望みは際限なく
「ねぇ、あなたは幸せになれましたの?」
この言葉を彼女にこぼすと、彼女は近年見なくなった晴れやかな笑顔をわたくしにくれた。
「ようやくともに暮らせるようになりましたのよ。幸せではないはずなくて?」
上機嫌にカップを煽る彼女は、そのまま視線をわたくしから愛してやまない妹君へと向ける。その妹君は、色とりどりの光の玉に囲まれて軽やかに笑い声を立てていた。
その姿はまるで妖精のようで。あの苛烈な行動をしてみせた少女とは思えなかった。
彼女は、あんなに痩せていたのに、今では程よく肉付きが良くなっていて、それでも年頃の娘よりも遥かに美しくなって咲いている。殿方からの求婚は跡を絶たないだろう。――それは、目の前で喜びを隠しきれていないわたくしのお友達にも言えることだけれど。
わたくしはカップに口を付ける。今日の紅茶は彼女――リディアが手ずから淹れてくれた貴重な一杯だ。この一杯が永遠に失われるところを、彼女の妹君はその身に宿す力を使って救い出してくれた。外界を知らぬはずの妹君が、リディアに害する輩を手に掛けたことは今でも記憶に新しい。それほどまでに凄惨で、それでもわたくしにとっては救世主のような存在ともなった、あの出来事。
チラリとリディアから視線を妹君に流す。
精霊の愛し子。その存在を秘匿させたリディアの親、その関係者。そしてリディアに害を為した王子様と女狐たち。そのありとあらゆる人間が、あの出来事を境に命を取られるか廃人となるかしている。けれど、そのどれも妹君が手を下したわけではない。そう、彼女はただ定めただけだ。
手が知らずに震えだす。
彼女がわたくしのお友達であるリディアを救ってくれたことには感謝しかない。しかし、それでも動物の本能と言うべき箇所が叫ぶのだ。恐ろしい、と。
リディアを貶めた女狐が消えたこと。いいえ、喰われたことは民たちが目撃していた。あんなおぞましい姿を見せられて、恐怖しない者などいない。あれが精霊様だなんて、今でも信じられないわたくしがいる。
だが、わかっていた。わかってしまった。
「お姉様! 見てくださいまし!」
「どうかして、ルーテシア」
「この子たちがプレゼントしてくれたの。お姉様の瞳と同じ石ですわ。それに私の瞳と同じ石もあるの!」
「まぁぁ! 精霊石ですわね。精霊様の加護が与えられるものよ。こんなに濃い色は初めて見ましたわ。よかったわね、ルー」
「はいっ! あ、でも……お姉様、これを加工できないかしら。アクセサリーにしたら、お姉様に身に付けていただけるもの」
「あら、ルーは優しくていい子ですわね。そんな可愛らしいお願いをされたら、叶えないわけにはいかないですわ。――コレット」
ボンヤリと眺めていたら、その妹君を映していた双眸がコチラを向いたことに肩が上がる。凛と響くわたくしの〔名前〕が、わたくしの背筋をピンとさせる。
「はい、リディア様」
「あなた、腕のいい信用の置ける職人をご存知ないかしら」
「ええ。最高峰の精霊石を加工できる腕の者がひとり、わたくしのお友達におりますわ」
「そう。紹介していだけるかしら」
「勿論ですわ、リディア様。すぐに使いの者を出して報せます。日時にご希望はございますか?」
「そうね、明後日にでも寄越してくれるかしら」
「畏まりました」
ベルを鳴らし、すぐに侍女がわたくしの側へ侍る。手渡された便箋と封筒に手早くリディアの要望を記し、封蝋をしてから侍女へと渡す。「至急、お願いするわ」と一言添えれば、あの召喚状は驚く速さで件の人へと渡るだろう。
わたくしの一連の動きを見守っていた二人が嬉しそうに頬を緩める。
「コレット、ありがとう」
「ありがとうございます、コレット様」
その笑顔に嘘偽りはない。わたくしがリディアに向けた問いの答えを目の当たりにするようなものだ。
それがなんだか嬉しくて、わたくしも笑みを深める。
「身に余る光栄ですわ、リディア様、ルーテシア様」
結局、どんなに恐れを抱いても、わたくしが彼女たちから離れることはないだろう。
あの力を見て、そして、リディアの心の底からの笑顔を見て。その笑顔を長年望んでいた者からすれば、ほとんどのことは些末なこと。
そして、真実の精霊の愛し子が現れたことで。間違ったほうへと進んでいた国はすぐに立て直された。それもこれも精霊様ひいてはルーテシア様のお導きだ。わたくしのような一端の貴族に過ぎない者はそれに従い、己の身の振り方を考えるだけのこと。
おぞましい成れの果てを見せられて、それを平然と流してしまえる愛し子の狂気に触れて。
「コレット、お前は本当に良くしてくれるわね。あのようなことが起きて、お前だって大変でしたでしょう?」
