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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
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037 鬼っ子の微笑み






息のつまるような束の間の静寂の後、広間に響いたのは阿部伊勢守の忍び笑いであった。

その小さな笑い声が届いた瞬間に、草太はぶるりとおののいた。

言いたいことは全部言ったつもりなのに、何か致命的な粗漏があるのではないかと畳の目を睨みながら何度も思い返した。おのれが危うい薄氷の上に座っていることを自覚しているからこそ、こそりとも身動きが出来ない。

なぜ幕閣の最高権力者が草太らのような下々の人間を召して、わざわざ事情を聴取しようとしたのか。なぜ笑われたのか。

ややして笑いを収めた阿部伊勢守は、川路様を目配せで呼び寄せて扇子の影でなにかれと問いただしているようであったが、やがて得心がいったように小さく鼻を鳴らした。


「なるほど、たしかにあの焼き物は取引の品として使えるかも知れぬ」


阿部伊勢守のつぶやきに川路様が控えめに首肯し、周りにいた筒井様らが顔色を明るくした。

それから一気に会話が華やいだものとなっていく様子を静かに観察していた草太は、末席に同じく黙したままでいる『浅貞』の主人の方を見て、その目の奥に彼と同じような打算の光を見つけ出す。

この尾張商人も今回の予想外の展開に圧倒されつつも、これを奇貨として幕閣とのコネクションをいかにして作り上げるべきか算段しているのだろう。

普賢下林家の雄飛のための両輪として見込んだ『浅貞』の主人が、ここで思考停止していなかったことに安堵しつつ気持ちを落ち着ける。

草太の話は幕閣の……おそらくは阿部一派にささやかながら希望の火を灯したことであろう。後の大老井伊直弼が台頭してくるまでにどれほどの時が残されているのか分からないが、鎖国体制を崩されて動揺している現在の幕府にとって、黒船を擁する海外列強に対して切ることのできるカードを所持することは焦眉の急である。

歴史的に、この江戸後期から幕末に至る動乱期、徳川幕府は国内向けに特化してしまった鎖国下の国内産業を海外に売り込むことが出来ず、黄金の国とまで言われた豊富な金をいたずらに流出させ、ついには首が回らなくなって将来の税収を担保に莫大な額の借金を繰り返すことになる。今後幕府は何隻もの蒸気船を所有することになるのだけれども、それらのほとんどはそうした借金によって購われたのだ。

時代的に、鎖国体制の崩壊したいまぐらいのあたりから、国内の金が海外流出の危機にさらされていくことになる。


(通商を始めるにしても、取引できる『物』がないと始まらないし、必死になって品目の選定とかしてるんだろうな)


開国に揺れる幕閣が、もはや避けては通れない海外との通商について調査を始めていないわけもなく、国内と海外の金交換レートの違いにもいずれ気付いていくことだろう。しかし前世の平和ボケ政府にも相通じる弱腰外交で、海外のごり押しに負けて国富を霧散させていく運命にある徳川幕府。その弱腰に不満を募らせた志士たちがやがて幕府を打倒することになるのだから、この時点での幕府の失策連鎖をとどめることは、歴史を停滞させることにも繋がりかねない要素となる。


(歴史の整合性とか分かんないんだけど、明治維新がこないのは大筋的に『NG』だろうな……幕府が倒れないのがどうこうと言うより、『商売を蔑む武家社会』が続くことがこののちにやってくる資本主義経済の足かせになるのが明らかだし)


武断的でありつつも朗らかな感じさえするこの江戸時代的平和もけっして悪いものではないのだけれど、列強に肩を並べるべく明治新政府がとった『富国強兵策』の富国とは、とどのつまり銭金の蓄積のことであり、商業が活性化しないとその実現は難しい。

鎖国政策を堅持すればいずれ清王朝のごとく列強の食い物にされることは疑いようもないので、鎖国による中世的な停滞を政権維持の要に位置づける徳川幕府のありようは、国の将来にとって害悪にしかならないだろう。


(幕閣とはぜひ懇意にしたいものだけど、それも大政奉還までの十数年くらいのスパンで考えないと一緒に沈むハメになるだろうな……それまでは距離感だけはうまく調整しないと…)


もっとも、現時点では金も名誉も持ってはいない草太である。そうした微妙なロビー活動は、実際に誰もが無視し得ない財貨を得てから心配すればいいことであって、これこそまさに取らぬ狸のなんとやらに他ならない。

いまはどのような筋だろうと成功への階段を駆け上がっていくために最大限使い倒さねばならない。時間が矢のように過ぎ去っていく感覚は、おっさんになった経験がなければ理解しづらいものだが、人間一杯一杯に働いていると、あっという間に1年が過ぎていく。

彼が二十歳ぐらいのときに到来するであろう明治維新など、この歳にしてワーカホリック気味の彼の体感的には、まさしくあっという間にやってくるだろう。

つらつらとおのれの考えに沈みがちであった草太であったが、軽く肩を叩かれて居眠りをとがめられた中学生のように慌てて顔を上げた。


「草太様…」


『浅貞』の主人が小さく声をかけてくる。

一瞬そちらの方を見、そこで主人の伏し目がちな目配せに出会う。


「…よろしいのですか」


主人の控えめな眼差しが、阿部伊勢守様と下田奉行所組の談義へと向けられている。下々の者が聞き耳を立てているなど想像もせぬように、彼らの間に割合にはっきりした声音で盛んに「有田」という単語が飛び交っていた。

一瞬どきりとして、草太は聞くことに気持ちを集中した。


「…あの焼き物はまだまとまった数集めるのは難しかろう……さいわい今回買い上げた良い『見本』もあるのだ、どこぞの名窯にでも命じて同じものを作らせれば…」

「鍋島などいかがでしょう……直正殿とはいささか交友がありますゆえ、いかようにも話は…」


おいっ!

