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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
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019 動き出そう






物の『価値』というものは、実際はひどく曖昧で相対的なものである。

たとえばここに、世界的有名画家の絵があるとする。

そのたった一枚の絵にたとえば50億の値がついたとする。その価値が妥当なものとして取引が成立したわけであるから、その絵は50億のキャッシュと等価のものということができる。

だがしかし、その価値は絶対のものではない。絵画の来歴を知らぬ田舎者がたまたまその絵を手に入れ、「子供の落書き」程度の代物と思いフリーマーケットで売り払ってしまったら、そこでは1000円で取引されるかもしれない。

貴金属や宝石などと違い、『美術品』は主観という『下駄』を履かされている場合がほとんどで、価値などまさに紙一重である。


さて、ここに一組のティーセットがある。

その価値はいかほどのものになるのだろうか…。




「こいつが、いくらで売れると思う…?」


何かを恐れるかのようにゆっくりと発された問いに、『それ』を手に取った牛醐が沈思する。

おのれの創り出した美術品が好事家の間で価値を持っていく過程を知る職業絵師であるがゆえに、その鑑別する目は熱を発しつつもどこか冷ややかさを保っている。


「…値は、銀10匁(約700文)ほどでしょうか」


その回答に、周囲の関係者たちがわずかにどよめいた。

瀬戸の新製焼茶碗が10個ひと束で銀4匁が取引相場である。それがこの『根本新製焼』の『てーかっぷ』だとたったひと組で瀬戸新製ふた束半の値に等しいというのである。

手間がかかっているとはいえ、それはさすがに高く見積もりすぎだろうと、その場にいた誰もが思ったことであろう。が、《天領窯株仲間》の勘定方である草太の見解は彼らのそれとまったくの真逆であった。


「こいつひと組、2分(2000文)はもらわなあかん」

「に、2分やと…」

「まさか本気でいっとんのか」


《天領窯》で生み出され、そして初めて草太の検品をクリアしたティーカップ。

まだ完全には満足していないふうの草太を除き、見た者すべてがうなるような見事な上絵付けが磁肌に描き出されていた。

カップの縁取りは金彩と落ち着いたパステル調の薄い緑で、手毬のような模様が編まれている。カップの腹にはころころとした子犬2匹のじゃれあう構図が精緻に描写され、円山派に伝えられる伝統の技がいかんなく発揮されている。


「…絵柄については宿題が多いけど、さすがは先生、想定以上の域にまで完成度を高められましたね。ここまで作りこまれれば、一定の説得力が生まれると思います…」

「草太様のご要望にいまだ応えられへんとか、お恥ずかしい限りですけど。結局おのれの得意分野に引っ張り込んでようやく、というところですわ」


上絵については、結局すべての塗りを牛醐自身が負うことによってようやく質的な高まりを得た。手習いを始めたばかりの素人が完成品に筆を入れるのはやはり時期尚早であったようだ。

子犬の絵柄などは牛醐の創意によって輪郭をはっきりと用いない吹き付けに近い技法が用いられ、ボーンチャイナの透明感のある白を生かした驚くほどにうまい『ぼかし』が使われている。さすがは星厳先生に名を挙げられるだけのことはある、たしかな技術に裏打ちされた見事な上絵だった。

浮世絵的な展開はやはり円山派の絵師として抵抗が強かったようでなかなか結果を出せなかったが、それが彼を発奮させたのか、一転して伝統的な構図で草太の要望を押し切った形となった。


「ただし、商品価値をここまで高められるのは牛醐先生おひとりのみ。他の絵付師の腕が一定水準に至るまで、《天領窯》の商品は牛醐先生の手からしか生み出されんことになる。…窯元として職人の食い扶持を維持してくには、そのくらいの値がつかんと厳しい」


おのれの思い付きがあまり生かされなかったことに若干の不満を残しつつも、それを発奮材料として別の『解』にまで至った絵師の功績を否定するほど草太も狭量ではない。

牛醐がおのれの作品の価値を冷徹に評価するのと同じく、草太もまたおのれの主観を脇において、市場での相対価値を慎重に値踏みしている。


(この上絵は、もう絵付けというよりも『絵画』だな……描けるのはいまのところ先生しかいないし、むろんのこと量産も効かない。数が出ないのに、ワンセット銀10匁では窯が立ち行かない)


