってるっていうのさ、おめさんらは勝手な理屈で会所の米どご動かして、この江戸がら持ち出そうとしてるんだ! …ああっ、くっそ、腹立って舌が回らんけんど……ともかく! この美野川利八、お天道様に唾吐くような町会所の不正を知ったからには、この身命にかけてきっと正してみせる!」
その仁王立ちの男……美野川利八という中背の男が、もつれる舌をもどかしそうにおのれの頬を叩く。興奮のためか方言が駄々漏れに混ざるあたり、地方出身の人間なのかもしれない。
お天道様に唾吐くような不正、とまで糾弾された会所の面々の顔色の急変はなかなかに面白い見世物だった。青から赤へ、まるっきりリトマス試験紙のようだ。
岩瀬様から仕入れたこれは予備知識なのだけれど……町会所に積み上げられた巨額の金融資産を運用するのは、その道のプロ……勘定所の指名した御用両替商たちであったりするらしい。
つまりはこの時代の典型的な大商人たちであった。
「…その暴言聞き捨てにはできませんが、まあ少し落ち着きなさいよ、紀ノ国屋さん」
「何もあんたの懐が痛むような話をしているわけじゃないんだよ。これは会所の切り盛りを任されたわたしらの領分の話だ、部外者は立ち入らないでもらいたいと言っているだけでね」
「…ちっ、御用にも預かれない新参者は分をわきまえておとなしく引っ込んでろってんだよ」
両替商たちは、完全な上から目線で美野川利八……『紀ノ国屋』の旦那を突き放すような物言いをした。
「いま江戸にゃあ、家や店を失って途方に暮れる人間が溢れてるんだ! この会所の囲い米はそんなときの町の復興のために、もしもの備えとしてためられたもんだったはずだ! …それをあんたら、取り崩しは少し待てだと? 待つ意味が分からんね! いまこのとき、ここの米を配らないでどうしようっていうんだ!」
「いまその大切な話し合いをしている途中じゃないか。邪魔をしているのはどっちなんですか……さあさあみなさん、腰を折られてしまいましたが話の続きを」
「…こっちも町名主さんに泣きつかれてその名代で出張ってるんだ。その話に参加する資格は十分にあるはずで……って、ちょっと、放しなさいなっ!」
「さあ! 部外者は出てった出てった! …お役人様、お手数をおかけいたします」
そもそも御用両替商のほうが人数が多い上に、会所という半ば公的な機関の要職にもあるものだから、そこの警護に当たっている奉行所の役人たちはその筋目から彼らを守らねばならない。
非がどちらにあるかは分からなかったけれども、いままさに奉行所の役人に羽交い絞めにされた紀ノ国屋が排除されようとしていた。
「奉行所まで同じ穴か……くそったれ」
怒りのあまり奉行所に対する不敬を口にした紀ノ国屋に、役人たちの扱いがやや雑になる。
そうして追い立てられそうになっているその男へと、直感に駆られるまま素早く駆け寄った颯太。
彼の目配せに反応して、岩瀬様が役人を制止する。二人の案内であった奉行所の与力が首を振って見せたことで、お役人の追い立てはすぐに止めることができた。
割って入った形となった颯太は鼻の穴を膨らませた紀ノ国屋を見上げて、意味ありげににこりと微笑んで見せる。商人同士でいさかいが起こっていたということは、そこに利益の衝突があったという証拠であり、もうその時点で颯太の中の懸念はある種の確信に変わっていた。
米に金……流れるべき『血』は十分にあるっていうのに、町会所という肝心の『心臓』が心不全じゃどうしようもない。
「…あんたらは、なんなんだ」
「まあまあ、ともかく落ち着いて、こちらにも分かるようにかいつまんで話していただけませんか」
「オラは……わたしは今はそんな場合ではっ! …って、おま、…あなたが支配勘定並!?」
「こっちは御目付様です。仲裁には十分でしょう?」
「…あ、はい」
かくして。
この紀ノ国屋主人、利八と名乗った男。
頭に血が上っている間は商人には似つかわしくない正論を振りかざす短慮な人物に見えていたのだけれど、いったん気持ちを落ち着けて語り出すと、要点を突いた理路整然とした話しっぷりからかなり頭が切れる人物であることが分かった。
「…そっちの専門家だろうと町名主の人に相談されたわけですね」
「町に飢えが広がりつつあるのに囲い米を独り占めして、勝手を働こうとしている会所のやりようにいささか義憤を覚えまして、場違いは承知の上でこちらにやってまいった次第で…」
紀ノ国屋は、まだ三十代半ばくらいの少壮の商人で、彼もまた株を持つ両替商の一人なのだという。
紀ノ国屋の商売は元来菜種油や砂糖などの小売であったものを、これからは金融業が一番儲かると彼の代でそちらへと手を伸ばし始めた、いわゆる『やり手』の男だった。
平べったい肉の薄い顔は酷薄そうな印象があるのだけれど、新参者にはかなり敷居の高いだろう大両替商が集まる町会所に、単身乗り込めるほどの暑苦しい内圧をその内側に隠しているようだ。ここには町名主の一人に付託される形で乗り込んできたらしい。
町名主の付託?
