お支払いは、何になりますか
僕を死なせたという神様は、僕よりずっと深く頭を下げた。
「こちらの手違いじゃ。すまんかった」
謝られたとき、どうすればいいんだったか。
白い空間に、畳が四枚。ちゃぶ台が一つ。向かいに座った老人が頭を下げたままなので、僕もつられて頭を下げた。
「おぬしは下げんでよい」
「すみません」
「謝らんでもよい」
ますます、どう返せばいいのか分からなくなった。
膝に置いた手を見る。爪で引っ掻いた傷が消えていた。袖をまくると、手首にも痣がない。きれいすぎて、他人の腕みたいだった。
「本当は、おぬしが通る前に止められた事故じゃった。わしの対応が遅れた」
帰り道。工事中の建物。頭の上で鳴った金属の音。
そこから先の記憶は、なかった。
「本当に、死んだんですか」
「……そうじゃ」
明日の学校には、行かなくていい。
机の中を確かめなくてもいい。誰かに呼ばれても、聞こえなかったふりをするか、迷わなくていい。
胸の奥から、息が抜けた。
「ありがとうございます」
「そこは怒るところではないか?」
神様は顔を上げ、それから僕の手元を見た。笑おうとしていた口を、ゆっくり閉じる。
「……いや。今のは、わしが決めることではなかったな」
湯呑みを一つ、僕の前へ置いた。持ち上げると、細いひびが見えた。
慌てて戻した。
「割ってません」
「知っとる。ずいぶん前から、そのままじゃ」
神様は自分の湯呑みを回した。そちらには傷一つなかった。
「さて。失われた命は、元通りにはできん。じゃが、別の世界に新しい身体を用意して、おぬしを送り出すことはできる」
「それは、生まれ直すということですか」
「そうじゃ。今と同じ年頃にもできる。記憶も、望むなら残せる」
十四年分の記憶。
消してしまいたいことは、たくさんあった。でも、図書室の窓際に射す午後の光や、動画で見た青い火まで、なくなってしまうのは惜しかった。金属を切る火。星みたいな色の火。画面を止めて、何度も見た。
好きだったものを数えると、少しだけ時間がかかった。
「記憶は、そのままでお願いします」
「分かった」
「支払いは、何になりますか」
神様の手が止まった。
「支払い?」
「身体を用意する分です。お金は、持ってないんですけど」
「いらん」
「働く方ですか」
「それもいらん」
「寿命は」
「返す命から手数料を引いてどうする」
おかしなことを言ったらしい。神様は額を押さえ、僕は口を閉じた。
何もいらないという人は、あとから怒る。あれだけしてやったのに。普通は分かるだろう。そう言われてから条件を聞いても、もう遅い。
「……先に決めておいてもらえる方が、助かります」
神様はしばらく黙っていた。やがて、どこからか一枚の紙を出した。
僕の知らない文字がびっしりと並んでいる。下の方には、丸い印を押す欄が七つ。どれも空欄だった。
神様はその紙を見て、少し顔をしかめ、裏返した。白い面に、三行だけ書く。
「身体。言葉。当座の路銀。渡すのは、この三つ。代金も、頼み事も付けん。勝手に条件を足すこともせん」
見たことのない字のはずなのに、書かれた三行は読めた。
「これで、どうじゃ」
「裏は」
「今回は使わん」
「使ってない欄も、消してもらえますか」
「確認が細かいのう」
怒った声ではなかった。神様が紙の縁を撫でると、裏に透けていた文字も丸印も、すっと消えた。
「ほれ」
紙を受け取って、両面を確かめてから、畳の上に置いた。
「……お願いします」
「うむ」
神様は、ようやくお茶を飲んだ。
「ところで。魔法のある世界でも、構わんか」
僕は顔を上げた。神様の目が、少し細くなる。
「そこには興味があるらしいな」
「危なくないなら」
「火と同じじゃ。使い方による」
空気の中には、魔素というものがあるらしい。息と一緒に取り込んで、魔法の力にする。どうすれば魔法になるのかを聞くと、神様は湯呑みを指した。
「どんなことを起こしたいか、思い描く。最初は小さく、確かめながらじゃ。疲れたらやめる。人や物へ向けて試すでないぞ」
「呪文は?」
「必要になったら、向こうで学ぶとよい」
「神様は、知らないんですか」
「知っとるわ。おぬし、急に前のめりになったのう」
少し恥ずかしくなって、湯呑みを見た。ひびの入った湯呑みを、指でなぞる。
何を司る神様なのかと聞くと、現世すべて、と答えた。
「向こうの世界の決まりも、全部、神様が?」
「……途中で増えた決まりもある」
神様は僕の湯呑みへ目を落とした。
「長く使っていると、誰が付けたのか分からなくなるものもあってな」
ひびのことだろうか。僕はそれ以上、聞かなかった。
