005 負けてられん
権現家康が天下を統一した時点での幕府の国庫には、一説には600万両もの膨大な財宝が積みあがっていたといわれている。
佐渡、石見などの金銀山を掌握し、さらには豊臣家の財宝も接収した家康が貯めに貯めた軍資金である。
その600万両を子に託し終えたとき、家康は「これでお家は安泰」と胸をなでおろしていたことであろうが、実際には苦労知らずの後継者たちが無思慮に散財し、5代綱吉に至る80年ほどの間にその財のことごとくを蕩尽してしまった。国庫は払底し、臣下への給金遅配の危険さえあったというからひどいものである。
他の大名家も似たようなもので、参勤交代や賦役によって幕府から計画的に搾取された彼らが干上がるのは相当に速かったと思われる。戦国という略奪の時代を勝ち抜いた勝者として大名たちが豊かであった江戸初期を過ぎると、武家の家計は次第に厳しい冬の時代へと突入していく。
幕府親藩、御三家筆頭の尾張藩はどうであったかというと、さすが徳川家発祥の地に近い要地に置かれた親藩らしく、その創立時に家康から特別ボーナス100万両も与えられ、相当に恵まれたスタートを切っていたりする。
ならばそれなりに長い間安定飛行を続けていたのではと思われるのだが、実際には2代目の治世ですでに資金難に陥っていたようである。事業好きであった2代光友はさまざまな産業を整備して藩政を確立したことでも知られるが、やたらと寺を建てたがる篤信の厚過ぎる人物でもあった。その治世で、家康の100万両はあっけなく遣い果たされてしまったようで、以降、尾張藩主はかつかつの財政にあえぎつつ低空飛行を続けることになる。
安政2年現在、14代藩主慶恕の代ともなると、代々騙し騙しに借金を繰り返し、炎の自転車操業を繰り返すうちについには数十万両の大借金をこさえてしまっていた。それはたしかにもう質素倹約しかあるまい、という状況下にあった。
「値が……藩の誉れ、であるか」
「名よりも実を、と申しているわけではございません。…名も実もお取りになればよいのです。国一等の高価な焼物を産する名誉を、そしてその品を御蔵を通すことで得られる利を、余すことなく、ともにお受け取りになればよろしいのです。一対100両もの値がつく品など国中を探しても早々あるものではございません。尾張名古屋でしか手に入らない極上の器であると、上様御自らこの新たな特産品を藩の名誉であると寿いでいただければ、周囲のさがない雑音などすぐに静かになるでことでしょう」
「………」
「上様のお計らいなきままこの器の商売を広げれば、何事もないかのように『根本新製』を御蔵に納め売りさばく尾張様に対して、倹約令に倣い忍耐する『購うこともできぬ』ご家来衆からの批判もありましょうし、なにより江戸宗家と強く結ばれた御付家老さまに痛くもない腹を探られるようなことも考えられ…」
「そのほう! 言葉が過ぎるぞ…ッ」
「…よい、やめよ」
小姓が声を荒げるのをさえぎって、慶恕は思いを定めるように瞑目する。
「…その商い、それほど太くなるというのか」
「その手に取られたていかっぷの対ひとつで、100両を下らぬ価値があるのですぞ。いまはまだ目の早い者にしか知られてはおりませんが、たったの一目で上様を虜にしたその『根本新製』の美しさ、それがもしも国中に知られるようになったらとご想像ください」
「………」
「財を成した旦那衆どころか諸大名家も先を争ってこれを購おうとするでしょう。すでに将軍様が何対もご購入されているのです。名のある武家が見栄で鍋島を欲しがるように、諸家も右へ倣えとばかりに『根本新製』を欲しがることはもはや火を見るよりも明らかでございます。三百余藩がこのていかっぷを買い求めただけでも3万両、それよりもさらに多い旦那衆が群がったとしたらどれほどの商売になるか…」
具体的な数字が出たとたんに、慶恕の頭の中でもめまぐるしくそろばん勘定が始まったようである。
のちの大老井伊直弼と反目し安政の大獄を引き起こした一方のメンバーの一人であり、尊王攘夷の思想の嵐の中でも時代のプレイヤーとして幕政を最後まで揺さぶり続けた慶恕は、歴代の尾張藩主のなかでも英明なほうに分類されねばなるまい。
むろん浅貞屋が口にした額のすべてが尾張藩の蔵に納められるわけではない。
総売り上げが仮に三万両であるなら、中間税は最大でも分一(1割)程度として三千両ほどが尾張藩の懐に入ることになる。
数十万両の借金苦にあえぐ尾張藩にとっては焼け石に水には違いなかったが、そのわずかな収入を得るために羽振りのよさそうな商家へはことあるごとに冥加金を無心し、田舎では庄屋などの豪農相手に名字帯刀をちらつかせて身分を売買しているまさに末期的実情がある。10両でも20両でも、ともかく借金返済を滞らせる恥をかかぬために、「目先の金」を掻き集めるという状況にあるのだ。
考え込んでいる慶恕の様子を浅貞屋の横で眺めていた草太であったが、彼の中でも思案がぐるぐると渦を巻いている。
『根本新製』の予備を持っていくから一度市場に流してみてはと書面で伝えてみたら、浅貞屋はそのたったワンセットで尾張藩の尻子玉を掴もうと企んだことが判明した。欲しがる好事家に融通するだけで簡単に利益を得られるというのに、目先の小金になど目もくれずに、この先の商売で障害となるであろう『質素倹約令』を揺さぶりに行った浅貞屋の発想には素直に感銘を受けた。