本当ならば、2分といわず両単位の価格を設定したいぐらいである。というより、そこまで持っていくしか《天領窯》の生きる道はない。

ここから先の価格の上積みは、営業担当である草太の役割というものであるだろう。


(…なんかまだ納得するところまで届いてないんだけど……まだ数を叩いたわけでもないこの『根本新製』の絵付けが洗練されていくのはまだまだ先のことやろうし。…現時点でこれ以上のものを望んで待ってられるほど資金体力も残ってないんだから、もう迷わず動くしかない)


当たり前のように信じられない価格を言い合っている6歳児と絵師に、関係者一同固まってしまっている。それを見てぺろりと唇をなめる草太。

世に往々にして『価格マジック』が起こる仕組みを草太は知っている。

カップをくるりと裏返すと、そこには窯元を示す印がある。これは草太の強い要望が叶えられたものである。

亀甲の縁取りに『天領』の文字が古代小篆文字(印鑑のそれに近い)で配されている。いわずもがな、《天領窯》の企業ロゴである。なかなかに良い出来だと自賛している草太であったが、そんな場所に無用な手間をかけさせる草太の狙いを理解しているものはいまのところ皆無である。


(出来はまだいまひとつやけど……林家が干上がるまえにやるしかない。やれなけりゃ、一家揃って首でもくくらにゃならんくなる)


6歳児の小さな肩には、目には見えぬ重圧が常にかかり続けている。

内心の焦慮など毛ほどにも表にあらわさず、手に浮いた大量の汗をこっそりと拭った草太は、「後は任せてくれたらいい」と涼しげに微笑んでみせた。



***



「また行くのか」


祖父の慨嘆はやや呆れの成分を含んでいたけれど、草太の固い決意はまったく揺るがなかった。孫の一見突飛(いっけんとっぴ)に見える行動がつねに何がしかの深謀を秘めていることを知るがゆえに、貞正はその幼い身の安全だけを問い正し、納得するとそっと背中を押してくれた。


「今回はかなり遠地やから、出来るだけ船を使おうと思っとるし」

「何か考えあってのことだろうが、体だけは気をつけるのだぞ」

「うん……行ってくる」


今回は大量の荷物を抱え込んでの旅立ちである。

むろんそれは暢気な物見遊山の観光旅行などではなく、《天領窯》の浮沈を賭けた恐ろしいまでに重要な営業ミッションである。


「今度はどこへ行きなさるんで?」


主人の貞正に命じられるままに草太のお供と決まった小者のゲンが、腰をかがめて揉み手している。今回の旅は、荷物の運び役を仰せ付けられたこの狸顔の小男と、保護者兼用心棒として次郎伯父が同行する。

ゲンの問いに、草太はあっけらかんと「江戸やよ」と言った。


「…っ、江戸!」


そのあっさりした物言いにゲンが絶句したのも仕方がない。

多治見から江戸までの距離は、公称100里。京都までの約3倍、400キロにも及ぼう長旅である。しかもその距離は、中山道を使ってまっすぐに向かったときの距離であり、目を見開いているゲンを苦笑気味に見上げて草太は『寄り道』宣言までしてのける。


「最初に名古屋の『浅貞』さんに寄るし。少し遠回りやけど…」


いい顔をして言う主筋の鬼っ子に、面と向って文句も言えないゲンはしゃべり手のいない腹話術人形のように口をパクパクさせていたが、次郎伯父に背中をどやしつけられて条件反射的に背筋をぴっと伸ばした。


「こいつの周りの大人はこき使われるぞ。覚悟しとけ」


使用人の習い性は悲しむべき性なのであろうか。

泣きべそをかきそうなぐらいに目をうるうるさせるゲンであったが、命じられたことに盲従を求められる小者という役どころの悲しい現実で、それ以上かまいつける者もいない。総重量が童一人分ほどもあるだろう荷物をよっこらしょと担ぎ上げて、ゲンは煤けた顔を俯かせた。


「むかし西浦屋も江戸にまでのぼって幕府相手に『上訴』をやらかしたらしいが、おまえもそれに習おうってわけでもないんやろう? 江戸くんだりまで行っておまえはなにをやるつもりなんや」


家事手伝いが嫌で草太の江戸行きにまっさきに手を上げたという次郎伯父。よほど鬼女房から逃げ出してせいせいしているのか、ゲンとは対照的にその顔色はやたらと明るい。

草鞋の紐を結んでいた草太は、立ち上がって具合を確かめるようにとんとんとつま先を突いた。

その目はすでに、最初の目的地である名古屋へとつながる下街道の道筋をたどっている。


「言っても分からんと思うけど」


草太はつぶやいた。


「『ステマ』やよ」


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