光の速さで《天領窯》外しかいっ!

焼物の名品として天下の《有田焼》や《鍋島焼》が、彼らの脳内に条件反射的に浮かんだのは仕方のないことなのかもしれない。この時代、国内で実績名声ともに最高の位置にあったのが彼の焼物であるのだ。

新参である『根本新製』のネームバリューなどいまはまだあってないようなものに過ぎない。鍋島で作らせればもっといい物を作るに違いない、そんな短絡的な思考ラインが目に浮かぶようである。

むろんすでに草太の額に青筋が浮かんでいる。

やつらの乗っている畳ごとちゃぶ台みたいにひっくり返してやりたい……合計体重100キロを超えていようと、いまならきっとひっくり返せると確信さえ抱けた。

どれほど腹を立てようとも幕閣の首脳たちの話に割って入るわけにもいかず、ただぎらぎらと気持ちをたぎらせる眼差しを向けるしかない草太であったが、その刺すような視線に気付いたのか愛想笑いを貼り付けつつ会話の輪のなかにいた川路様が絶妙なタイミングで咳払いして話の腰を折ってくれた。


「ていかっぷを作り上げた功労者を待たせておりますが」


そうして草太たちの存在を思い出したかのように言葉を呑んだ阿部伊勢守たちは、いささかばつが悪そうに「むろんそちらをないがしろにするわけではないが」と付け足し感満載にうそぶいてみせたが、当然ながらそれを信じるほど草太もお人よしではない。

阿部伊勢守にはここできつく釘を刺しておかないと。老中首座ならではの権力と豊かなコネクションで、ていかっぷぐらい即行で産業化しかねない。


「南蛮茶器に先鞭をつけたのはわが《天領窯株仲間》でございます。急ぎ生産体制を整えているさなかでございますゆえ、どうかいましばらくはご猶予くださいますよう…」

「ないがしろにはいたさぬが、しかしだな…」

「そしていまひとつ、おそれながら申し上げておきたき儀がございます」


無駄な言葉を吐かせる前に強引に言葉をかぶせ、草太はきっと阿部様を睨め上げた。不遜ととられようがここで引くことは出来ない。どれほど頭の回る知恵者だとしても、しょせんは生まれたときから武家社会にどっぷり浸かっている人たちである。売り手がいて買い手がいる、その商取引のやり取りのなかにある基本的な常識を彼らが理解しているとはとうてい思われない。


「売れそうな品があるからといって粗製乱造し、蔵に積み上げてから纏め売りしようなどとお考えでしたら、それはおやめくださいますよう……商売として下の下でございます」

「…ッ」

「異人にていかっぷをひとつ手に取らせ、欲しいと言ったら100個か? 1000個か? と、まとめ買いを持ちかけるおつもりでしょうが、そんなことをすれば1個10両のていかっぷを、100個1両で売るハメになるでしょう」


『根本新製』は一点物であるがゆえに高価なのであり、ていかっぷだから高価だというのではない。

想像してほしい。たとえば1点100万円のブランドバッグがあるとして、高級店の一番高そうな棚に厳かにディスプレイされていれば欲しがる人間もいるかもしれないが、まとめ買いOKと紙を張り出して1点100万円と謳っても、鼻で笑われるのがオチである。むろん値段の説得力のなさが原因である。


「けっして、『押し売り』だけはなさいませぬよう。…欲しがっていない相手に品物を押し付けて代価を要求しようなど、それはまさに下の下策。いたずらに国産の焼物の価値を毀損し、金の卵を産む鶏を絞め殺してしまうようなものです」

「………」

「相手が欲しがっても、もったいぶってなかなか出してやらないぐらいでよいのです。喉から手が出るほど欲しがっている相手なら、それを購うためにいくらでも洋銀を積み上げることでしょう」


客に自分から財布の紐を解かせる……それこそが商売の至上の手管である。


「しばらくは、訪れた国賓に手土産だと太っ腹にばら撒くことです。『貴重なものなのだ』と申し添えて、あなただから『特別』なのだと渡してやるのです。…人間万事塞翁が馬、その手土産が国許の貴顕の目にでも留まれば、黙っていても商談が舞い込んでくるはずです。そのときに黒船が購えるほどの大金を要求してやればよいのです」


はた、と。

阿部様の手の中でいじられていた扇子が、畳の上に転がり落ちた。

目を瞠ったままに、6歳児の言に聞き入っている。


「そこまで魚が食いついてくれば、あら不思議、いつのまにか手の中に取引の『鬼札』が入っているなんてこともあるのではないでしょうか」


そうして草太はにっこりと微笑んで、頭をたれたのだった。


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