なればこそ、ここで草太も黙って指をくわえている場合ではないであろう。
今後幕閣とも交渉を続け、おのれの思い描いたメリケン進出を実現させるつもりなら、《天領御用窯》が生来的に宿命づけられている『尾張藩差配』という構造のなかで一定のポジションを得ておくことは決して無駄ではない。
『根本新製』という商品を水に例えると、《天領御用窯》は水源であり、販路を握る《浅貞屋》は水道管、《幕府》その他《諸大名》《旦那衆》はエンドユーザー、利用客層を成している。その流れの中で、《尾張藩》の位置づけはまさしく『蛇口』であり『止水弁』なのである。売る、売らないの全権をすべて尾張藩が独占しているのだから、ここを押さえておくことは商売を円滑にするうえで非常に有意義といえた。
「…上様」
考え込んでいる慶恕に、草太は眼差しをまっすぐに向けて発言の許可を願い出た。最後の決断に揺れていた慶恕は、浅貞屋の攻勢にすっかりと存在を忘れていた美濃の鬼子に目を移した。
「なんだ。言いたきことがあるのなら今のうちに申してみよ」
「はっ、ありがとうございます」
草太の頭の中には、おのれがメリケンへと拠点を移した後のことがうっすらと想像されている。
付加価値の高い『根本新製』がいかようなものなのか、数を作り市場へと供給すればするほどていかっぷの秘密のベールは取り払われていく。
『根本新製』の色と形、絵付けの様子などが広く知られるようになれば、著作権意匠権などの知的財産権の確立されていない時代である。またたくまに雨後の筍のようにコピー商品が増えていくことだろう。
ブランド商売には、まさしくそうしたコピー商品との戦いがセットで付いてくる。ニセモノの駆逐が必須のお仕事となるのだ。
「…これは阿部伊勢守様にも申し上げさせていただいたことなのですが、一対100両の値が付いたとはいえ、それは当然のことながら不変の価値ではございません。これは仮のお話なのですが、たとえば上様が一万両の金子が必要であるから、分一(収入の1割の課税率ということ)として10万両分の『根本新製』を作れと申されても、買い手があっての高値でありますのでそれではあっという間に商品がだぶついて値崩れを起こしてしまうでしょう。露西亜全権使節プチャーチン殿にお渡しした分も含めましても、『根本新製』はいまだこの世にそのお手元にあるものも含めましてもたったの七対、わが《天領御用窯》が5ヶ月も焚き続けられていたのに関わらず、完成品はたったの七対なのです」
ひとつの窯が少なくとも月に2回から3回焼かれることを考えれば、『根本新製』は一度の窯焚きで一対出来るか出来ないかという恐るべき歩留まりであることが分かる。(もっとも上絵工程を含んでのことなので厳密にはイコールではないけれど)無地の状態での完成品はかなりストックしているのだがここでそれを言ってやる必要もない。
「数が少ない貴重品であるからこそその値が付いているという面はあるのです。…現状の高値は厳密に管理され、維持されるべきもの。つねに市場には品薄の状態を維持することが大切であるのです。……上様?」
「続けろ……物言いに少しばかり驚いただけだわ」
ぺろりと唇を湿して、草太は言葉を続けた。
「細く長く、そして厳しく統制することで、この『根本新製』は長く極上品であり続けられます。物の質には自信を持ってはいますが、いずれは模倣した粗悪品が出回り始めることとなるでしょう。真似れば大金が稼げるとたくらむ輩がいくらでも出てくると思います。…瀬戸の加藤唐左衛門どのの編み出したという現在の《蔵元制》は、不届きな末端の商家の売掛金未払いを尾張様のご威光で取り締まっていただくことが『肝』でございます。…その例に倣いまして、《天領窯株仲間》から上様に上申したき案がございます」
慶恕の喉仏がかすかに上下するのを見た。
つばを飲み込んだのだ。
「尾張様から特別に《認証》を賜り、すべての『根本新製』の品に決められた刻印を施しとうございます。その刻印あるものこそ本物であると、尾張様の刻印こそが本物の証明であると謳いとうございます。…《認証》の有無で真贋を見極められれば、粗悪はまたたくまに市中から駆逐されることでしょう」
つまり草太の狙いとは、浅貞屋の広範な意味でのお許しではなく、さらに踏み込んでの公的機関の権威あるお墨付きが欲しい、ということなのだ。
粗悪品を速やかに駆逐し、かつ再発を防ぐ上でも尾張藩の金看板はいかにもドスが利いている。天下の御三家筆頭を敵に回してまでコピー商品をつくろうなどという根性の座った窯があったらあったで驚きではあるのだが…。
草太の意図を察したらしい浅貞屋が、小さく苦笑いしている。
この案を飲んだ時点で、尾張藩は『根本新製』にまつわるブランド商売のていのいい『番犬』をやらされる羽目になるのだ。
「その認証をいただくことで、分一が少々割高になることも致し方なきこととわきまえております。…いかがでございましょう、上様?」
目を見開いて話に聞き入っていた慶恕は、しばらく草太と浅貞屋の間に目を泳がせていたが、浅貞屋の意図も、草太の狙いもおおよそ理解し藩の利益とも相談を終えたのだろう、武家社会であるというのにどんどんとそれを凌駕する勢いで力をつけていく商人たちの姿を複雑そうに眺めつつ、「よかろう」と不機嫌そうにつぶやいたのだった。