身体は、元の自分に近いものになるらしい。服も用意してもらえる。向こうの言葉は、読み書きまでできるそうだ。
それでも、分からないことは残った。
「名前は、変わりますか」
「変えたいか?」
僕は首を振った。
「蓮です。名前は、嫌いじゃないので」
「では、レンのままで」
神様が名前を口にすると、畳の縁が薄く光った。足元の白が透けて、その下に雪が見え始める。
「最後に、場所の希望はあるか」
景色を選んでいいと言われても、何も浮かばなかった。海も山も、知らない人がいることには変わりない。
「内側から鍵のかかる部屋があるところが、いいです」
神様は頷いた。
「そういう部屋を借りられる町へ送ろう」
身体が軽くなった。湯呑みを置いて、畳の上の紙を拾う。立ち上がろうとしたときには、もう足元に畳はなかった。
「レン」
神様が僕を見ていた。
「さっきの礼は、まだ受け取らん。いつか、うまいものでも食べた日に思い出してくれ」
返事の代わりに、冷たい空気を吸い込んだ。
目の前に、石の門があった。雪が降っていた。
胸に手を当てる。心臓が動いている。ポケットには小銭の袋と、三行だけの紙。
ひとまず、請求書は入っていなかった。
*
「飯、食ったか」
門番の最初の質問はそれだった。名前、出身、身元を証明できるもの。その三つなら、答えを考えてあったのに。
「払えます」
「食ったかって聞いたんだが」
「……食べてません」
「なら、坂を下って帰り火亭だ。黄色い灯りの看板。今なら夕飯に間に合う」
それで通してもらえるのかと思ったら、門番は小さな石板を出してきた。
「その前に、これへ手を。入った記録をつける」
石板の縁には、丸い印が七つ並んでいた。どこかで見た形だった。
門番が触れると、一つが薄緑色に光った。僕が触れても、何も起きない。
「もう一度。ゆっくり息を吸って」
やってみた。やはり、光らない。
門番は石板を裏返して、軽く叩いた。
「冷えたか? いや、俺のは通るな」
「お金なら」
「故障の話をしてる。通行料の話はしてない」
門番は石板をしまい、代わりに帳面を開いた。
「子どもや、魔力の弱い人は反応しにくいこともある。名前と年齢を言ってくれ」
レン、十四歳。
その二つだけで、町に入れた。名前は帳面に残ったけれど、石板には残らなかった。どちらが困ることなのかは、まだ分からなかった。
坂の途中には、太い鉄の柱が立っていた。柱の中の石が橙色に光っていて、その周りだけ雪が溶けている。人が一人ずつ掌を当て、息を吐いてから離れていく。
最後の女性は、手を離したあと壁にもたれた。隣にいた男が、その人の荷物を受け取る。
「今週、少し重くないか」
「根の修復が増えたんだろう」
会話の意味は分からなかった。僕も一度、深く息を吸ってみた。冷たいだけだった。
帰り火亭の扉は、両手で押すと開いた。
暖かい空気が頬に当たる。煮込んだ肉の匂い、焼いたパンの匂い。食器の音と、誰かの笑い声。
「いらっしゃい!」
赤茶色の髪を束ねた女性が、台所から出てきた。こちらへ近づいてくる。
僕は一歩下がった。
女性は立ち止まって、自分の手を見た。指先に小麦粉がついている。
「あ、ごめん。粉、つけちゃうところだった」
布で手を拭きながら、半歩だけ離れてくれた。
「泊まりかな?」
「安い部屋を、一晩」
「食事付きで銅貨八枚。部屋だけなら六枚」
「鍵は」
「内側からかかるよ。部屋を見てから決める?」
僕は頷いた。
階段は、一段ごとに違う音で鳴った。案内されたのは、二階の端の小さな部屋だった。寝台と机と椅子があって、窓の下には薪小屋が見える。扉の内側には鉄の鍵と横木がついていた。横木を持ち上げてみると、見た目よりずっと重かった。
「ここで、お願いします。食事付きで」
「うん。私はリゼ。この宿の主人です」
「レンです」
「よろしく、レンくん」
彼女は敷居の外に立ったまま、部屋の灯りへ手を伸ばした。
「《灯火》」
壁の硝子皿に、小さな炎が灯った。思わず、近づいた。薪も、芯もない。
「魔法、珍しい?」
「はい。……それ、丸くできますか」
「丸く? 火球みたいに?」
「同じくらい小さくて、丸いものです」
リゼさんは炎を見て、首をかしげた。
「灯火は、この形だから。丸く飛ばすなら火球だけど、部屋では危ないね」
言われたことは分かった。でも、なぜそうなるのかが分からない。
「ほかに、違う形の火は」
「あるかもしれないけど、私はその術の名前を知らないな」
神様は、名前のことなんて何も言わなかった。
僕が黙ると、リゼさんは膝を少し曲げて、目の高さを合わせてくれた。
