003 時代の特異点
大原の鬼っ子がひとり物思いにふける様子を目撃されることが多くなった。
窯場に出入りするだけのお役人や職人などは、また奇抜な考えをまとめているのだろうと奇態な6歳児をある種のほほえましさで見守っていたが、普賢下林家の家内の争議に通じているものは、たぶんあれのことで思い悩んでいるのだろうと知ったような顔をした。
彼らのまったく噛み合わないふたつの観測は、しかし適度な分量で混ぜ合わせることで不思議なことに草太の心中と正確な符合を見せる。大原の庄屋、普賢下林家の次期当主の座を争う有力な対抗馬として家人たちの想像にのぼってしまった草太の動向は常に注目を集めていたし、わずかなことでもいらぬ憶測を呼び寄せてしまう。草太はその息苦しさに耐えられず、常に歩き回り、ある構想にうつつを抜かすことでよく気を紛らわせていた。
(メリケンに『商会』を設立する…)
草太のなかに、太郎伯父を押しのけてまで当主になりたいという思いはひとかけらもない。例えそれが『お家』にとって望ましい判断であったとしても、半士半農という微妙さに加え累代の借金まみれの家の跡取りなど、近しい肉親を破滅に追い込んでまで手に入れたい代物でもなかった。
メリケンに会社を設立する。
そんな夢のような想像が……この時代の人間であるならはまったくの不可能事であったが……チートな彼の現代脳ならば方策が見えてきてしまうものだから始末に悪かった。
(…この開国騒動から幕末の内乱状態に至るまでの短い期間に、異人たちはやりたい放題で幕府諸藩を食い物にしていく……ハメ技に近い相手有利の状況が、技術力と情報力の隔絶からきているのが分かってるんやから、チートするんならそこを突いていかんと間抜けやわ)
商売のネタはいくらでも転がっている。
あえてゴール地点をメリケンでの会社設立に設定するならば、それにあわせて歴史模様にかがり糸を通してしまえばいい。今生のわずか数年の人生ですでに激動を潜り抜けている草太にとって、「それは不可能」と断じるハードルは極端に下がっている。
すでに幕閣のパイプすらそれなりに当てに出来る状況にある。このちっぽけな命ひとつ場に供託する覚悟さえつけば、世界を揺るがすような大勝負にだって打って出られるのだ。
(黒船に対抗するには、黒船しかない、西洋火砲しかないと恐るべき短絡思考で巨額の財政を消費できてしまう幕府の国際情勢への疎さが、いくらでも我田引水の取っ掛かりになる…)
公正な為替レートが分からない。
個別商品の適正な国際的実勢価格が分からない。
取引相手も選べない。
そんなないない尽くしで食い物にされないはずもなく、こちらの足元を見透かした海外商人たちによって荒稼ぎされていく現状において、彼は弱り目の幕閣にたとえばこう説けばいい。
「海の向こうに『分かる人間』を置いておけばいいんですよ。鎌倉幕府が六波羅探題を京に置いたように、メリケンにもそのようなものを置いたらいかがですか」
侵略されることばかりを恐れる人々に、この逆侵略とも受け取れる甘言は相当に耳によいだろう。その現代の六波羅探題がいつのまにか私商会に変わっていたとしても、そのときには金の卵を産む鶏になっていれば何とかなってしまうに違いない。
(幕府公認の信用ある海外窓口がひとつ出来たらどうだ……現地調達とディスカウントの実績を示せばたぶん先を争うように諸藩も取引に殺到するやろう)
この時代に流出していく国内資金のルートをこの手で制御できれば、『商会』は瞬く間に巨大化していくことだろう。まだ徳川家が国の代表として力を持っている間に、その公的出先機関として相手国に認知させて強引に出店する。この時代のメリケンがどれほど治安が悪かろうとも、幕府に現地駐在武官を派遣させて最新の拳銃で武装させれば、西海岸の港町ぐらいならそれなりの『治安』を作り出せるだろう。
この植民地全盛時代に平和主義はあまりにナンセンスである。個人に護身用の銃の所持を認めるアメリカという国の原風景は、銃弾を撃ちまくる西部のガンマンであり騎兵隊なのだと思う。血で血を洗う彼らはより強大な暴力にしか敬意を示さないだろう。
(『国使』としてのっけから百人単位で大挙上陸して、そのまま居つけばいい。条約を結んだばかりの相手だ、体裁上やつらも無碍になんか出来んし)
そうして幕府の名を借りつつ現地で法人化し、そこの代表ポストにつけば草太の確固たる居場所が築かれることになる。
