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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【プロローグ】
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プロローグ

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません






『お客様は神様』、という言葉がある。



それは商魂たくましいご先祖様が残したありがたい言葉なのだけれど、昨今あまり耳に聞こえたためしがない。

『客』が神様であった時代はもう過去の話。

こうして一日が終わって、売り上げの伝票を眺めていると何のために生きているのか分からなくなる。


「…作るだけで100円かかるものを、100円で売れって何様なんだろうな」


注文してやるのだからありがたいと思え。

終始押し付けがましくまくし立てた後には、こちらの生計など一切配慮のない破格値の注文票だけが手元に残された。

少なくとも、『神様』は違うな。うん。

安い海外に取引先ならいくらでもある?

利益が出ないのなら、もっと頭を使って厳しい経営努力をしろ?

社員はみんな自分の家族を抱えて死に物狂いで働いているというのに。この自称『神様』の注文を受けた瞬間、彼らは日給6000円で強制労働に従事することになる。もちろん、オレ自身の稼ぎを度外視して、だ。ちなみに工場というものは、生産設備の機械自体に大金がかかっているので、『減価償却費』という恐るべき伏兵が存在していて、おそらく会社としては実質マイナス操業となるだろう。

オレの会社、『㈱トーノー製陶』はいま、存亡の危機などではない。そのレベルすらとっくに踏み超えてしまっていた。


「死んだら楽になるのかな…」


頭の片隅には、いつもその想像がある。

すでに傾きかけていた会社を息子に引き継がせて、オヤジは輝くようなドヤ顔で「この会社を盛り立てていってくれ」とのたまわったものだった。

もうオヤジの代で、この会社は『神様』の卸問屋に奴隷指定を受けてしまっていた。

経営の舵を取るなんてことはいまさら不可能なのだ。

郵便受けにたまっていた郵便物を仕分けして、放り投げる。

タウン誌がひとつ混ざっていた以外は、ほとんどが請求書か広告の類である。一枚、ぺろりと葉書が落ちたが、『商工会議所』の字を見て拾い上げる気にもならなくなる。商売につながるかもと健気に参加してみたものの、あるのは酒の付き合いと「わが社の不況自慢」ばかりだった。

かつて、我が郷土多治見では、焼き物産業で飛ぶ鳥を落とす勢いの時代があったという。『陶都』なんてはばったい言葉が出てくるのも、そんな時代のよすがなのか。

一度で良いから、そんな時代を味わいたかったものだ。

たぶんいまのお隣の国みたいに、熱気むんむんのカオスな時代だったんだろうな。明治時代の多治見にタイムスリップでも出来れば、人生も面白おかしくなるだろうに…。

事務机にひじを突いて、汗まみれの顔をこすっているうちに、むなしくなる。

今日は早めに帰るか。帰って風呂で垢を落とそう。

それで気分をリフレッシュして、今後のことを考えよう。

それがいい。



…そんなことを思った矢先だった。



急に心臓の辺りに刺し込むような痛みが走って、オレは硬直した。

なんだ、この痛みは!

胸に手を当てて、おのれの心臓が鼓動を止めているのに気付く。自分の胸の奥でいつも鼓動していた命の証が、そのとき活動を停止していた。

健康を害するような不摂生の自覚はありすぎた。これはたぶん、心筋梗塞とかいうやつだ。同級生に突然死んだ奴がいたが、たしかこの病名だった。

味わったことのない痛みと、全身から吹き出した冷や汗。

体温が急速に失われていく感覚。ダメだ、このままでは死んでしまう。汚い事務室の床に転がって、いつまでのたうちまわっていただろう。

携帯電話で救急車を呼ぶことを思いついたのも遅すぎた。

従業員もみんな帰ってしまっている。うつろな眼差しで汚い天井を見上げて、ここでおのれが死ぬのだと悟った。

家でつましいながらも楽隠居を決め込んでいる両親の顔は浮かんだが、それ以外に思い返されることはなにもなかった。まだ結婚もしていないし現在進行形の恋人もいない。心残りになる物がわずかしかないことに苦笑したくなる。

もう、悩む必要もない…。

遠い窒息感の果てに、オレの意識はそこで断たれた。




加藤正太郎32歳は、こうして誰に看取られることもなく人生の舞台を退場したのだった。


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