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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
137/288

009 ボリス・イワノフ






あるロシア商人が、草太を名指しして商談を希望しているのだという。

聞いたすぐには驚きを、少しして深い疑念を覚えた草太は、その感想を率直に口にのぼせた。


「計算が合いません」


露西亜帝国全権使節プチャーチンが戸田村を発ったのは安政2年3月22日(1855年5月8日)のことであり、今日が安政2年9月18日(1855年10月28日)ということは、その間約半年前ということになる。

皇帝の命により派された全権使節であるから、プチャーチンはとにもかくにも主君に結果を奏上するために帝都を目指さねばならない。帝政ロシア期の皇帝の御座所は今のモスクワではなくバルト海に面した旧都サンクトペテルブルクだったはずである。

よく考えてみて欲しい。

北極海はむろん氷に閉ざされ航行不能、船旅などありえるはずもなく。この時代のロシア人たちの取りうる手段はただひとつ、おのれの足でとてつもない距離の陸路を踏破するしかない。念のために言っておくが、まだシベリア鉄道など陰も形も無い時代である。

春から秋にかけての暖かい時期の旅程であったろうが、それでもシベリアの原野を1万キロ以上も旅しなければならないのである。それは下手をしたら三蔵法師のガンダーラ行よりも長い距離である。ほとんど騎行だったとしても、これは罰ゲームと変わるところがないであろう。

片道だけでおそらく数ヶ月、そこからなにがしかの皇帝の意向を受けて取って返したとしても、この半年という期間で再び日本にまで訪れることはおよそ不可能であるといえた。(※草太は無論知らないが、史実ではプチャーチンが帰還を果たしたのは11月といわれている)


「その者はスイビーリ総督なるものの命を帯びて来訪したと申しているらしい。帰りの途上で全権使節殿がスイビーリ総督と接見して、その『根本新製』を教えたのではないか」


阿部様のその見解がおそらく正しいのだろう。

スイビーリ……ロシア語の語感そのままにいうシベリアのことだろう。~総督という呼び方は、なんとなくだが新たにできた植民地を統括する行政長官というイメージがあるのだが、この時代のロシア帝国視点で見ればたしかにシベリアは『新領土』であるのだろう。

ちなみにシベリアは、後に『西比利亜』と字を当てられる。


(…さすがにこの時代のロシアの動きとか、プチャーチンぐらいしか定かには知らないけど、時期的に北方領土やサハリンの取り扱いなんかで幕府と条約みたいなものを結んでたはずだ)


北からやってきた露西亜帝国と南からアイヌの生活圏を取り込む形で北上する徳川幕府との間に葛藤が生まれ始める時期でもある。間宮林蔵が調査の先鞭をつけたとはいえ実際に支配下の人員がそこに常駐していたわけでもなく、後から来たロシア調査団(彼らの感覚的には冒険)もまた実際の移民を引き連れてきているわけでもない。

このとき戦争にならなかったのは、この北辺の地があまりに寒冷であり領土化に不適な過酷な環境にあったためである。戦う軍隊自体もその地にはいないのだからそもそも衝突しようもなかったりするのだが。

そのシベリア新領土の総督の命を受けたロシア商人というのが、プチャーチンの前例に習って下田にやってきているのだという。下田奉行である川路様の弟がこのとき居合わせたのはそうした裏事情があったためなのだが、むろん草太が知る由もない。


「全権使節殿が見せたおまえの新製焼を、スイビーリ総督が高く評価したらしくてな、ぜひ入手したいのだそうだ。…どうやら露西亜帝国の人間にとってあのていかっぷは相当に値打ち物のようだな」

「戸田村で会ったプチャーチン様も、一目見てぜひ欲しいと顔色を変えていましたし。露西亜帝国の皇帝一家、ロマノフ家も専用工房を作ってしまうほどの磁器好きで有名ですので、その総督も皇帝への献上品にするつもりなのかもしれません」

「…ほう、なかなかに彼の国に通じておるようだが?」

「…えっと、…あちらの事情は書物にて……生半可な知識でお恥ずかしい限りですが、そのロモノーソフなるその帝室窯で焼いた一品は、阿蘭陀、英吉利などでもなかなかに高い評価を受けているようです」


迂闊に滑らせた口を慌てて閉じることをせず、あえてもう少し踏み込んでおく。落ち着きを失ってごまかすよりも、それなりに調べたのだと主張して見せたほうが不自然さがない。チート転生者としての世知を実行したわけだが、むろん内心は冷や汗である。

オレのバカバカバカ。

阿部様の目つきが変わっちゃったじゃん!


「…京で新しい書物を読み漁ったと聞いておるが、その歳でそこまで事情に通じるとは、おまえの勉学への熱もさることながら、そうした書物に出会える『運』こそが非凡であるのかも知れんな……ろものーそふか。御用の窯まで作ってしまうほどの酔狂ならば、異国の磁器にも相当な大枚を叩こうな」

「彼のロマノフ家は、あちらの王侯のなかでも有数の富を持つとか。気に入れば途方もない対価を惜しげもなく支払ってくれるのかもしれません」

「倹約にきりきりするこちらとは大違いなようだな……そうか、商いの相手としてはかなり有望だということか」


おのれの体調の悪さなど、この一瞬の気持ちの高ぶりに吹き飛んでしまったのか。阿部様は足を組みなおしてぬっと草太に顔を近づけてくる。

財政難にあえぐ幕府を背負っているだけに、国を運営することの「儲からなさ」を知る阿部様にとって、世界中の植民地から収奪しているヨーロッパの王侯貴族の豊かさは未知のものであっただろう。

