038 綱渡り
阿部伊勢守との会話は、もともと政務の合間を縫った四半刻ほどのわずかな時間を予定されたものであったようである。
そのなかで6歳児の恐るべき識見に出会ったのはまさに予想外のことであったに違いない。
阿部伊勢守は平伏する草太の腕をつかんで、引っ張り上げるように顔を覗き込んできた。まるで人の皮をかぶった物の怪であることを疑うようにまじまじと凝視されて、さすがに面の皮の厚い草太といえども一気に冷汗を掻いた。
「…まことの人の子か」
至近で目を合わされて、どういう表情をしていいのか迷った草太は、ほとんど反射的に前世で慣れ親しんだビジネススマイルで韜晦した。
ただ自然と目が泳ぎ気味であったことは素直に認めるところだけれど。
「…恐れながら」
こうあることを多少なりとも予想していたのか、川路様が草太の異常性を擁護し始める。ロシア人たちに愛された気配りの人は、どこまでも精神の安定性を保っていた。
「物の怪憑きとはたいてい衆人にも明らかなほど気が触れているものにございます。何年も前に『キツネ憑き』と申すものを見たことがありますが、始終わめき散らしてまともな会話も叶うものではございませんでした。…その童の話の筋を外さないその明快な論理こそ、物の怪憑きにあらずというたしかな証し。…恐れながら愚考いたしますに、まれに世間を騒がします『神童』なるものではないかと推察しております」
「…神童、とな」
「まだ7つ(数え)にしかならぬ小童が、大の大人をやすやすと説破するなどあるまじきことではありますが、門弟の多い私塾を覗けばどこにでも一人や二人、そう呼ばれる早熟な童を見かけるものです」
なるほど、著名学者の経営する有名私塾なら、優秀な子供の一人や二人は確かにいるだろう。いささか強引な論理のように思えるが、この時代、江戸では私塾は乱立の様相を呈していてその所在さえも明らかでない三流どころはそれこそ掃いて捨てるほどであったから、どこそこに神童がいるらしいと言えば調べようもなかったりする。
もっとも、ただ『頭がよい』ことと、不自然なほど『知識がある』ことはけっしてイコールではない。おのれの立ち居地のあまりにあやうさに草太は唾も出ないのに何度も喉を上下させた。
「…それよりも、市井にこのような前途有望な人材が生まれていることこそ、この未曾有の国難にあっては何よりの慶事かと。有為な人材はいくらいても足りることはなく、とつくにとの交易に明るい者であるならなおさらでありましょう」
「なるほど、『神童』…か。たしかにとても童とは思えぬ舌の回りの良さよ。どこで仕入れた知恵かは知らぬが、この童ほど知恵と舌が回れば、構えて仏像みたいになっておる下手な交渉役よりもよほどうまく立ち回れるかもしれん。…うむ、この時勢に使える『駒』を無為に野に放すのは惜しいかもしれぬな」
「伊勢様…?」
「いちおう『士分』の端くれにはおるようだし、そういうことなら無理押しでもない……くくく、となると、この鬼子を当てて面白そうな役所は…」
えーっと。
なにか阿部伊勢守様が暴走しているようなんですけど。
て、適当な役所って、どういう意味なんでしょうか。
ずいぶん前向きな発言を耳にして、草太はぶわっと全身に鳥肌が立つのを覚えた。
彼自身、沈み行く幕府に接近しすぎる危険を想定していたばかりである。おのれの幼さに胡坐をかいていた草太は、老中首座による『英断』という権力チートを見逃していた。
まずい、まずい、まずい!
一気に血の気が引いて、頭が芯からひやりとしてくる。
このとき草太は知る由もないが、この阿部伊勢守という人物、実は人材登用に『英断』を次々行った人物で、川路様をはじめ韮山反射炉の江川英龍、言わずもがなの勝海舟ら有能な人材を引き上げ、幕政の改革に大きな役割を果たしていたりする。世に言う『安政の改革』であるのだが、彼が有能な人士を身分の隔たりなく登用した人物であることは歴史が証明していた。
どうする、どうする…。
幕閣最高権威である老中首座の『英断』は、武家社会の慣例などやすやすと払いのけてしまうであろう。彼が是と言って、否と言える人物などどれほどいるものか。
(…あ、思いついた)
窮余の一手を思いついて、草太は千々に乱れた思案の束を急いで手繰り寄せる。なかなかに一か八かな賭けだけれど、もはや逡巡する暇さえない。
それを実行したときのリスクと、その回避法……検討しようとするも今にも口を開こうとしている阿部伊勢守の様子に決断の瞬間はあっという間にやってきた。
(もうやるしか……ない)
草太はわずかの逡巡に身もだえした後に……乳児期の葛藤を走馬灯のように思い出しながら全身を弛緩させた。
決断したのはおのれだというのに、なんだろうこのやっちまった感は。
チョロチョロチョロ…
一度踏ん切りをつけたとはいえ、下半身に広がり始めた熱い感覚に身を硬くする。
「…ッ!」
「伊勢様!」
ことを実行する前のわずかな瞬間に送ったアイコンタクトを、川路様が拾ってくれたのかどうか。阿部伊勢守がそうと気付く前に飛び掛るように川路様が間に割って入った。
そのときになってようやく草太のしでかした醜態に気付いた阿部伊勢守は、慌てたようにぱっと手を突き放して、後ろにずるように身をのけぞらした。
「誰ぞッ、女を呼んでまいれ!」
川路様の声に障子を割って入ってきた側仕えらが、室内にわずかに広がった独特の臭気に状況を把握して泡を食ったように踵を返していく。
