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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
112/288

025 真価






もうひとつの木箱…。

こちらこそが草太の用意した本命であった。


(『浅貞』の主人に値付けを迷わせた一品だ)


名古屋の『浅貞』に経過報告がてらこの《根本新製》を見せたとき、目利きの主人をして押し黙らせたこの品は、おそらく現時点で目の前の異人たちにしか価値を定めることが出来ない代物であったろう。

その木箱は先の小皿を収めたそれよりもずいぶんと大きかった。

近い大きさのもので言えば千両箱であったろうか。桐油を塗り込まれた木肌はしっとりと光沢を持ち、角を補強する金具とあいまって非常に重厚感のある箱となっている。

留め金を外し、蓋を開けた。

中の状態をすばやく確認し、問題がないと見極めた草太は、その箱をくるりと180度回転させ、ロシア人たちの前に差し出した。

ほう、と川路様のため息が聞こえる。異人相手の体面さえなければ、すぐにでも身を乗り出しそうな食いつき感である。


「красивый…」


プチャーチンの口から、呆けたような呟きが漏れた。

ちらりとその視線が向けられたのを、手に取る諒解を求めたものと受け取って、草太はこくりと頷いて見せた。

プチャーチンの手が、箱の中に収められていたティーカップを取り上げた。

《根本新製》の異質さがもっとも色濃く現れたその焼き物は、プチャーチンの丸っこい指の中でくるくると方向を変え、矯めつ眇めつ食い入るような熱視にさらされている。


「…この国にも茶の宴があったとは驚きだ、と申されている」


通詞がプチャーチンの言葉を拾って日本語にしていくのだけれど、訳がいまふたつほど怪しい。茶の宴ってなんだと詰め寄りたい気分であったが、『ティーパーティ』のことであるのは明白だったので勝手に脳内変換する。


「面識のある長崎帰りの商人から聞きかじったのですが、海の向こうのほうではそうした器で『紅茶』を楽しむのが上流階級の習いであるとか。正確な形はわかりませんでしたが、その『取っ手』をつまんで口に運ぶものと伺っています。『ていかっぷ』と申す茶器にございます」

「ほほう、変わった形だと思っていたが、あちらの茶器か!」


覗き込んでいた川路様が、見慣れぬ形のその正体を知って前のめるようにテーブルに手をついた。

金泥で縁取りしたやや小ぶりなティーカップには、牛醐の渾身の作である上絵が踊っている。白と薄茶の子犬が二匹寝そべるように愛くるしい顔をみせている。ふわりとした毛並みまで感じるような巧みな色使いに、ボーンチャイナの透明感のある白が際立たせられている。

まだ東洋の模倣段階にある欧州製磁器とは違い、絵付師は紛れもない本場東洋のプロ中のプロ、有田の絵師にすらこの点では明らかに上回る円山派の直弟子によるものだ。

色の発色の悪さを値引いてもなお、絵に関しては紛れもない当代一の商品である。


「東洋の美しい磁器はわが国でも大変に珍重されている。…我が家にも買い求めた『へうれんど』なるのものがひとそろいあるが、それらは唐土の焼物を模したものでそこまでは高価ではない、と申されている」


へうれんど?

もしかして『ヘレンド』のことか。

ハンガリーの磁器産地で、中国の陶磁器の絵付けをあちらふうにアレンジした少し癖のあるデザインの焼き物だったはず。伝統の先入観に毒されていない職人がアレンジするとこうなるのか、というなかなかに興味深いメタモルフォーゼの一例で、おぼろげに記憶にあるのは中国の『鯉』が『○金魚』(某金融機関の…)似になってしまうというなかなかにカルチャーショックな代物であったはず。

ヨーロッパの茶器の歴史は『東洋の磁器』の模倣に始まって、土着の意匠と融合しつつ独自デザインへと昇華している。ロシアにも王室が経営する有名な磁器工房があったはずで、王侯貴族の磁器コレクターもさぞ多いことだろう。


「その上絵は彼の円山応挙先生の正統を受け継ぐ、優秀な絵師によるものです。そのひとつひとつが絵師本人の直筆で、この世にふたつとしてない大変貴重なものです」


おのれの売込みが相手にしみこんでいくのを伺いながら、草太は干上がった喉を何度も上下させた。水が飲みたい…。


「なんと! それは応挙先生のお弟子さまの絵なのか!」


プチャーチンよりも先に川路様がフィーシュッ! である。

にこにこ笑みを絶やさない老紳士であった川路様が、笑いを貼り付けたまま血の気をのぼらせている様子はなかなかに迫力がある。円山応挙のネームバリューは全国区であるらしい。