ロマノフ家が外貨準備として中央銀行に保管していたという金塊の重量は976トン。比較対象を家康の掻き集めた600万両とすると、慶長小判1枚17.8グラムとして106.8トン。小判換算として逆算すると、ロマノフ家は現在進行形で5480万両所持しているということになる。さらにイギリスの国立銀行に前世の価値で数百億ポンドの資産を預託していたとも言われるので、合わせれば小判にして1億両近い。

まあ開いた口がふさがらないレベルのお金持ちだということである。

莫大な家康の遺産を持ち出してすら大人と子供の世界であることを阿部様が知ったらどのように感じることだろう。むろんそこまでの詳細な情報を教えるわけにもいかなかったけれども、阿部様には圧倒されるでなくそれをむしりとるくらいの気構えは見せてくれることを期待して眼差しに力を込める。


「今日ここにうちの『新製』を5対用意しています。この品はまさにこういうときのために用意したのではありませんか?」


草太は阿部様をまっすぐに見据えて言った。

『根本新製』という高級ブランドの顧客として、ロマノフ家はまさに押さえておきたい相手である。うまく入り込めば打ち出の小槌化も夢ではないだろう。

新たな歴史の試金石。

背筋が震えてくるのを草太も我慢していた。


「公儀のお取引として、この商談、試してみるのも一手かと思います」


ぷくっと、阿部様の頬が膨らんだ。

ぱしぱしとおのれの膝を何度も叩くと、阿部様は手を伸ばして草太の頭をかき回し始めた。あの、結った髷がほどけるんですけど…。


「なかなかおもしろくなってきたではないか!」


カチリ。

そのときどこかで別の歴史の歯車が回り出した気配がした。




ボリス・イワノフ。

それが露西亜商人の名乗った名であった。

阿部様の決断により動き出した幕閣は、大目付格筒井政憲様を筆頭に下田奉行井上清直様、勘定吟味役村垣範正様を会見の場である下田へと派した。

露西亜帝国との間には下田条約(日露和親条約) が発効したばかりであったが、この人選はそこからさらに一歩踏み込んだ交渉が行われることを予期したものに違いない。

海外列強はどの国も最初の条約で幕府に開港を迫り、鎖国体制の最初のバリアを突破した。次に求めてくるのはむろん『通商』である。あの日米修好通商条約ですらまだ3年も先の話なのだが、外交というものは互いの利害が合一すればあっさりと壁を乗り越えてしまうものである。

仮の下田奉行所である稲田寺で、その商人との会見が行われた。

なぜかその重要な会見の場に同席することを命ぜられた草太は幕府側3人の後ろで小姓よろしく『根本新製』を抱えて立っている。この時代に生まれてそうであることが当たり前になりすぎて違和感しか感じないのだけれども、プチャーチンのときのように会見はテーブル……この場合はさらに『和室』で、という冒涜的なスタイルで行われるようだ。テーブルセットは建具職人にでも作らせたものか、機能性は有しているものの装飾性は皆無でまるで中学生のころに工作で作った椅子のようなシンプルさである。むろんこの国が極東の異文化の中で形作られてきたことをわきまえているボリス・イワノフは黙って椅子に腰を落ち着けている。


「あの茶器をいくらか譲っていただきたい」


握手を交わした後、さっそくとばかり交渉が始まって、開口一番ボリス・イワノフがそう言い出したわけであるが、むろんまだ国自体が他国との自由貿易を認めたわけではない。日本はいまだ鎖国体制の余韻のなかにある。

国同士の商談としてことを進めるならば、老中首座の阿部様とはいえ一存で決めていいレベルの話ではなくなる。そういう流れになれば通商条約的なものが避けがたく浮上してくることだろう。

商人、と自称しているものの、ボリス・イワノフは一見して軍人であった。

皇帝の遣わしたものではない、高位とはいえシベリア総督の独断で派遣した人間であったから、相手にいらぬ警戒心を与える『軍人』を名乗ることを嫌ったものか。


(商人って、これコサックじゃね?)


シベリアからやってきたのであるから衣服が厚手であるのは当たり前であるとしても、このモンゴル衣装と軍服のコラボっぽい格好は、コサックしか着用を許されなかったというあれにかなり似ている。というか、そのものだろう。

どうせ知らないだろうと無頓着にそのままの格好で来たというのなら、さすがのロシアクオリティである。

露西亜帝国の東進はまさに原野を駆け抜ける冒険行であり、シベリア鉄道もないこの時代のこちら側の住人は非征服民を除けばほとんどが軍人……いわゆるコサックであるのだろう。そのなかで外国にまで渡り交渉ができると期待されているこの人物、おそらくは上級士官クラスの軍人であると見た。

草太はその仏頂面のボリス・イワノフを眺めつつ、ぺろりと唇をなめた。

さて、どうやってこちらの『利』を引き出そうか。

すっかりクソ真面目に外交やろうと肩肘張ってしまっている幕閣の代表たちを当てにしてはいけないだろう。これはたぶん、降って沸いたボーナスステージだ。

この『商人』を派遣せざるを得なかった人材不足のシベリア総督さんに合掌しつつ。草太はひそやかに微笑んだ。


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