017 震災始末①
岩瀬忠震という人物が安部伊勢守に重用されていたことは、そのいささかつぎはぎ感のある肩書きを見れば察せられる。
安政2年現在において、目付、勝手掛、海防掛と3役も兼任しており、役が貰えずニート状態の旗本が溢れるなかその状態異常っぷりをさらしている。
旗本御家人の監視役として強力な職権を持つ『目付』は言うに及ばず、『勝手掛』は幕府の財政を専門管理する勘定方の首根っこを掴む要職であり、いまひとつの『海防掛』は新時代人事の花形ともいえる国防の最前線職である。使える人とはいえ、阿部様、もっと自重しようよと言いたくなる重用っぷりである。
この江戸大地震の混乱のさなか、震災復興の特別チームを編成するのに阿部様が真っ先に想像した人物はおそらく彼であったろうし、急遽呼び寄せられた颯太が彼の下につけられたことはまあ自然な成り行きでもあった。
颯太の役が『支配勘定並』とされたのも、おそらくは彼の『勝手掛』筋を睨んでのことであるのだろう。この時代、算盤をはじくものは一般に有能なものしか登用されないために、颯太の抜擢も気休め程度には説得力がにじんで見える。
「…まず確保すべきなのは、庶民の生きていくための最低限の生活環境です」
所詮はいち零細企業の社長にしか過ぎない颯太にとって、災害復興などはひたすら専門外といわざるを得ない。
だがそれでも現代で当たり前であったやり方が効果を発揮するのを彼は知っていたし、周囲もその『手腕』に過大な期待を寄せている。颯太を逆さに振るように大原でのやりようを吐き出させた阿部様と岩瀬様は、その復興の流れのなかにある『理』を読み取り、颯太に手立てを口述させながら問いを発してくる。
「生活カンキョウとはなんだ」
「…人が暮らしていくための、衣、食、住と、幕府による揺るぎない行政サービ……お上による正確な広報と、可能な限りの扶助です」
「おまえはたまに不思議な言葉を使うな。…さぁびとは……とつくにの言葉のようだが」
「…飢えなければ人々は冷静さを取り戻します。揺るぎなく後押ししてくれるお上という権威を感じられれば、その寄る辺にすがって生活が平常に復するまで我慢しようと思ってくれるでしょう。未来に対して前向きな気持ちが強くなれば、自然と復興の活力も高まります」
顔色も変えずツッコミをスルーして、颯太はすっかり冷え切った茶を一口含んだ。
話している間にも、昨年末の地揺れの混乱が思い出されて、それに関連付けられた心苦しい記憶も甦ってくる。茶の味などまったく感じない。ただ口のなかをきれいにするためだけに機械的に喉に流し込む。
(きっと、子供も大勢死んでる…)
ちくりと胸に痛みを覚えて、ぎゅっと目を瞑る。
町の規模、被害の大きさから、数千単位の被害者が出ているだろうことはほぼ確定している。市街地が内湾に接しているために津波の被害こそ軽微であるものの、二次災害である大火が木造オンリーの町並みを舐めるように焼き尽くしていた。
この時代の建物は、屋敷といわれる程度に立派な家や寺社でもない限り、ひどく脆弱な造りである。最初の本震だけでもかなりの死傷者を出したことであろう。
事前情報として、幕府が把握している諸々はすでに颯太も共有することとなっている。一般的な長屋どころか比較的造りのしっかりとしている武家屋敷さえもが相当にやられており、前世で一度見たことのある東京の災害マップのような被害状況が、江戸八百八町を覆っているのだろうと推測している。豆腐のような埋立地の上にある建物はほとんどやられているのだろう。
草太の中のおっさんも、学生時代は東京に住んでいたことがある。そのときに知った東京のいわく付きの『地名』なども推測の手がかりになる。『砂』『谷』『窪』が付くあたりの被害が大きそうだ。
「飢えぬために食い物が必要なのは道理だが、なぜお上がいちいち住民に状況を報せねばならんのだ。要らぬ知恵をつけても…」
「つまらない流言飛語に惑わされないようにするためです。不安でめくらになった人間は、容易く誤解し破滅的な行動に出ます……実家の隣村では、いろいろあってわずかな食料をめぐって血を見る騒動が起こりました」
「…そうか」
「家族を失ったものとそうでないもの、家財を失ったものとそうでないもの、天の差配とはいえ不平等な状態が放置されるのはよろしくありません。被害者同士の不毛な争いが起こる前にお上のご威光にて不安を払拭すべきです……困窮したものも、どこそこでお上の炊き出しがあると分かれば目の前の不満になどとらわれずにともかく露命をつなぐことに目を向けるでしょう」
「…そういえば炊き出しはすでに町方の判断でいくつか動いておったな。このところ対馬めが米と人を寄越せとうるさかったが…」
「御城の庫裡を開け放つにしても上様(※この場合は将軍様)のご裁可がまだでございます。…何度もお伺いを立てておりますが上様が奥に引きこもられておられて…」