「伊万里のものと色艶が違うように思うが、なぜか、と申されている」通詞からの問いに、

「さすがはロシア帝国全権使節様でございます。ひとめでその違いを見抜くとは、恐れ入りました。…伊万里(有田焼等)とは使用する土が違います。《天領窯》独自の磁器土を用いております」と草太は立て板に水とばかりにすらすらと答えた。

「北のしべりあの雪の下にある氷のように美しい、と申されている」


プチャーチンは興に乗ったように箱の中のカップを次々取り出して、同じく同梱されていたソーサー(受け皿)も合わせて並べていく。磁器同士のぶつかる音がまるで風鈴のそれのように、蒸し暑い小屋の中にわずかな涼感をもたらした。

箱の中には、4セットが収められていた。

箱はこれらの高級ティーカップセットを収めるべく特注で作られたものだ。例の西浦のでこ娘に拉致られた小間物屋で、草太が見出した木箱……その作り手である内津の指物師に指示して作らせた。

しっかりとした造りの箱の中には、やわらかい緩衝材のなかにカップとソーサーがはめ込めるようなくぼみがあり、移動中の破損に備えている。細かめにした藁くずを糊で固めた自家製緩衝材はたっぷりした絹の手巾で覆われており、収納ボックス単体でもそこはかとなく高級感を醸している。

高級路線を行くのなら徹底的に!

高い金を払うお客のためにサービスの限りを尽くす現代感覚ならではのパッケージングである。


「красивый…」


並べたティーカップをうっとりと眺めているプチャーチンと川路様。

これは完全に食いついたと判断していいだろう。成功の予感に鳥肌が立ってくる。最初にして最大の関門であった『初見の掴み』は達成した。

後はそのいい空気を我田引水、《天領窯株仲間》の利益へと誘導していくだけである。草太の予定としては、ここでプチャーチンに食いつかせておいて、あえてその品を下げて撤退、「プチャーチンが喉から手が出るほど欲しがった品」という風聞に乗って江戸の旦那衆を席巻するつもりである。

本来なら手土産にとそのまま渡してもよかったのだけれど、あいにくと合格品の『てーかっぷ』はいまここにある現品限りなのだ。


(さぁ、後はどこで撤退を開始するかだな…)


ぺろりと唇を湿して雰囲気を伺う草太を尻目に、会話というよりも独り言をつぶやき合っていたプチャーチンと川路様であったが…。


「Требуются…」


ぽつりと、プチャーチンがつぶやいた一言に、通詞が反応する。

もうほとんど条件反射なのだろうけれど、訳してから少し驚いたように通詞の男は目を見開いた。


「欲しい、…と申されている」


物欲しげなプチャーチンの視線が、それと合わせるようにせり上がってきた川路様のそれとぶつかった。

その瞬間、まったく別の思惑に意識を割いていた草太は、状況の急変に対応できなかった。視線を絡み合わせたロシア帝国と徳川幕府の代表者たちは、言葉の刀を切り結ぶこの時代の最前線の外交官である。

そこには互いの利得を読み合う機微というものがあり、その流れを見抜ける外交官ほどその資質が優秀であるといってよかった。


「…むろん、でございます」

「……ッ!」

「これはささやかながらわが国からの贈り物として用意させた品にございます」


え……?

わずかに取り残された感のある草太を脇において、話がとんとん拍子に進んでいく。

川路様が盛大に照れながら、プチャーチンから差し出された手を握り締めた。シェイクハンドというやつですね! 

って、ちょっと待って…!


「両国の交流がこれを機によりよいものになることを祈念いたします、と申しておられます」

「それではご帰国までどうかご健勝で」


がっちりと握手を交わした日露外交官たち。

そのティーカップ、ぼくのなんですけど…。

何で持っていっちゃうのかな。ぼくよくわかんないや。




プチャーチンらロシア帝国全権使節団は、次の朝には戸田村の住人らに見送られながら帰国の途に着いた。

どうやら川路様が急いでこの村までやってきていたのは、この使節団が急遽出国を決めたのに合わせてのものだったらしい。

いろいろな出来事で絆を深めた両国の人々が惜別の思いで互いを見送る中、ひとり灰のように真っ白になって体育坐りする6歳児の姿が戸田の浜辺にあったという。

まさにポカーンである。


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