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風の誘惑  作者: 槇野文香(まきのあやか)
12/12

第12話

それからの貴之は、一見何も変わっていないように見えた。相変わらず仕事に専念し、忙しさに追われているかのようだった。だが、貴之は、彼が味わったことのないむなしさにさいなまれていた。それ故、彼は自分を追い込むようにいっそう忙しくするようにしていた。


 その日は、大村会計事務所から人が来る日だった。貴之は朝から落ち着かなかった。約束の時間は11時だった。11時少し前だった。

「社長、大村会計事務所さんがいらっしゃいました」

 と秘書の香取が、隣室の事務所から電話で取り次いできた。

「わかった。通してくれ」

 と貴之は言った。心臓が自然と強く打ち始めていた。

 ドアがノックされ、一人のメガネをかけた痩せた男が入って来た。

「上原さん、初めまして。申し訳ありませんが、今まで担当の澤田は、体調を崩して休んでおりまして、代わりに私が担当となりました」

 とその人物は言った。

「そうですか」

 と貴之は言った。わずかな期待が裏切られ、貴之は潮が引くように、体から力が抜けていくのを感じていた。

 大村会計事務所が帰ったあと、貴之は社長室の応接のソファに座り、ぼんやりと虚空を見ていた。すると、おしゃべり好きな香取が太った体を押し出すようにして、お茶をかたずけに入って来た。

「社長、あのおきれいな方、澤田さんどうしたんですか」

 と香取が興味深げに言った。

「体調を崩したそうだ。これからはあの人が担当だ」

 と貴之はそっけなく言った。

「まあ、それは残念ですね」

 と香取が貴之の顔を伺いながら言うと、貴之が目を向いた。

「何がだ」

「いいえ・・別に」

 と香取は言うと、いそいそと部屋を出た。

 社長はお気の毒にと、香取は内心思った。結局、あの美しい小鳥は社長から飛び去って行ったのだ。そういうことだろうと彼女は確信していた。


 いつしか春が来ていた。桜が咲き、桜が散り、そして新緑の季節を迎えようとしていた。

 時間はいつもと変わらず過ぎていくのに、何かが違うように、貴之には思えた。それは自分自身の内面の変化がそう思わせているということに、貴之自身は気づいていなかった。


 貴之は壁にある時計を見ると、夜の8時だった。デスクの下の黒いバックを手にすると、彼は社長室を出た。

 会社の駐車場に行くと、センサー付きライトが点灯した。彼が自分の車に歩みよったときだった。

「貴之さん」

 と言う声が、彼の背後でした。彼は振り向いた。

「由依子」

 と彼は言った。その場に、由依子が白いスプリングコートを着て立っていた。

「どうしてここに・・」

 と貴之は言った。彼は彼女がいることが、現実とは思えなかった。

「あなたに言いたいことがあるの。聞いてもらえる?」

 と由依子が言った。彼女は灯りの下で、妖精のようにおぼろげに見えた。つかまえないと、また、彼女は逃げてしまうのではないか。彼にはそう思えた。

「何を?」

 と彼はやっと言った。彼女は彼に近づいた。

「今までのこと、私のしたことを許してもらえたら・・私たちやり直せるかしら」

 彼女の顔は涙にぬれ、彼だけを見ていた。

「今さら、こんなこと言っても、あなたに届かないかもしれないけれど・・」

 由依子は感情がこみ上げ、言葉がそれ以上続かなかった。彼女の唇は震えていた。

 彼は自分の内側で、熱い灯がともるのを感じた。

 彼はこの時を長く待っていたのだ。

 それは彼が、彼女を知らなかった以前からだった。

 そこにあることさえ気づかなかった扉は、いつか開かれるのを待っていた。

 彼は自分の真実を知った。

「由依子・・君が俺のしたことを許してくれるのなら・・」

 と彼は言った。

 由依子は涙の中で、ようやく微笑んだ。




                                完




































































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