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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
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034 きざはしを昇りて






江戸までの足は、幕府の公用船であった。

海運が盛んになるとともに大型化が進んだ昨今の廻船と比して、船齢も古くやや小ぶりな感じな和船であるが、一朝事あれば軍船として使用されるものだけに船楼がやぐらのように仕立てられているのが印象的である。

船尾のあたりには船旗が風にたなびいている。

その船旗、幕府公用船なのだから葵の御紋かと思ったら、なんと前世でも馴染みの『日の丸』であった。水夫にそのことを尋ねると、


「縁起もんの旗だからな! お上の船だっつう目印みたいなもんだわ!」


国旗とかそういうものではなくて、漁船の大漁旗のような定番の『縁起物』意匠であったらしい。最近は多数来航するようになった外国船と区別するために、国内船はすべてこの日の丸を掲げるよう指導されつつあるという。おそらくこの『外国との区別』が後の世に『国旗』と認識される由縁なのであろう。

同乗するお歴々が陣取って動かない船楼には近づけないものの、舳先のほうによじ登り海風を満喫する草太は自然厨二的な妄想に遊んでいる。


(和船だって、十分外洋を渡れるんじゃないの! いけるじゃん! 蒸気船はまだ早いけど、和船いけるよ! 龍馬くんには悪いけど先に世界行かせてもらいますわ!)


そのぐらいに和船は波しぶきを立てながらぐいぐいと海路を進んでいたのだ。

船とか専門家ではないのでよく分からないけれども、倭寇が跋扈したぐらいだから和船でもいけるんじゃないだろうか、などと想像してしまう。

もっとも、倭寇の正体はほとんどが中国人、船もジャンク船だったぐらいのことは草太も分かっている。遭難が多いとの先入観を払拭するに足る数度の航海経験が、いけるという確信を後押しする。

一隻で危ないというのなら、船団を組んで運行すればいい。波を間切れないというのであれば、簡単な話、船体の全長を伸ばして十分な大きさと重さを与えてやればいいのではなかろうか。

船倉にボーンチャイナ他交易品を満載して、西海岸のウェスタンな荒くれアメリカ人たちの度肝を抜いてやったらさぞや痛快なことだろう。


「そこのぼうず! 気いつけえや!」


どこかから水夫の注意喚起の声が上がった時には、盛大な波しぶきが草太に襲い掛かった。波しぶきに圧されるように転がった草太を『浅貞』の用人が受け止めてくれなかったら、そのまま落差のある船底まで転がり落ちてしまったことだろう。

全身びしょぬれになっても、草太は返って腹の底から愉快そうに笑った。

ハイテンションの子供に怖いものなど何もないのだ。




船はやがて東京湾の波穏やかな内海に入り、湾の奥へ奥へと進んでいく。

この時代的には江戸前といったほうがいいのだろうか。たくさんの小船が漁の最中で、銀色に輝く魚を次々に引き上げている。産業文明に汚染される前の江戸前の幸である。条件反射的に江戸前寿司を連想してつばを飲み込んだ草太を誰も責められはしないであろう。

海苔を養殖しているのだろうか、竹がマス状に刺してある遠浅な風景を横目に、草太たちの乗る船は多くの廻船が停泊する護岸された小さな島に近づいていった。

江戸百万の庶民の腹を満たすためにひっきりなしにやってくる廻船がひしめくなか、幕府公用船はそのお上の威光にあやかって誰に邪魔されるわけでもなく一番対岸に近い一等地に碇を下ろし、それを目ざとく見つけた役務の小船が近づいてくるのを悠々と待った。

その廻船の停泊地となっているのがあの佃煮でおなじみの佃島であるのだという。佃島、石川島などの隅田川河口付近を大きく『江戸湊』と呼び、廻船から下ろされた荷は茶船という小船に詰まれて対岸の問屋倉庫へと運び込まれていく。

陽気のせいかほとんど真っ裸の人足たちが掛け声を合わせて荷を移している活気ある風景を眺めつつ、下田からの一行を分乗させた二艘の小船は、掘割のような石積みの水路へと滑るように進んでいく。

この時代の江戸という町は、水運の盛んなベニスのような水郷都市である。縦横無尽に開削された水路はむろん江戸城のお堀へも繋がっているのだろう。浮世絵でも特に有名な歌川広重の日本橋に似た橋もいくつか見かけた。

水路端に続く道も、渡る橋も、江戸湊から吐き出される膨大な物流を担う商人や人足たちでむせ返るような熱気に包まれている。


(…って、これ浮世絵まんまだけど、ほんとに日本橋じゃないの? いま下くぐったけど!)


