020 震災始末④
何かおかしくはないか?
一連の話を聞くにつけ、微妙な違和感がしこっている感じが拭えない。
庶民の自治会である町会所が独自に備蓄しているという大量の米。
そして被災からすでに数日が経った今もなお、米の供給が危ぶまれるほど町奉行様の炊き出しに人が殺到しているという事実。
何かおかしくはないか?
道すがら、この町会所に絡むいろいろなことを岩瀬様から聞き取った颯太は、自然小走りになるのを止められぬまま絶賛思考に没頭中である。
食糧事情を改善できるだけの備蓄があるというのに、なぜそんなことが起こっているのだろうか…。
町入用と呼ばれる江戸市民税(?)の一部から緊急災害用に積み立てが義務付けられた『七分積金』は、江戸町人50数万人(全人口の約半数ほどらしい)から吸い上げられた莫大な金額の一部であったので、年額で2万両近く積み立てられ続けているのだという。金額を聞いただけで颯太は吹き出した。
2万両!
1両5万円換算で10億である。それが毎年町会所に積み上げられていっているというのだから、その積み立て義務が発生した松平定信主導による寛政の改革から約65年、単純計算で130万両が積み上がっている計算になる。
130万両って、…650億!?
その金に幕府はいっさい手をつけていないのだというから、なにがどうなっているのか分かり難いのだが、どうやらその巨額資金を元手に、町会所は武家、商人、庶民へと高利貸しのようなことをしているらしい。
町会所は江戸の区役所のようなものと認識していたのだけれど、もしかしたら公的な側面を引き剥がしたら現代で言う巨大投資ファンドのようなものになるのかもしれない。話が大きすぎて眉に唾をつけざるを得ない颯太には知る由もないことなのだけれども、実際に明治維新の体制崩壊後、江戸改め東京府がその資産をごっそりと接収したとき、その総額は170万両に達していたというから、約13年後となる明治元年まで年2万両積み立てがあったと仮定すれば、計算がだいたい合っていることになる。
岩瀬様はさすがに勘定方の手綱を握る勝手掛という要職に就くだけあって、町会所の内情にはかなり詳しかった。幕府は関知しないと情緒的な内規で縛っているのだけれども、それだけの組織をなにもせず放置するわけにもいかず、勘定方、町奉行所双方から監査役(定掛)となる役人が数名派遣され、常に監視はされているらしい。
おそらくはその町奉行所から繋がる役人のパイプで、お奉行様は炊き出し用の米を義倉から引き出し得たのだろう。
北町奉行、井戸対馬守覚弘は汗っかきな人だった。
北町奉行所は御城(江戸城)からさほども離れてはいない。というよりも、普通にお堀の内側にあった。現代の東京駅がまさしくその敷地の上にあるという場所で、呉服橋御門のすぐ側、阿部様の上屋敷のご近所であった。
お役人たちが忙しく出入りするお役所の入口に近付くとすぐに誰何の声が上がったが、岩瀬様のお供の人がすばやくこちらの来意を告げると、たちまちにして門番の態度が変わって、下にも置かぬ丁重さで役所内へと通された。
そこに手巾で首筋の汗を拭いつつ指図している井戸対馬守覚弘様の姿を発見した。
この時代、メタボ系の武士が結構いることにややショックを受けつつも、しっかりした造りの顎を肉に埋没させたような、大柄でふくよかな体型のお奉行様に近付いていく。
どうやら細々とした訴えを裁いているところのようだった。災害時のことであるので、お白洲に罪人を引き据えるような類のものではなく、お上の力にすがろうという嘆願や火事場泥棒の訴えなど瑣末であるが無視もできない案件を与力たち持ち寄り、お奉行様の独断と偏見でざくざくと処理されているふうである。
同じ阿部派であるためか、お奉行様と岩瀬様は当然のように面識があるようで、阿部様の懐刀である岩瀬様が姿を現したということを前のめりに理解したお奉行様が、裁きを差し止めてこちらへとやってきた。
「なかなかご苦労されているようですね」
「なにを他人事のように……よい話を持ってきてくれたのであろうな、岩瀬殿」
じろりと見下ろされて(この人背が高い!)颯太は思わず首をすくめたのだけれど、岩瀬様はさすがにそよとも動揺することなく「心苦しいですが、ご期待に沿えるかどうかはそれがしには保障しかねます……それがしはこの『陶林殿』に付き添っておるだけでして」などと、接触プレー寸前の危険なパスを放ってくださいました。
疲れで充血気味のお奉行様のねめつけがサーチライトのように颯太へと向けられる。
「そこの小僧が『陶林殿』?」
「あとでご説明いたしますが、伊勢様がまたぞろ引き上げられたわれらが僚友のひとりと申せましょうか。なかなか異例のことですが、この童がなかなかにしゃらくさい理屈を垂れますゆえ、後程少々堪忍の緒を緩めてその弁を聞いてもらいたいのですが」
「…陶林颯太と申します。よろしくお願い申し上げます」
まだ立ったままであるので、こういうときにそつのなさを発揮する体育会系のこれでもかという深々とした挨拶をしておく。忙しない折であるので、無用な長話は厳禁である。エアリーディングすれば当たり前の話。