(もともと『美濃焼』の国際化を目標にしていて最初はやや本末転倒っぽくなるけど、幕府の危機感をうまく煽って設立させる『林商会』やから、どうしても《器》のほうが先になる……よろず屋的に便利屋に甘んじつつ体制作りしてくことになるやろうけど、力をつけた後に陶磁器を扱い始めたほうが、返って一気に商売もでかくできるはず…)
まさに厨二の妄想とどまるところを知らず。
ただの子供であったならばそれは紛れもなく妄想にしか過ぎなかったが、その実現手段をいくつも持つ草太であればこそ、成功の気配も濃厚に漂ってくる。
すでに次回納品用の『根本新製』は用意できている。こいつの納品時に阿部様を少しばかりそそのかしてみようか。明治維新にいたるあと十数年しかない徳川幕府の命数を考えれば、歴史をひっくり返す猶予期間はさほど残ってはいない。あるいはこの話にすぐ飛びつくことができるほどに首脳の勘が冴えていたならば、幕府衰亡の後の歴史だってひっくり返るかも分からない。この時代に草太という異分子がいること自体、すでに世界がパラレル化している証拠であるのかもしれないのだから。
腕組みを解いて草太はおのれの広げた手のひらを見る。
何気なくおのれの生命線を確認したくてそうしたわけだが、その手のひらに歴史の繰り糸が束ねられているさまを幻視して、草太は身震いした。
やりようによっては、おのれの手で世界さえも変わる。
チート転生者は後の歴史を知っているがために、ものの道理を覆す《時代の特異点》足りうる存在となるのだ。
草太は《可能性の糸束》を指のなかに握りこみ、天にかざした。
想いに突き動かされた、ただそれだけの行動であったのに。
そのとき、世界が|何かを予感するように息を呑んだ《・・・・・・・・・・・・・・・》のが分かった。
何か大気そのものがひっくり返ったかのようなわずかな耳鳴りのあと、辺りから土くれをついばんでいたスズメが、木立のなかからは土鳩が、何かに脅かされたように一斉に空へと羽ばたいた。周りにいた職人たちが何事かと空を見上げる中、回りよりもいっそうの驚きのなかにあった草太は、慌てて振り上げていたこぶしをごまかすように、伸びをする振りをした。
***
安政2年9月9日(1855年10月19日)。
それが草太の検品が済んでから最も近い大安の日であった。
出発の日取りが決まると人の手配のために代官所のお役人たちが慌しく動き出した。
さすがに二度目のことであるのでさしたる混乱もなく出立の準備は整い、新調された紋付袴に身を固めた草太は役人の手を借りて馬上の人となった。
1セットを予備として計6セットの『根本新製』は、藁をつめた麻袋にくるまれ各人の背中に風呂敷で背負われている。それぞれに10両を下らない価値のある品である。それらをゆだねられたお役人たちの表情はかなり気負った感じである。
見送る家族から火打石で厄払いされながら、一行は《天領御用窯》の窯場を出立した。窯場から坂を降り、門柱をくぐると、そこから先の沿道には見送りの村人たちが総出で手を振っている。
江吉良林家の領である根本、大原の村人を集めたよりも明らかに多いその人出に、いよいよ《天領御用窯》の存在が近郊の村々で大きくなっていることを実感する。
おそらく前回と同じように、憧れるような、羨むような同業者たちの見送りもあったのだろう。『幕府御用』という名誉の大きさがわかる。
お役人に抱えられるようにして馬に揺られている草太の目が、沿道の人々を眺めていくうちにふいに見開かれる。
(あっ…)
そこに立っていたのは、西浦祥子。
片田舎のくすんだ色合いの人々の中にあって、その着物は異質なほどに色が鮮やかである。鮮やかな黄色の着物が、そのまま彼女の特異性を表しているようで、一瞬草太の胸を詰まらせた。
祥子はただ一心に馬上の草太を見送り、草太もまた彼女を目で追っている。
あれから縁談がどのような形になっているのか草太には知る由もない。間に郡代様が入ってしまっているために、どのような仕儀になろうとも『なかったこと』にはできない話である。
彼女の横には、番頭を付き従えた円治翁の姿もある。
キセルの煙をくゆらせながら、地元の大立て者もまた《天領御用窯》の躍進になにを考えているのか。
目が合った瞬間、円治翁がわずかに歯を見せたような気がした。
笑ったのか?
その笑みの理由に気をとられつつも、見送りの列を抜けた一行がやや馬の足を速め始めるとすぐに景色は遠ざかっていく。
祥子が一生懸命に手を振っていた。
何かを叫んでいたようにも見えたのに、草太の耳にその声は届かなかった。