第5話
ダイニングルームを出て、貴之は自分の部屋に戻ると、デスクの椅子に座った。まったくとんだことになった。しかも、浩二はかなり澤田由依子にのぼせあがっている。それを冷静な状態にさせるにはどうしたらいいだろうか。第一、あの由依子にそんな魅力があること自体信じられない気がしていた。
貴之は浩二から、澤田由依子が大村会計事務所に浩二の世話で勤めていることを聞き出していた。ここは彼女に連絡を取ってみよう。澤田由依子に会い、なんとか浩二と別れるように説得をこころみてみようと貴之は考えたのだった。
その日は平日の午後だった。ホテルのロビーラウンジで貴之は澤田由依子と会う約束をした。
由依子の勤務する会計事務所に電話をすると、由依子は意外にもあっさりと貴之の話し合いたいという、申し出にこたえた。
約束の10分前に、貴之はロビーラウンジのテーブルについてコーヒーを注文した。周りには数組の客がいるだけだった。彼の席からはホテルの入り口が見えていた。
やがて一人の紺色のスーツの女が入って来るのがわかった。彼女はロビーラウンジに来ると、あたり見回した。そして貴之のところに近づいて来た。
「貴之さん、お久しぶりですね」
と彼女は言った。
「君が由依子さん」
と貴之は言った。この人物が澤田由依子か。これではわからない。あのやせた娘が、今はさっそうとした大人の女になって微笑んでいる。
「久しぶりだね。最後に会ったのは君が高校生のときだったかな」
と貴之は言った。彼女は座り、コーヒーを注文した。
「私に話したいことってなんでしょうか」
貴之は手元のコップの水を一口飲んで言った。
「実は、北川美沙さんが入院したってこと、君は知っているだろうか」
由依子の顔から微笑みが消えた。
「浩二さんから聞きました」
「そうか。その事情も浩二から聞いただろうか」
由依子の顔が暗く曇った。
「ええ」
と彼女は小さくこたえた。
「由依子さん、世の中にはいろいろな人間がいる。温室で大事に育てられて世の中の汚さを知らない人もいるんだ。そんな人間が突然、冷たく裏切られたらひとたまりもない」
「確かに、美沙さんはそういう人ですね」
「君にはそれがわかるだろう」
「わかるって何をですか」
由依子の目が光った。
「浩二と美沙さんは長くつき合っていた。もうすぐ結婚するつもりだったんだ。ところが浩二は君のために美沙さんを捨てる気になってしまった」
「それで、どうしろとおっしゃるの」
貴之は一呼吸してから言った。
「浩二と別れてほしい」
由依子は口を閉ざした。
「君には気の毒だとは思うが、浩二のことは忘れてもらえないだろうか」
と言うと貴之は、手元の黒いバックから封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「百万入っている。これを君に。あと百万、用意するつもりだ」
由依子はその封筒を見ると、微笑みながら首を振った。
「貴之さんらしいですね。私はお金なんて受け取りません。こんな事では人の心は動かせないわ。貴之さん、私浩二さんと別れません。私も彼が好きです」
「それでは困るんだ」
「困るのは、貴之さんなんでしょう」
貴之は事実困惑した。なるほど由依子は一筋縄ではいかなそうだ。それに浩二に惚れているのか。ますます難しくなってきた。
「君は美沙さんがかわいそうだと思わないのか。君と彼女は違うんだ」
「違うって、彼女が銀行の取締役の娘ってことでしょうか」
貴之は由依子の挑発的な顔を見た。
「そうじゃない。美沙さんは世間を知らない。嵐にさらされたことがない人間なんだ。君はそうではないだろう」
「私のような人間はどうでもいいとおっしゃりたいのですか」
と由依子は言った。
「そういう意味じゃない。君は・・」
貴之は言った。
「君は俺に似ている。人生に甘えていない」
由依子は何を考えているのかわからない表情をして、貴之を見ていた。
「君の気持ちはわかった。今日のところはもういい。また話し合いたい」
二人はコーヒーを飲むと、その場で別れた。貴之の胸では複雑な感情が渦巻いていた。由依子は自分自身を持っている人間だ。それだけに引き下がらせるのは容易なことではない。しかし、それ故由依子という女には魅力があった。単純な理解ではわからない考え方をし、行動しそうだった。