あんのカステラ将軍……つかえんな。
あの小柄な将軍様が布団にもぐりこんで丸くなっている姿を思い浮かべて自然と舌打ちしてしまう。
頭は悪くなさそうなんだけどなー。
「…御城もこの状態ゆえ人の抽出もままなるまい。みなおのれの役宅も放り出して走り回っておるのだしな……市中が混乱しておらんのは、ひとえに対馬の奮闘の賜物なのだが……このまま無援ではいくらももたんだろうな」
『対馬』とは、この当時の北町奉行、井戸対馬守覚弘のことである。
知る人ぞ知るこてこての阿部派であるが、むろん颯太の知るところではない。
この時代、町民の自治組織は司法行政ひっくるめて町奉行所に管轄されている。いま現場で一番鉄火場となっているのはまさに南北町奉行所であったろう。
「…余ってないのなら、搾り出したらどうです?」
特にどうってことない様子で、颯太が生暖かい笑いを浮かべる。
そういう何かをたくらんだ笑みに慣れのある幕閣の要人であるふたりは違和感など覚えなかったようであるが、次郎伯父あたりが見たらさぞやドン引きしたことであろう。
「搾り出す…?」
「一番数を集めやすいのは町人の方たちですが、自身の財産を守らねばならないうえに町内の地縁にも縛られてるんで、市中を易々とは動かせないでしょう。彼らは住居近隣に限定した手足として使うとして、…幕府の人手としてはもっと別の……そういった縛りのない適当なところから搾り出せばいいと思いますが」
ぺろりと唇を湿しつつ、ちょっとした算段を開陳する。
この時代の『自衛隊』的な緊急対応能力のある組織といえばむろん本来は軍隊である徳川八万騎……江戸在府の御家人たちである。
すでに奉行所の町方は動いているらしいのだけれども……ここで少し考えねばならないのは……幕府が成しえねばならないのは何も市街地復旧ばかりではないと言うことである。
お上の命で自由に動かせる彼らにはほかにやらせねばならない大事は山積しているので、組織としての力を維持するためにもその数を無計画にすり減らすわけにはいかない。
それとは別口に人手の当てはないのか?
いや、ある。
颯太の意味ありげな笑みに、ふたりの大人が理解の水準を寄せてくる。
「そうか……在府藩士か」
まさしく彼らは『遊兵』である。
颯太は目の前に広げられている江戸市中の切り絵図に、大胆にも筆を走らせた。あるものを目印に、適当な大きさの『○』で囲っていく。
「見栄で必要以上に遊ばせている藩が多いと思います。上屋敷、中屋敷、下屋敷それぞれを中心に、一定の範囲を区切って復旧の人手を押し付けましょう。被害は御城を中心にした武家町……かつての干拓地に集中しているようですし、諸藩の屋敷もいい感じに集中してます」
「しかしあれらは幕府の臣ではない。早々こちらの思い通りには動かせぬぞ」
「武家の筋であるなら、その筋に沿ってお命じなさってください。雄藩も震えあがらせる幕閣のご沙汰ならば否やはないでしょう」
「…変な借りは作りたくないのだがな」
「諸藩の力を削ぐために動員をかけるのはお上の十八番ではないですか。なにをいまさら……ああ、彼らに与える餌なら、参勤交代の免除ぐらいでどうでしょう? 大喜びで協力してくれると思いますが……『協力の度合い』で参勤交代の減免とかどうですか? 顕彰に値する働きを示した藩は一年完全免除とか」
「………」
「………」
あれ?
なにこの微妙な空気。
そのとき調子に乗った颯太の額に、ズビシッと扇子を叩き落す阿部様。痛いッ!
「阿部様はどこでこの鬼子を拾われたので?」
「そういう嫌味はやめよ。…ご公儀のご法度を軽々しく語りおって、こやつにはそのうち適当なしつけも必要だな…」
涙目の草太に一瞥をくれて、阿部様は隣室に控えていた茶坊主を呼びつけると、文台と硯を持ってこさせた。なんだよ、結局乗っかるんじゃんか。
「いずれにせよ参勤を止めることは市中の糧食の浪費を防ぐことにも繋がるだろう……他の連中(老中)にも多少は掛け合う振りもせねばならんが…」
さっそく諸藩に宛てた書状をしたため始める阿部様。さすがに仕事が速い。
それを額をさすりながら眺めていた颯太が、追記を要求する。
「ただやらせるだけでは心許ないです。たかが町民風情がと居丈高にやられたら町人のほうが萎縮してしまって何にもならないかもしれません。各担当区域に幕府の目付が立つこと、事後の幕府からの感状(※感謝状)に町人からの評価を反映することを明記してください。…それぐらいやっておいて、ちょうどよいくらいでしょう」
「…まあ頭の固い連中だ、ありそうなことだな。よかろう」
ひとつの書状をしたためると、それがお役人の一人に手渡されて、別室へと持ち出されていく。おおかた筆まめなお役人たちによってコピーが量産され、各藩邸にばら撒かれることになるのだろう。
「…で、次になにをする」
当たり前のように更なるプレッシャーをかけてくる阿部様。
颯太の赤くなった額に汗が浮かんだ。