人のざわめきとどこか懐かしい汗の凝ったようなにおいが頭の上から降ってくる。忙しく行きかう人たちのなかには、悠々と水路を行く船にうらやましげな眼差しを向けものもいる。

子供が無邪気に手を振ってきたので振り返してやると、気付いた母親が慌てて子供を抱え上げて逃げていった。

一瞬頭に『?』が浮かんだ草太であったが、同乗する幕府のお歴々たちのいかにもな格好を見て、すぐに納得する。まあどう見ても下っ端の役人には見えないし。

このまま船で城内まで行くのだろうか、などとぼんやり考えていた草太であったが、さすがにその予想は外れて、やがて巨大すぎて公園にしか見えない豊かな木々を戴いた江戸城の石垣が見えてきたあたりで、小船は蓮の葉を間切るように船着場に腹を寄せた。

そうして石段を登って徐々に目線が上がるほどに、江戸城の全景が明らかになっていく。


(でけえ…)


前世では林立するオフィスビルの谷間に癒し空間としてその緑を認識していた皇居……それがここでは恐ろしいほどに威容を誇っている。比較対象の現代建造物が取り除かれると、ここまで存在感が大きいとは。

城郭ならではの『天守閣』を無意識に探してしまうが、それらしいものをすぐには発見できない。○れん坊将軍で江戸城として背景処理されていたのが白鷺城こと姫路城なのは無論草太も知っている。大名イコール城住みな短絡思考なら、大名たちの棟梁である幕府は一番立派な天守閣を構えていて当然であるのだけれど、残念ながら21世紀の東京に江戸城天守閣は存在しない。

江戸城が第二次大戦とかで焼失してしまったのではと誤解している人も多いけれど、実際には江戸城の天守があったのは江戸時代の前半くらいで、なんども出火と建て替えを繰り返したのち後半は財政難のために「天守いらないんじゃね?」という結論にたどり着いて以降『天守なし』の状態が続いていたというのが真実である。

ぱっと見で発見した3層の小城のような建物……『富士見櫓』を「これウチの天守閣」と臆面もなく言い張っていたというから、見栄っ張りなふうの強い武家社会にあって、幕府の天守閣無用論の現実主義っぷりが実に興味深い。歴史というのは、噛めば噛むほど味が出てくる魔性のおつまみのようなものである。

迎えの案内役を先頭に、川路様らお歴々、その後ろに『浅貞』の主人と草太が並んで歩く。この奇妙な行列は当然ながら道行く人の注目を集めた。

好奇の目にさらされて、みなが一様に身だしなみに気を回し始めた。草太も旅の汚れでしわしわになった着物を目立たぬよう伸ばしながら、無意識にお役人様たちの衣装の粗探しをし始める。出発のときに火のしを当ててはいるのだろうけれど、海風に数日もさらされれば同じようにしわしわである。変な安心の仕方をしながら、草太は目前に迫っている城門に目を移した。

目印になるビルとかランドマークがないためにその門が『何門』であるのか特定できない。いわゆる桝形形式という門構えで、二階建ての上から鉄砲が狙っている感じの大きな門だ。


(大手門とかじゃなさそうだけど…)


橋に差し掛かる際に、案内役が門のほうへと走り、草太らが橋の半ばまで来たあたりで重厚な門扉が左右に開かれた。

全身に痺れが走ったような気がした。草太はカラカラに嗄れた喉を何度も上下させたが、つばなど少しも出てこない。いよいよテンパって来た。

門から落ちかかる暗がりがわずかに涼気をもたらした。この門をくぐった人間が、いままでどれほどいたのか分からないけれども、おそらくそのほとんどが国の支配層、大名や旗本など上級武士たちであったのだろう。

江戸城に初めて足を踏み入れたとき草太の鼻をくすぐった最初の匂いは、なぜかあの箪笥の樟脳の匂いだった…。




将軍、徳川家定との面会は、あっけないほど簡単に行われた。

連れて行かれたのは西の丸御殿という建物の裏手だった。

広大な敷地に作られたその平屋建ての御殿は、天守閣がなくても幕府の中枢として幕閣が胸を張っていられるのも頷ける、呆れるほどに大規模なものだった。


(建坪だけで1000坪以上あるんじゃなかろうか…)


腰の低い用人たちが立ち止まって挨拶していくのに何度も付き合いながら、その巨大な御殿をめぐって裏手のほうへ行くと、なぜだか使用人の出入りする勝手口に物々しい警護の人垣があった。

目のあった警護の一人が、大目付格西丸留守居役の筒井様の姿に気付いて、恭しく片膝をついた。


「上様はあちらか」

「すでにお待ちにございます、筒井様」


警護の人垣が割れる。

そうして歩き出した筒井様に引きずられるように、草太らも勝手口の敷居をまたいだ。

少しすっぱい漬物の匂いで、そこが勝手場(厨房)であることに気付く。その建物自体にしみこんだなじみの匂いの中に、この時代ではとんと嗅いだこともなかった甘ったるい蜜の焼ける匂いがふうわりと漂っている。

竈の前に立っている、料理人としてはいささか金をかけすぎた立派な服を着た小男の背中が目に入った。両閉じのフライパンのようなものを持ったその男は、2度3度とひっくり返していたそれを手に持ったまま、こちらを振り返った。


「やっときたか」


ずいぶんと小柄で、肉付きの薄い男だった。

やや不機嫌そうに眉をしかめ、小さなおちょぼ口を引き結んでいる。

第13代将軍、徳川家定そのひとであった。


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