それでも、大切なお友達を亡くさずに済んだ。あんなにどうしようもない無力感に苛まれることもなくなった。そして、あの黒衣のローブの正体をこの目で見たとき、わたくしの中に恐れとはまた違った感情が灯った。これはわたくしにとっての青天の霹靂だ。
「確かに大変でしたわ。けれど、こうしてリディア様とお茶をともにすることができる誉れも、精霊の愛し子たるルーテシア様のお顔を拝顔することが叶う今の時間も、それに比べてしまえば些末なことですわ」
「コレット様、お姉様との時間に対しては私も同意ですけど、私に対しては買い被りすぎですわ。あなた様も知っての通り、私は長年両親やその周りの者達によって秘匿された存在。そしてそんな存在を外へと解放するためにお姉様が命を賭けてしまう、あってはならないことを起こさせてしまった。私が居なければ、お姉様はあのような貶めを受けることはなかった」
色素のない瞳が、伏せられる。悲しげな表情に、わたくしの胸が締め付けられた。
ルーテシア様が仰ることは、一部の者が愚かにも口にしたことだ。外を知らなかった彼女に浴びせられた心ない言葉は、責任を持ってリディアとわたくしが火消しをした。それでも、ルーテシア様自身が思ってしまっていたこと。だからこそ、心に残ってしまったものだ。
愚か者どもはわかっていない。精霊の愛し子は丁重に守護せねばならない存在だということを。たとえ、どんなに甘ったれな女狐へと育ったとしても。それは決定事項だった。精霊の愛し子たる存在は、精霊たちに守護され愛されている。そんな彼女らを不当に扱うなど、そんな精霊様の怒りを買うことと同義。下手をすれば国が滅ぶ。
それが、リディアの両親の勝手や周囲の思惑によって牢獄に押し込まれるなんてことあっていいはずがない。本来の待遇から逸脱し外界を知らず虐げられた妹君、愛している妹君を手放すしかなくて自棄になっていたリディア。彼女らが変わってしまったというならば、それはきっかけとなる愚行をしたすべての輩の罪だ。その罪に罰を与えるのは、最早必然だろう。庇う理由がない。
「ルーテシア様、それは違いますわ」
「……コレット様」
「リディア様にとって、あなた様は本当にかけがえのない存在。だからこそ、あなた様との生活を望み、無茶な賭けに出てしまった。これはリディア様の我儘、ルーテシア様が悔やむことはありませんわ」
「そうですわよ、ルー。あれは手に入れられないのなら、せめてといった自己犠牲あふれるわたくしの我儘が招いたことです。お前が気に病むことはないのよ。それに、結果よければすべて良し、ですわ」
ふふん、と胸を張るリディアには悪いが、終わりよければ全てよしなどと言えない類の無茶だった。なんとか五体満足で救われたが、あのときルーテシア様がその力を使いこなすことができなかったらリディアは確実に命を落としてしまっていた可能性が濃厚だろう。あの女狐が仕出かした事件は、愛し子という存在でなければもっと早期解決に乗り出せたというのに。愛し子だから精霊様はあの女狐の言うことを聞いてしまったのだ。思い出すだけで腹立たしいが、あの女狐の最期を目の当たりにしたためにその記憶までズルズルと引っ張りだされてしまうことになる。それはそれで気持ち悪い。
すっかり冷めてしまった紅茶を口に含む。
「ルー、わたくしの無二の妹。精霊様が待っていますわ。ほら、そんな辛気臭い顔はやめて愛らしい笑顔を見せてちょうだいな。お姉様はお前の笑顔が大好きよ」
「……はいっお姉様」
駆け出す彼女を見送って、その彫りの深い彫像のような顔に笑顔を浮かべていたリディアが、その笑顔を剥ぎ取ってわたくしを見やる。
その目が口を開く前から言っていた。
「お前、いつまでその格好でコチラに来るのです?」
その問いかけに、わたくしはクスリ、笑みをこぼす。
「この格好のほうが、ルーテシア嬢に受け入れられやすいと申されたのは、他でもないリディアでしょう?」
違いまして? と、返せば決まり悪そうにリディアは視線を逸らす。わたくしにこの件で勝とうなんて、それこそ愚者のすること。甘いですわよ、リディア。
「ルーが、まさかこんなに懐くなんて思っていなかったのよ。……あの事件から三年経っているとはいえ、あの子の心の傷は深いわ。外の者でまともに話せるのは、お前たちとわたくしの婚約者くらいね。それなのに、お前と来たら」
リディアのウジウジした視線を受けて、わたくしは話の中心に立つ妹君を一瞥する。光を受けて駆け回る少女は眩しい笑顔を精霊様に向けている。
「リディア、あなたがコレットになるように言い付けたのよ? わたくしたちは反対したじゃない」
「軽い気持ちでしたわ。でも、ルーの初めてのお友達をお前みたいなのに選ばず、普通にしてやればよかったわ」
