028 御用申付
数日後、稲田寺に召しだされた草太一行は、大目付の筒井政憲、下田奉行伊沢政義らに拝謁したあと、先のプチャーチンの手に渡ったていかっぷ代10両とともに、一通の書状を受け取った。
《御用申付》
その一文に始まる書面を流し読み、さっとそれを元のように折りたたんで懐中に差し入れ、草太は幕府の要人たちに平伏した。
それは幕府からの正式な『発注書』であった。
草太は極力とりすました様子を保っていたつもりであったが、内心は激しい動悸により呼吸さえも踊りかねない状態だった。
御用申付……その書面の千金の重さを、少なくとも同席した全ての者たちが認識していた。お役人様たちはもとより、草太の後ろに控えていた次郎伯父でさえも緊張に顔をこわばらせている。
その書状ひとつで、たとえば職工であるなら一族あげてその栄誉に狂喜乱舞しただろう。
商人であるならば、その書状に付帯するけっして金銭では購えない巨大な《信用》に将来の展望を夢に描いただろう。
たったひとつのその『書状』が、世に言う『御用達』の証でもあったのだ。
「なかなか見事な品であった。早急に一揃いを用意し、期日までに粗漏なくお上に納めるように」
「かしこまりました…!」
退出するに際し、紹介者として控えるように坐っていた川路様と目が合って、草太はそちらへも深々と平伏する。にこにこと笑みを絶やさず「たゆまず精進されよ」と力強く背中さえ押してくれる。
「この命に代えましても…!」
この瞬間よりのち、《天領窯》は《天領御用窯》と称するようになる。
《天領窯株仲間》とって、それはまさに天下に飛躍するための翼を手に入れたに等しかった。
***
下田を発った草太一行。
順風にも恵まれて3日後には宮宿に着き、休む間も惜しんで翌日には名古屋に入っていた。
今後のこともあるので『浅貞』の主人とはある程度のすりあわせを行っておく必要がある。簡潔に指示をしたためた手紙をゲンに託し、一足先に大原へと戻らせると、草太は伯父を伴って堀川端の『浅貞』を訪れた。
早すぎる戻りに怪訝な顔をした主人であったが、草太たちの持ち帰った報告に文字通り腰を抜かすことになった。
「幕府御用……ああ、失礼」
草太らを客間で迎えた『浅貞』の主人は、手に取りかけた湯飲みを取り落としてわたわたと落ち着きを失った。
そうして震える手で草太の持つ書状を受け取ると、はらりと広げて食いつくような勢いで文面を目で追った。その目が何度も何度も反復動作を続けた後に、ようやくそのまなざしが待ち構える草太たちに向けられる。
『幕府御用』…。
その言葉はそれほどに重い意味を持っているのである。
蔵元である『浅貞』もまた御用商人といえるわけだが、それは尾張藩の御用であり、幕府の御用とはやはり重みが違う。尾張藩御用がこの地域限定の権威であるのに対し、幕府御用は全国津々浦々で信用というご利益を賜りやすい。
主人は熱に浮かされたように細くため息を吐き出すと、心底うらやましそうな目でとりすました6歳児のまなざしを見返した。
「たった10日で『幕府御用』を掴み取ってくるとは、どんな天佑が働けばこのようなことが起こるのか……もしも旅立ち前に拝んだ神様仏様があるのならわたしもぜひご利益にあやかりたいものです」
「宮の渡しで熱田神宮には参拝しましたが…?」
「熱田さんが商売繁盛などとはあまり聞いたためしがないですが、わたしもそのうちに一度参ってみるとしましょう…」
「今回は予想も出来ぬことが重なり、あのていかっぷを幕府お買い上げとなってしまったこと、専売の約定を取り交わした『浅貞』さんには大変申し訳ないことをいたしました」
ほんの少しだけ息を詰めて、草太は頭を下げた。
成り行きがどうであれ、先に『浅貞』と交わした専売の約定をたがえたことに違いはない。『浅貞』の主人は事の顛末を説明し始める草太の言葉に耳を傾けていたが、ひととおりを聞き取った後に盛大なため息をついて、彼の謝罪を当然のように受け入れた。
「そのような事情であるのなら、いたしかたありますまい。お相手がお上のお偉方ともなれば、もはや草太様の一存ではどうにもなりますまい。…わたしはむしろ目先の小金よりも、渭水で龍を釣り上げた呂尚のごときその天運にこそ瞠目する思いです」
