036 カードを切ろう
現代でも江戸時代でも、この国を実際に切り回しているのは、良しにつけ悪しきにつけ官僚と呼ばれる役人たちである。徳川幕藩体制での老中幕閣とは、まさしく官僚機構である。
老中、と言う役職を現代のそれに置き換えるならば、それは各省庁の事務次官クラスであるだろうか。国政は実質彼らの合議によって方向付けられ、将軍の名のもとに動かされていく。
さて、この老中職。
徳川譜代の特定の大名家がその役職者を持ち回りのように排出していた様子なのであるが、後世から歴代の老中たちを俯瞰するに、既得権的な向きが強いものの無能でも務まる名誉職、という印象が薄いのはどういうことなのであろうか。
特定の家門がただ血筋のみによって輪番にその顕職にあやかっているというのなら、どうしようもなく知恵の乏しい凡人とかがその座を占めがちになるのではないか、と想像しそうになるのだが、意外にもそこまで『使えない』人物がその職に就くことは少なかったようである。
それはなにゆえか?
おそらくはこのシステムを考え出した人間にも予想外なことであったろう。
『江戸詰め』の宿命ともいえる過大経費というハードルが、偶然にも峻別の役割を果たしたのだと思われる。
老中の職につく者たちは、その付随する権力によって吸える『旨味』以上に激しい出費に呻吟せねばならず、就任には相応の『覚悟』が要求されたからにほかならない。
老中就任イコール江戸常駐、立派な屋敷を構え人を雇い、老中にふさわしい『格』を維持せねばならない。譜代の大名というのは10万石以下の中小大名が多かったから、その身の丈に合わぬ過大な出費に藩財政は火の車とならざるを得なかった。
藩財政を傾けてもなお老中就任に執着する者たちというのは、当然のように国政に参与する意識が高くなる。大金を使ってその役職を勝ち取るのだ。費用対効果ではないけれど、勝ち取った権力を操って利益誘導できるくらいには優秀でないと出費を取り返すことすらおぼつかない。いきおいそれなりに有能な人材が参集することになるわけである。
その老中の定員がだいたい4名から5名。
そして幕府権力を掌中とするその小グループを統括するのが、老中首座であり、当世では備後福山藩当主、阿部伊勢守であった。
本来ならば最高意思決定者である将軍の輔弼が主な役割である彼らであるが、その将軍の個々人の資質によって……ありていには政治に関心があるかないかで、その影響力は格段に変化することがままあった。
その点で当代将軍徳川家定はというと……まあ見たまんまカステラ作りにうつつを抜かしているような蒙昧な主君であったのなら、現在の老中幕閣がどれほどの政治的権勢を持っていたかは押して知るべし、であった。
西の丸御殿の台所であるお勝手場で将軍への拝謁がおこなわれた理由は、将軍との直接の顔合わせが直参旗本にしか許されないご法度を回避するためであったのだろう。
結局カステラを食べ残した将軍様が、『ひとりごと』を口にすることに飽いてお勝手場をあとにした後、その場に残された阿部伊勢守は目配せだけで大目付格の筒井様以下下田奉行所組を立ち上がらせ、あらかじめ用意されていたらしいひと間へと導いた。むろん草太たちもその流れに引きずられていく。
そこは勝手場からそれほど離れてもいない、やや縦長に襖で仕切られた10畳ほどのひと間だった。
「長旅で疲れているだろうが、この伊勢にいましばらく付き合ってもらいたい」
くしゃみをしただけで諸藩を震え上がらせる幕閣の最高権力者が、上座に腰を据えながら意外なほどに謙虚な物言いをする。先ほどまで体格的に無理のある正座をして顔色ひとつ変えていなかった阿部伊勢守であったが、さすがに格下しかいない場になるや、伸ばした足を揉みさすりながら胡坐をかいた。
「なかなか見事な出来栄えの器であった。…《天領窯株仲間》であったか、こぞう、名をなんと申すのだ」
「はっ、林丹波守勝正公の裔、林太郎左衛門貞正が三男、三郎左衛門の子、林草太と申します。このたびは…」
「長ったらしいあいさつなどはなしにせよ。名乗るだけでよい」
手を振って草太の自己紹介を制して、阿部伊勢守は草太に顔を上げるように命じた。短気であるというより、無駄や冗長を嫌うたちであるのだろう。
我田引水に議論を進めたがる某深夜討論番組の司会のように、唐突な感じに討論テーマを口にした。
「そちはここにおる川路に、あの焼き物が異人に高く売れると申したそうだが、それは何か確証があってのことであったのか」
まあ、その話の成り行きは覚悟していた草太である。
カラカラの喉をつばを飲むように何度か上下させて、草太は最初に口にすべき言葉を吟味する。
まさか幕閣の首座自身が出てくるとは思わなかったけれども、これは政治中枢にコネを得る恐るべきチャンスなのである。
平時であったならば、どれだけ傑作の焼物を持ち込もうとも、こんな事態にはまずなりえなかったであろう。幕末という時代の急流に国が揺れ始めているいまこのときでなくては、こんなチャンスにめぐり合えなかったに違いない。
運がよかったのだ。
ただ、そう思った。
明治維新まで悠長にときを浪費していたら、この天運を得ることなどけっしてなかったのだろうと思った。生き急いだがゆえに、彼は天から垂らされた幸運の糸をその手に掴んだのだ。