その名の通り、町名主とは町会所において住人の代表者となるべき人であり、紀ノ国屋はその代表に泣きつかれたということである。
颯太のなかの『違和感』の空白に、パズルピースが少しずつ埋まっていく。
町会所の義蔵が立ち並ぶ現場に来て、米が無事であるのはすでに確認した。ハード面で問題がないのなら、原因はもうソフト面……組織を動かしている『人』にしか求めることができない。
紀ノ国屋に問題解決を依頼した町名主は、倒壊に巻き込まれた怪我で身動きが出来ないのだという。この未曾有の大災害時である、他の名主たちも年配者で、似たり寄ったりの状況にあるんじゃなかろうかと推察される。
意思決定者の不在。
そして金庫番の両替商ばかりが町会所に集まっている。
米が放出されない理由は単純明快、町会所の資産を実際に切り盛りする両替商たちが、最終的な決定を差し止めていたのが原因なのであった。
(あ、なんとなく察しがついた)
おおよそを察してしまった自分に萎えてしまいそうになるのだけれども。
ちなみに勘定所御用両替商……岩瀬様が言うには、江戸の長者番付で『行司』に挙げられる別格扱いの三谷三九郎に始まり、三井に並び称される三巨頭の小野組、島田組……そして大阪の鴻池一族の名がちらつく両替商たち……そうそうたるビッグネームばかりであったりする。
おそらく目の前でこちらをねめつけている男たちは、その大店の担当大番頭たちなのだろう。
息をするようにネゴシエーションしている彼らの幕府コネクションも相当なもので、相手が老中首座阿部伊勢守の懐刀である岩瀬様であると気付くや、素早く腰を浮かせてご機嫌伺いに集まってきた。
あっという間に取り囲まれた岩瀬様を尻目に、颯太は紀ノ国屋を隅のほうに引っ張ってきて、根掘り葉掘り情報を手早く吸い上げた。
(うはぁ……さすが商人、えげつないな~)
そうして知ってしまった、颯太をして呆れ返らせる町会所の現状…。
本来義倉の囲い米は、江戸町民の緊急時の備蓄米として貯められているものなので、こういうときは問答無用で放出されるべきものであったのだが、町会所に絶大な影響力を持つ御用両替商たちが『合議が成されていない』ことを大義名分として実行を差し止めてしまう。
町会所は名主衆の不在で脳死状態。
そして『囲い米』を町会所の『重要な資産』だと認識している御用両替商らが、おのれたちの論理に従い米の放出に強力に待ったを掛けた。
岩瀬様を取り囲んだその両替商たちから、盛んに『米の移送』という単語が飛び交っている。義倉の損壊による警備力の低下を錦の御旗に、郊外で健在のしかるべき倉に米を移送しようというびっくりな発言も耳に入る。
わざわざ備蓄米を目に付かない郊外に持ち出して、どうする気なのかは……高騰するのが目に見えている米相場を想像できれば、彼らがなにを企んでいるのかは明白であった。
おおよそのことを掴んだ颯太は、御用商らに取り囲まれている岩瀬様と再び合流すべく近付こうとするのだけれど、まわりに群がる大人たちに体格差ではじき出されてしまう。
こめかみの辺りをさすってストレスをやり過ごしつつ、颯太は声を荒げるでなく目いっぱいの勢いでパンッ! と拍手を打った。
こういうのは、予想もしない異音のほうが驚かせるのに効果があるものだ。
「あー、岩瀬様。こちらの方たちにいろいろと物申したくなったんですけど、その前に少し物陰で相談させてくださいませんか」
6歳児の物言いにきょとんとした両替商たちであったが、そのかなり引っかかる言葉の内容に顔をしかめ、それに快く同調して歩み寄った岩瀬様を見て顔色を急変させた。
呼び止めようとする彼らの声を聞き流して、岩瀬様は珍しく面白そうにその真面目くさった口元を緩めている。颯太がわざと『分かりやすく』、これからあんたたちに異議を唱えるつもりですけど、と前振りを行ったのが独特の諧謔の表れだと察したのである。
「さっそく『支配勘定並』の神通力をお試しか。陶林『殿』」
わざわざ彼の『役名』と必要もないのに『殿』をつけて見せるあたり、岩瀬様もこのあとの展開に乗っかって楽しむつもりのようである。
目付にして勝手掛、老中首座阿部伊勢守の懐刀である岩瀬様が親しげに応える事で、それを見ている両替商たちの中で目の前の得体の知れない6歳児の重要性がけたたましい警報とともに驚くべき急上昇を遂げたことであろう。
「『支配勘定並』って、割と偉かったんですね」
権力はまさに麻薬と同じだと、颯太は思う。
霞ヶ関の官僚の生涯所得が10億とか言うのも、これなら信憑性があるなとどうでもいい感想を彼はそのときのぼせていた。