適当なところで膀胱の栓をきつく締めた草太は、恥ずかしさと狼狽とで目頭を熱くさせて阿部伊勢守を見ている。
さあ、やっちまったぞ。
権威主義に染まった愚かな人物ならば例え子供相手でも容赦なく手討ちになってもおかしくはない失態である。あまつさえ、そこは天下の主たる徳川将軍家の在所。殿中で刀を抜いただけで切腹させられた浅野内匠頭長矩がいるくらいである。よもやの失禁に厳罰が下される危険性は非常に高かった。
しかし、と草太はほぞを噛む。
相手は幕府という権威の池で泳ぐ『錦鯉』であったが、同時に外敵に揺れるこのあやうい時代に、川路様ら開明的な人材から忠誠を得ている『英明な領袖』でもある。
本来殿中になど上がることの出来ない半庶民の草太らを呼び寄せたこの秘密の会合で、粗相をしでかしたとはいえ子供一人を手討ちにしたとなれば噂は瞬く間に広がり、いやでもいらぬ注目を集めることになるだろう。
将軍家定との接見があった直後でもある。阿部一派に敵対的な派閥……攘夷派などの反動勢力が痛くもない腹を探り始めるだろうところにまで、その英明さで推測の手を伸ばしうるだろう。
たぶん、状況的に殺されはしまい。
突き放されて尻餅をついた草太は、呆然とした様子を取り繕って額を畳にこすり付ける。小便たれの小僧になにを期待されるのですか? と、全身全霊を持ってアピールする。
「たっ、大変失礼をいたしました! ひらに! ひらにご容赦を」
前世で、テレビ収録中に本当にわざと失禁して、捨て身のかなたにネタを成り立たせた某お笑い芸人を思い出しつつ草太は周囲の空気を読み取り続ける。
突然のお漏らしでシリアスな話は完全に腰砕けしている。
むろん失態を演じたまま愚かな童として江戸城を去るわけにはいかない。ここからはまさに一世一代の大芝居で、最低限の名誉だけでも回復していかねばならない。
「伊勢様の天下に鳴り響くお厳しい《威》に当てられまして、とんでもない失態を…! 不肖林草太、『成人の儀もいまだいたさぬ年端の足らぬ若輩』なれど、この期に及んではこの腹掻っ捌いて…!」
むろん成人もしていない草太が江戸城まで帯刀してきたはずもなく、腹を掻っ捌こうにも刀どころか脇差すらない状態である。刃物を貸してもらわねば自刃も何もあったものではないわけであるのだが。
唾がまったく沸いてこない。
ひと口水をもらえたなら、もっと口のすべりもよくなろうというのに。
計算どおりなら、たぶん大丈夫。この勢いのままに状況を押し流していく一手だ。
彼らが理解しやすい最大限の詫びの表現……それこそが『切腹』であり、ことの重大性を彼自身が認識し悲壮な決意のなかにあることをダイレクトに伝えうるキラーワードでもあると踏んで。
草太はあからさまに、血走らせた目を周囲に走らせる。
草太の様子にぎょっとして、阿部伊勢守らが慌てたように周囲を見渡したのは、この部屋に切腹を遂げうる刃物があるかないかを確認したのに違いない。基本殿中では大刀の持ち込みは許されない。が、殿中差と呼ばれる小さな脇差ならば各人が帯びている。自身らが油断して奪われでもせぬ限り切腹など不可能と断じられてから、全ての刃物の所在を確認してようやくほっとしたように彼らは居住まいを正した。
彼らの目には、わずか7歳(数え)にして『切腹』の覚悟を見せた草太に対する『理解』の色が現れている。死をも覚悟したこの童を、いかに静まらせるか。これ以上騒動を大きくしたくない『大人の武士』の都合によって、寛恕という結論が速やかに導き出された。
阿部伊勢守が、脇にのけていた茶を手に取って、無言で草太のおそそ跡に堂々と取り落とした。
「いかぬ。手が滑ったわ」
盛大にぶちまけられた茶によって濡れ跡が覆い隠された。
阿部伊勢守と草太の目がぶつかって、そこで一方のほうからこらえきれぬように軽く笑いの震えが起こる。むろん阿部伊勢守のほうである。
喉を鳴らすように笑っている。
「し、失礼いたします!」
そこに廊下を滑るように姿を現した女中たちであったが、たたらを踏んだ彼女たちを出迎えたのは予想外の場の笑い声であった。
子供のおそそと聞いていた汚れがいつの間にか茶こぼしになっていることに女中らは目を白黒させたが、汚れ仕事がただの茶拭きとなって気が楽になったのか、てきぱきと仕事をこなしてそそくさと退出していく。
その後姿を見送って、
「ふふふ、なかなか肝の据わった小僧よ」
ぽつりと漏れた阿部伊勢守の言葉に、草太は平伏したままぎゅっと目を瞑った。いやはや、恐ろしいことに全部見透かされてしまったらしい。
「小便垂れにお役など論外、ということにしたいわけだな…」
「………」
「…まあそういうことでよかろう」
後ろで言葉もなく見守っていた『浅貞』の主人が、そこでたまらず小さく噴出した。平伏しているので顔は見えないのだけれど、その全身がかすかに震えている。
阿部伊勢守の脇にいる筒井様の咳払いで、軽く場の空気は改められた。
「この次も、品はそちが直接ここへ持って参れ。あれと同じものをあと五つ、御用申し付ける」
立ち上がった阿部伊勢守が、また小さく笑った。
その気配が完全に部屋から出て行ったのを確信してから、草太はようやく肺の中の息を吐き出し、湿気っぽい畳に額をことりと落とした。
とるに足らぬ子供であることが幸いすることもある。
「並みの胆力ではありませんな」
『浅貞』の主人がおかしくてならぬというように、また忍び笑いした。