008 思いがけぬ報せ
私用にて明日から2日間は更新作業をお休みします。
関ヶ原の大戦を境に世の大勢が決し、過酷な椅子取りゲームに血道を上げていた武将たちがその運命の明暗を分けたとき……勝者はイコール強者であり、強きものが権力を振るうことはそれほど違和感を喚起するものではなかった。
覇者家康が再封する形で大領を与えた者たちは大名として、それ以下の徳川体制の功労者たる諸将は旗本として、当時2千万石とも言われる国内生産力の再配分に預かった。江吉良林もまた勝ち馬に付いた祖先の功により、そのとき2000石を賜ったクチである。以後二百有余年……大身旗本という貴族的地位を安堵され、なんの疑問も無くその大禄を食んできたのだろう。
傍流の末の末にしがみつくばかりの6歳児がそのような論評をすることが許されるのかどうかは定かではなかったが、草太は目をすがめて当然のように『権利』を振り回そうとしている親子ふたりを見つめていた。
江吉良林当代の内膳様とその息子庫之丞。
今まで接点さえ無かった彼らが有能かどうかなどは断ずることもできなかったけれども、草太の脳裡には『既得権』というよろしくない単語がちらつき始めている。
「わが家の家産たる『根本新製』が過分なほどのご評価をいただき、身にあまりある光栄にこの内膳、冷汗三斗の想いにございます」
「…うむ、貴殿がこの鬼子の本家筋に当たるという…」
「殿中にて阿部様には何度かお会いいたしておりまするが、『小姓組』など殿中では路傍の石にも等しき軽輩でございますゆえ…」
「ああ、いや、何度か顔を見た覚えはある。そう頭をこすり付けては畳がちびてしまうわ。そこな鬼子はわたしが招いた客人ゆえ、林殿もそのように心積もりして少し楽にされよ」
「お心遣い感謝いたしまする」
まったくもって、あいさつがいちいち重っ苦しい。
『根本新製』の実績がすでに認められている上に面識もある草太ならばすぐにでもぶっちゃけトークに持っていくこともできるのだけれど、本家の人々はおのれの社会的地位を定義してくれるお家や肩書きを持ち出さないと安心できないほど気持ちの余裕を失っているのだろう。
江戸本家の当主が属するという本丸小姓組とは、その字のごとく『お小姓』なのであり、主人である将軍様に近侍する役職である。むろん将軍様と直に話ができるほどに役職を累進していれば、おのずとその役名にも『~頭』とかが付くもので、ただの小姓としか名乗れない林家当代は平小姓、数十人はいるのだろう下っ端小姓の一人に過ぎない。
ようやく許されて顔を上げた内膳さまであったが、彼のなかの段取りはまだ継続中であるようで、いまだに平伏したままの息子のほうをちらりと目配せして、阿部様に無言の配慮を願っている。謙虚を装ってはいるけれども、これは結構あつかましいのではないかと草太などは思ってしまう。…案の定、上座に腰を据えた阿部様もいささかめんどくさそうに眉根を寄せたままでいる。
「…そちらは林殿のご子息のようだが」
「庫之丞と申しまする。今後『根本新製』持ち込みの折には粗漏なきようこの者を我が家の目付けとして同行させますので、以後よしなに…」
「そ、それがし林庫之丞と申しまする。なにとぞ、なにとぞよろしくお願い奉ります!」
発言の許可も出ていないと言うのにテンパッた御子息は挨拶を始めてしまった。格的にずいぶん上とはいえ直接の主君でもない阿部様に『奉る』はないんじゃないかな~などと感想をのぼせている草太を尻目に、江戸本家のかたがたは闇雲に突っ走っていく。
売り込みの方便なのだろうけれど上納時の目付けとか、嫌過ぎる。『根本新製』の取引に意味もなくこの経験不足の若様が介入してくる未来を想像して頭をかきむしりたくなる。
視線を感じて草太が顔を上げると、いろいろと言いたそうな阿部様の視線が顔面に刺さってくる。そんなプレッシャーをかけられても、傍流も傍流、しかも庶子にしか過ぎない草太にはいかんともしがたい流れである。
老中首座という要職にある阿部様の貴重な時間を浪費させているということにまったく頓着もしていない内膳親子の売り込みが5分ほど続いたことであろうか。
とうとう堪忍袋を破裂させそうになった阿部様が黙って席を立ち、ぷいっと廊下へと出て行ってしまった。他人事ではないのだけれどもあまりにまずい展開に、草太と浅貞屋がすばやく小声でやり取りする。
「…まずいのではないですか」
「…まずいねえたぶん」
「…せっかく繋いだ大切な伝手が切れてしまっては大変です。なにか妙案はないのですか」
「…いや急にそんなこと言われても、見動きとれんし…」
場の空気を悪くした内膳親子は呆然自失である。殿中で上役の顔色をうかがうことも多かろう父のほうは、さすがに阿部様のご勘気には気付いている。売り込みに必死になるあまりに、おのれたちのやりように対しての客観視ができていなかったのだ。いまさらながらにおのれたちのあつかましさに気付いた彼らは、滝のように冷や汗を掻いて畳を見下ろしたまま凍りついている。
「…なんとかなりませんか。もうしばらくこのままだと、全員そのまま追い出されかねませんな」
「それは困る」
草太の後ろには、今回納品予定であった『根本新製』が5セット積まれている。幕府御用という金看板があってこその高値は、当然ながら幕府からの継続的な需要を獲得してこそ維持されるものである。その連続性が壊れれば、価値など砂上の楼閣のようにあっけなく崩れ去るであろう。
おそらくはこの部屋の中でもっとも冷静であり続けたのはやはり浅貞屋であり草太であったのだろう。解決策を模索する草太の目が阿部様の出て行った廊下へと向けられて、そこで見知らぬ人物の意味ありげな視線を発見する。
顎の線の細いその容貌に見覚えがあった。
(…川路様の弟さん?)