「先の約定の通りに、今後《根本新製》は『浅貞』さんの店からしか出荷されません。《天領窯株仲間》が幕府御用をいただいたのなら、それは『浅貞』さんが御用を賜ったのと等しいとお思いください」
草太はそこで懐から代金として受け取った10両を差し出し、それを3枚と7枚に分けて、3枚のほうを『浅貞』の主人のほうに押しやった。
「これが今回の売り上げです。いささか不測の事態などもありましたが、売り買いが成立したこの10両をわたしども《天領窯株仲間》の公認する小売価格として、全体の3分(30%)を『浅貞』さんの取り分としてお渡しいたします」
「問屋の取り分が3分、というわけですな」
わずかに意味ありげな主人の目配せに、草太は出されていた茶で喉を湿しつつ取り澄ましたふうに持って回った言い方をした。
「次回のお上への納品時に、おそらく今後の売値の基準のようなものが定まるものと考えています。そこで定まった売値を今後わたくしども《天領窯株仲間》の希望する『小売価格』の基準としていこうと思います。《天領窯株仲間》の取り分は、その『希望小売価格』の7分です。例えそれ以上の値がいくらつこうとも、そこから先の利益については口を出すつもりもありません。…高く売れれば売れるほど、『浅貞』さんの利益は青天井というわけです……たとえそれが100両で売れたとしても、わたくしども《天領窯株仲間》の公認価格が仮に10両であれば、そのうちの3両と残り90両全ては『浅貞』さんの取り分となります」
「……ッ!」
そういう破格の価格付けがブランド商売というもの。
暴利ではあるが、けっしてそれはいかがわしい商売などではない。信じられないほどの付加価値が乗せられて且つそれでも欲しがる相手がおり、売買が成立してしまうという特異な状況においてのみ成立するビジネスモデルなのだ。
その破格の利益が保証されれば、ほっといても営業にも熱が入ることだろう。
「ひと月以内に幕府ご指定の品を『浅貞』さんに納入いたしますので、そのときはぼくと江戸までご同行よろしくお願いいたします。ぼくのほうで渡りをつけたお役人様方との顔合わせもありますし。今後は約定の通りにすべて『浅貞』さんが窓口になってさばいてもらわんと」
「江戸へ……下田にではなく?」
「そのときは将軍様に献上する品も用意いたします」
「しょ…公方様に拝謁するのですか!」
「まだそうと決まったわけやないけれど、そういう可能性だってあるとぼくは思ってます。…ともかくここからが勝負やし。流れが向いてるうちに押して押して押しまくらなあかんし」
おそらく川路様に手渡したティーポットは、幕府内の役務の流れに従って上流へと遡上し、いずれはその頂点である老中幕閣、さらには将軍のところにまで至ることであろう。黒船騒動で動揺している徳川幕府にとって、国内産品を露西亜帝国の全権使節が目の色を変えて欲しがったという風聞はまことに耳によく聞こえることだろう。苦境にあるからこそそういった噂は強い力で拡散する。
「茶器を愛好するのは上流の武家ではたしなみみたいなものやし。きっと見たことのない西欧の茶器をお偉方も『見たがる』やろうし、たぶん自身の趣味人を証明したくて『分かりたがる』と思うんです。…やから、新たな品を納めるに当たって、下田奉行所からそのまま江戸城に召し出されるなんてこともありえる話やと思うんです」
「あの奇妙な形の茶器を見たとき、このわたしですら値付けに迷ったほどですからな。もしもあの品をお偉方が手に取るようなことでもあれば……まったくありえぬ話というわけでもありませんな」
「やから、ここは一気に土俵際まで寄り切るつもりで勝負に出なあかんと思うんです」
膝をつめて、草太は『浅貞』の主人に耳打ちする。
その企みに聞き入るうちに、主人の顔にもややたちの悪い色が浮かんでくる。
「わたしのほうではともかく交渉前の地ならしに、あたりかまわずその《噂》を流せばいいわけですか」
「ええ。『露西亜帝国の全権使節が目の色を変えた一品』とか、『幕閣のやんごとない方が御用扱いを即決した』とか」
「噂ばかりでその現物はあまりに希少……まさにそれは幻の一品、蒐集自慢の旦那衆が騒ぎ出すこと請け合いですな」
「そこでぼくのほうが…」
腹黒い狸2匹が密談を始めるその脇で。
ひとり蚊帳の外に置かれた次郎伯父が、何かいろいろなものをあきらめたように長いため息を吐いた。