「今さらね。これでもわたくしたちは手を尽くしているわよ?」
「うう、変な企みをしてしまったわ。……エセルバートになんて言おうかしら」
「変に悩まなくても、わたくしを完全なるコレットにすればよろしいんですわよね? 大丈夫ですわ。わたくしは今日を持ってコレットから本来の自分へ戻り次第、もう一度出会いからやり直します」
きっぱりと言い切ると、リディアは目を丸くしてわたくしを凝視してきた。そう言うとは思わなかったのだろう。
生憎、精霊様の目が痛くなってきたところだ。黙ってやってるけど、いつまでやるの?と訴えてくる彼らをもう無視することはできない。
「エセルバートもコレットも納得の上よ」
「いつの間に。……本当にお前は顔とは違って可愛くないですわね」
「お褒めに預かり光栄ですわ、リディア様」
「その喋り方はおやめ」
「ふふ。まったく。妹君のことになると途端に阿呆になりますわね。でも、それをリディアらしいと思って嬉しくなるのは、長年のお友達としては当たり前のことかしら」
サラリと投げかければ、リディアは頬を染めて微笑んだ。まったく。手のかかる幼馴染だこと。
憎き王子との婚約を破棄して、長年リディアを支えてきた幼馴染エセルバートとの縁を結び、その幼馴染と愛してやまない妹君の潤滑油としてコレットは必要とされた。その役目も十二分に果たし、本来のコレットとも友達として仲良くしているならばもう問題はあまり残されていない。
「さて。わたくしはそろそろお暇させていただくわ」
「ええ。ルーテシア、コレットがお帰りになるわよ」
「はぁい! コレット様、また遊びにいらしてくださいね」
「――ええ、是非に」
ねぇ、リディア。
あなたが渇望してやまなかった妹君との生活を、こうして過ごせているのは奇跡ね。
そして、あなたが諦めた想い人もあなたは手に入れることができる。それは精霊様だけではなく、世界そのものがあなたに幸せになってもいいと祝福してくれているからじゃないかしら。
だからね、リディア。もう隠れて泣かなくていいのよ。すべてに絶望していたあなたは、ルーテシア様を手に入れた時点で消えてしまった。
唇が勝手に笑みを象る。
「――兄様」
「あら、コレット。いらしてたの?」
「兄様、その言葉遣いやめてくださいませんか? 同じ顔の人間がそんなお淑やかにしていると気味が悪くて」
リディアの屋敷から戻り自室へと引っ込んでいたわたくしを知ったのだろう。部屋に勝手に入ってきた同じ顔をした少女に、わたくしはニッコリと笑ってみせた。
「酷い言い様だね、私はリディアの頼まれたとおりにしていただけだというのに」
「昔の遊びの延長のようなものでしょう? 入れ替わりなんて」
簡単に種明かしをすると、ルーテシア嬢の前に現れていたコレットは二人いた。私たちは双子として生を受け、今日に至るまでその見た目に差異はなかった。
けれど、私は男。成長期がなかなか来なかった私にも遂にそれは訪れ、頑張って誤魔化してきたが限界を迎えた次第だ。
「でも、よかったですわね、兄様」
妹のコレットが楽しげに口角を上げる。
「一目惚れの君と、これでなんの柵もなくお会いすることが叶うのですもの」
私は笑みを深める。
「本当に、長かったね」
脳裏によぎるのは、あのときの断罪の場。
女狐が悦に入り、民たちが慟哭を上げるあの場所に、救世主は颯爽と現れた。そして、見事救出してみせた。それを目にした私は恐れ、そして不覚にも惹かれてしまったのだ。
あれから三年。愛しい妹君に知らない殿方を婚約者に据えるなんて嫌だとゴネたリディアからの申し出で、私はその座に付いた。ルーテシア嬢は婚約者がいることは知っていても、その顔は知らない。と、思っている。
リディアの要らぬ気遣いと戯れでこんなことが起きたが、もうそれも終幕だ。
「さて」
リディア。親愛なる友よ。
あなたは幸せになった。そして、今も幸せに笑っている。私はそれが本当に喜ばしいよ。
新たにあなたが望んだそれは、ルーテシア嬢にも幸せに包まれてほしいということ。世界を広げてほしいということ。
だから、私は叶えるよ。
何故なら、
「あなたよりもルーテシア嬢を愛してしまったから」
そして、あなたの望みが私の望みにもなったから。
『バッドエンド直行なんか認めない』の三年後のお話。いろいろとぼかされていますが、いかがでしたでしょうか?
悪役令嬢だったリディアとお姉様至上主義のルーテシアを囲むうちのひとりの視点でした。彼の本名はいずれルーテシア視点で語りましょう。
これは続き物でしたが、単体でもお読みいただけるかと思います。ですが、保証しかねますね。
では、このような拙い物語をお読みいただきありがとうございました。