そうして別室へと通されてとりあえずの挨拶を済ませた颯太であったが、やはり岩瀬様の『われらが僚友』という前振りが気になったのか、支配勘定並に抜擢されたにしては名も聞かぬし微禄過ぎぬかとまっとうな疑問を呈されてそのあたりの説明から要求されそうになったのだけれども、ここはやはり緊急時、無用な説明で時を浪費するぐらいなら、話を進めつつそのなかでおのれの立場と能力を証明して見せていったほうが効率がいいと、颯太は息を整え居住まいを正した。
…というわけで、颯太はおのれの感じた違和感と、その原因への考察をお奉行様にぶつけてみた。
「お奉行様に置かれましては、大地震と大火の混乱のなかでまず護民へと動かれたそのご意識の高さ、この陶林颯太、まことに敬服いたしました……無用な混乱を招かぬためにも、まず飢えを手当てするのが第一。お奉行様の英断が江戸の町を救ったと申しても過言ではございません」
「江戸を救ったなどと大層なことなどありはせぬ。…それよりも岩瀬殿、伊勢様は」
苦しい事情を抱えるお奉行様には6歳児の長広舌に付き合うゆとりなどないのだろう。すぐにその目が隣の岩瀬様に向けられてしまうのだけれども。
颯太はスルーされたとて口をつぐむことなどありはしない。
「…町会所の義倉には、まだ途方もない量の籾米が蓄えられているとうかがっていますが……あえてその倉に手をつけられたお奉行さまではないですか。使い道はその所有者たる庶民の命を繋ぐため、まこと理にかなった大義名分があるのですから、そのまま取り崩してお行きになればよいではありませんか」
「…ッ! 小僧」
「毒を食らわば皿まで、と申します。いずれにせよすでに手をつけてしまっているのですから、その結果取り崩す量の多寡などいわゆる五十歩百歩、ためらう必要などないではありませんか。…ならばそのまま」
「…義倉に手をつけていることを伊勢様はご存知なのか…」
「日に何千俵も必要となる米が対馬殿おひとりの力でどうにかなるなどと思うはずもないでしょう。伊勢様もそのあたりのことはすでに察しておられますよ」
岩瀬様の言葉に口をつぐむお奉行様。
タイミングを心得た岩瀬様のアシスト受けて、颯太は平伏しつつも目だけはお奉行様に向けてすらりと言葉の切っ先を向けた。
「お上が庶民の義倉には手をつけぬ習いは、すでに反故になさっているのですから、いまさら逡巡することもありません。この際、お奉行所が町会所に代わって義倉を開き、お救い米を庶民に配布するぐらいしてしまってみてはどうでしょうか」
「………」
「すでに阿部伊勢守様のご指図で各地への米の手配は始まっています。その米が市中に供給され始めるまでのつなぎなら、義倉の米だけで十分持つものと……向柳原の12の倉だけでなく各所の義倉も合わせれば十数万俵は蓄えられているとか」
町会所の義倉は向柳原……浅草の神田川沿いの結構な敷地に最初の義倉が12棟が建てられ、後にその備蓄が多くなると他所にも設置されていった。町会所もその向柳原にあるらしい。
ひたと颯太に見据えられて、お奉行様はまた浮き出した汗を拭い出した。
その手巾を袖の中に仕舞いこんで、咳払いひとつ。
「事はそう簡単にはゆかぬのだ」
苦い薬でも飲んだように、その口を歪ませてお奉行様は言った。
…で、いまふたたび移動中の颯太である。
ようやく違和感の中身が見えてきて、よりいっそう颯太の眉間にも厳しく皺がよっている。
向かっているのはむろん町会所と義倉のある浅草は向柳原である。そこが奉行所の炊き出しの拠点のひとつともなっていたようなのだが…。
「…すごい集まりようですね」
「炊き出しの量がかなり先細ってますので、あぶれぬようにと朝早くから陣取りする者も大勢います。ここは毎日いくさです」
案内に立った与力役人が手を振ると、道端で警備に当たっている役人から挨拶が返ってくる。物資不足の折であるから倉を警備するのは当たり前ではあるのだけれども、その役人たちの目がかなりすさみを帯びている。
お役目で家にはあまり帰れないし、状況的にもこの任務で気を抜くことなどとうていできはしないだろう。それにどうやらこのあたりで殴り合いの喧嘩は茶飯のようだ。
このような大都市になると、世間の常識をわきまえない悪たれなどごろごろいるのだろう。その仲裁などを頼まれれば奉行所役人である手前おろそかにできないに違いない。
さすがはこの時代最強の防火建物である倉はその高い土塀にも守られ火災の難は逃れられたようであったが、ところどころ大きな亀裂が入り崩れてしまっている部分も散見されて、今なら確かに警備が必要だろうと思えるほど簡単に潜入できそうであった。
その倉の入口には岩瀬様の顔見知りがいたようで、一行はすぐに中に入ることができた。その顔見知りは、奉行所同様、勘定方から町会所に派遣されている専任の役人のひとりらしかった。
その役人にこそこそと話しかけて、耳をそばだてるように内密の事情を聞き取った岩瀬様は、ようやく颯太が懸念していた問題の病巣がここにあるという事実を受け入れたようだった。
「…草太殿の予想通りだったようですね」
「…馬鹿馬鹿しい、ほんと嫌な話です」
颯太は小さく吐き捨てた。
ふたりの目の前には、険悪な雰囲気でにらみ合う人々の姿があった。