(千載一遇の天運、けっして無駄にはしない)
肝を据えて、このビッグウェーブを乗りこなしてみせる。現代チートをさらすことで招来するいろいろなデメリットを心配するおのれのなかの小心を追い出して、ここはやり過ぎない程度にカードを切っていくべきところと思い決めた。
「…その確証を得るために、わたしは戸田村の異人のもとへ赴きました。そしてその思いが正しかったことの証明を得るに至りました」
観念的なことを言っても、そうした抽象的な物言いはたいていひとの耳に入っては行かない。何より目の前のこの人物は『政治家』である。
プチャーチンとの一幕を川路様に見せ付けることによって、『根本新製』の海外での商品性はすでに証明済みである。その事実を明瞭に告げて、草太は夢見がちな若者の妄想の匂いを残しつつ言葉を重ねた。
「伊勢守様におかれましてはすでにご承知のことと思いますが、あの唐土の大帝国、清王朝をアヘンで苦しめた鬼畜のようなエゲレス人の話を、わたしもひとづてに聞きました」
「…ッ」
「そしてこうも聞きました。「エゲレスは清王朝から茶や磁器を買いすぎて金に困ったらしい」、と……むちゃくちゃな話ですが、彼らは清王朝の優れた品を欲しくて欲しくてたまらず、しかし貿易の不均衡で煮え湯を飲みつづけたがために銀を失って、それを取り戻すために常習性のあるアヘンを彼の地でばら撒き出したのが始まりだそうです」
どこまで「聞いた話」を装えることだろうか。
幸いにしてネットもないこの時代に世間の全てを把握している知識人などいるわけもなく、交通も発達していないがためにローカル性が強まればとたんに事の真偽を確かめられなくなる。
地方で聞いた話とすれば、少なくともこの場でそれを否定できる人間はいないに違いない。そう読んで、腹をくくった。
「少なくともエゲレス人は、アヘンをばら撒くという非道をせねばならないほど、金に困っていたのです。清王朝の優れた『磁器』を買い漁ったがゆえに」
この時代、武士たちがなにゆえ海外の列強を恐れたのか……それはむろん黒船や大砲などの優れた軍事兵器を恐れたためもあるが、潜在的により恐怖心を抱かせたのは、人を蝕み破壊するアヘンという毒を、平然とばら撒いたうえに戦争まで吹っかけたイギリス人の恐るべき悪辣さ、そのあまりに常識を欠く『異常性』にあったのだ。
アヘン戦争については、この時代の識者はすでに知りえていただろう。ほんの十数年前に起こった、隣国での悲劇である。
「磁器は売れるのです。現に有田の器もあちらではずいぶんと評価されているとうかがっています。川路様ならば、あのロシア帝国の全権使節、プチャーチン様の『根本新製』を見たときの様子を覚えておられると思いますが、まるで得がたい宝でも扱うような様子でありました。…そうしてわたしはついに確信を得たのです」
「『磁器』は商売になると」
「その通りでございます。…そして大切なことがいまひとつございます」
ほんの少し息を整えるために言葉を切ると、耳を象のように傍立たせていたお役人たちが身じろぎする気配を感じられた。
やや前のめり気味の阿部伊勢守様が「申せ」と次の言葉を催促した。
草太は軽く頷いて、まっすぐにその眼差しを見返した。
「わが国の焼物は、わが国の生活に密接に結びついた形で長らく作られてきました。ごはん茶碗は飯を盛るため、湯飲みは白湯を飲むため、皿はおかずをよそうために作られました。…それらは必要であるからこそ作られ、それを必要とする者に売られました。逆の言い方をすれば、それが必要とする形を持っていたからこそ、買いたいと思う者がいたのです」
「まるで禅問答だな」
「伊勢守様は、長崎の出島にいる異人たちが、どんな食事をしているのか知っておられますか」
「あいにくと出島を見聞したことはないな」
「彼らは米の飯をあまり口にはしません。『ぱん』とよばれる蒸かした饅頭のようなものを食しています。皿に置けばいいだけの饅頭しか食べない相手に、ごはん茶碗は売れません。買っても使いようがないので、彼らの目にはなんとも無価値なものとして映ることでしょう。…彼らは『ぱん』を置く皿は買い求めても、ごはん茶碗は興味本位で手に取るくらいで、よほど美しい名物としての価値を見出さなければ買いはしないでしょう。それは当たり前の話です」
「うむ…」
「有田の磁器は評価を受けているようですが、それは食器としてではなく見て楽しむためだけに買われているものと推察します。ゆえに売れるのは大皿や壺ばかり。評価はされますが、そこまで数は売れません」
「………」
「プチャーチン氏にお贈りした茶器は、あちらで日常的に使われるていかっぷと申しますものでありました。彼らの『必要』に触れるものであったからこそ、あれほどに喜ばれたのだとわたしは考えます」
美術品としての需要など高が知れている。
彼らの生活習慣とマッチさせてこそ、商売は太くなる。
「美しいが使いようのなかった東洋の磁器が、その高い技術で彼らの生活雑器の市場に進出したならばどのようなことが起こると思われますか」
「…ッ!」
「彼らはあちらで東洋の焼物の模造品まで作っていると聞きます。白い宝石とまで讃えられる本物の東洋磁器がそこへもたらされれば、まず成功は間違いないのではないでしょうか」
おのれの見通しを吐き出しつくして、草太は荒げた呼吸を押し殺した。