肉付きの薄い面に、控えめながらも強い光を持った眼差しが草太を見据えている。腕組みしてただ何かを待っているようなその様子におののきを覚えて草太は思わず立ち上がった。
「すいません、厠を貸していただけないでしようか」
廊下に座を暖めていたお役人の一人がすぐさまそれに反応して、
「案内いたします」
すっと先導するように立ち上がった。
その後にとてとてと草太がついていくと、廊下の柱際に立っていた川路様の弟さんが、
「ようやく察したか」
と不満げに小さく鼻を鳴らした。
イレギュラーな状況であったとはいえ、相手の見えない要求を拾い上げられたことに草太は冷や汗を拭う思いだった。
やはりというか阿部様は別室で草太を待っていた。
彼らのいた玄関近くの部屋からやや離れた、江戸城の石垣が塀越しに見える間に、壁に背中を預けるように胡坐をかいている阿部様の姿があった。
「きたか」
「いきなり中座されるものですから、みな勘気に触れたものかと慌てておりますが」
「…おまえの新製焼は、あれらに偉そうな顔をされるほどになにか指図されたり、便宜なりを図られてでもいたのか」
「あー、…いいえ」
「どうせおまえたちの成功を聞きつけて便乗してきた口なのだろう? 最初の一言二言で透けるように見て取れたわ。焼物のやの字も知らんだろうに、目付けに小便くさい若造をつけるとかこの伊勢を愚弄にするにもほどがあるわ」
老中首座ともなれば、無駄にしていい時間などほとんどないであろう。本来ならば城に詰めて政務をこなしているべき彼が、この日中になにゆえ自邸にいるのかに思い至れば、そこに潜んでいる事情にも気付くことができたであろうに。
草太のほうは、阿部様の顔色を見てすぐにあることに気づいていた。
「体調がよろしくないのですか」
草太はごく普通に、思ったことを口にする。
その率直な物言いに幾分気持ちを持ち直したらしい阿部様が漏らすように笑った。
「江戸病なのかもしれんといわれたわ」
「…江戸病ですか」
普通に座ることも億劫そうに柱に背を預けている阿部様の顔色はあまりよろしくない。光の加減もあるであろうが、土気色というよりもうっ血したように黒ずんで見える。
《江戸病》とは歴史好きならばピンとくるかもしれない。いわゆるビタミンB1不足……脚気のことである。治療法は簡単なものだ。不足する栄養素を補給するために、それ用の食品を多く食べればいいわけなのだけれど……顔色の悪さが、そうではないという印象を草太に与えた。
肉付きのよすぎるメタボ体質がそちらへの連想を後押しした。
(成人病じゃないのかな…)
肌色の悪さが、脚気よりも肝臓腎臓の病変を想起させた。
伊達に前世でおっさんならではのカウンセリングを受けていたわけではない。
脚気であるのなら、玄米でも食べさせておけば改善させることができるのだけれども、成人病とくるとさすがにいかんともしがたい。
「…左衛門尉(※川路)から聞いたが、露西亜人と会談をしたことがあるそうだな」
阿部様はおのれの不調にそれほど危機感を抱いていないのだろう。いい年したおっさんが集まると始まりやすい不健康自慢をするでもなく、まったく関係のないことを口にした。
「おまえのことを名指しして、取引したいとやってきた者が来た……露西亜商人だと名乗っている」
阿部様の健康回復手段を熱心に考え込んでいた草太は、言われた内容を聞き逃すところだった。
「…はっ?」
草太は間の抜けた応えを返した。