「もっと明るい方がいい?」
「これで、大丈夫です」
「分かった。じゃあ、ご飯ができたら呼ぶね」
立ち上がるとき、彼女は胸元に手を当てた。一度だけ、深く息をする。
「……ごめんね。今日は灯りが長持ちしないかも。消えたら、蝋燭を持ってくるから」
「僕のせいですか」
「違う違う。今日の分担が、ちょっと多かっただけ」
坂の途中の女性も、同じような息をしていた。
分担。それも、あとで払うものなのだろうか。
「その分も、八枚に?」
「含まれてます」
「本当に、あとから」
「増えません」
リゼさんは、そこで笑った。
「しっかりしてるね。私も仕入れのとき、そのくらい聞けばよかった」
扉が閉まった。僕は鍵をかけ、かかったことを確かめてから手を離した。
硝子皿の火が揺れている。違う形にするには、その魔法の名前を知っていなければいけないらしい。でも、神様は思い描けばいいと言った。
窓を開けた。冷たい風が頬を撫でる。裏庭の向こうには家々の屋根が続いていて、その上を雪雲が覆っていた。
掌を、空へ向ける。
小さな火でいい。動画で見た、青い火。あれほど熱くなくていい。ただ、暗いところに一つ灯ってくれれば。
息を吸うと、胸の奥へ、冷たさとは違う何かが流れ込んできた。
指の先に、青い点が生まれた。
「……できた」
声にした途端、点が震えた。細く尾を引いて、窓から離れていく。雪にぶつかって消えるかと思ったのに、そのまま屋根を越えた。
僕は、目で追った。もっと遠くでも、見えるだろうか。
そう思った。
青い点が、空でほどけた。
一本の光が弧を描く。その先がさらに枝分かれして、雪雲の下を走っていく。糸のようだったものが帯になり、町の上でうねった。
屋根の雪が、青く染まった。
窓硝子に、幾筋もの光が映る。身を乗り出しても、もう端まで見渡せなかった。
ああ。これを、知っている。
図鑑に挟まっていた、一枚の写真。暗い空に垂れ下がる光の幕。その下に立つ、豆粒ほどの人影。
一度でいいから、本物を見たかった。
夜空の帯に、緑が差した。青から緑へ、緑から薄紫へ。色の境目がゆっくり動く。光の幕はたわみ、重なり、広がっていった。空を見ているのに、海の底にいるみたいだった。
降り続ける雪が、光を拾った。一つずつ違う色に輝きながら、町へ落ちていく。掌に舞い降りたひとひらは、溶ける直前まで青かった。
「きれいだ」
自分の声だった。誰にも聞かれていないのに、口に出していた。
階下で椅子を引く音がした。通りの向こうで誰かが声を上げる。次々と窓が開き、屋根の下に人の顔が並んだ。
そこで僕は、自分の掌を見た。
出したかったのは、小さな火だった。こんなものを作るつもりはなかった。
指を握り込む。空の光は消えない。
まずい。消し方を、聞いていない。
息を止めると、光の幕が大きく揺れた。それでも消えず、雲の下を滑り続ける。
誰かに当たったら。落ちてきたら。家が、燃えたら。
胸が締めつけられた。
思い描く。神様は、そう言った。
目を閉じかけて、やめた。見えないところで何かが起きる方が怖かった。
あの光を、小さく。大きな幕を畳むように、端から少しずつ。
遠い方の光が折れた。帯が重なって、細くなる。町の上から青が引き、屋根がいつもの白へ戻っていく。
最後に一筋だけ残った光が、ふっと千切れた。細かな粒になって、雪の間で消えていった。
空は、元の暗さに戻った。
膝から力が抜けた。窓枠を掴んで、どうにか立っていた。胸が速く上下している。もう一度やれと言われても、今はあの光を思い浮かべることすらできそうになかった。
外を確かめる。屋根は燃えていない。誰も倒れていない。通りから聞こえるのは悲鳴ではなく、興奮した話し声だった。
扉が、二度叩かれた。
「レンくん。起きてる?」
肩が跳ねた。
「はい」
「今の空、見た?」
答えが出てこなかった。
ばれた。宿に着いたばかりなのに。何も壊さないようにしようと思っていたのに。
僕は窓を閉めて、鍵を開けた。
リゼさんが立っていた。頬が少し赤い。外套も着ずに外へ出ていたのか、髪に雪がついている。
「すごかったね。あんなの、初めて見た」
笑っていた。
「……怖く、なかったですか」
「最初はびっくりした。でも、途中から見とれちゃった。お客さんたちも、みんな外に出てきてね」
そこまで話して、彼女は僕の顔を覗き込んだ。
「レンくん? 大丈夫? 顔が白いよ」
掌を、背中へ隠した。
「ちょっと、驚いて」
「そっか。急だったものね。窓、開けてた? 身体が冷えちゃったかな」
リゼさんは部屋の中を見回した。壁の硝子皿では、灯火が細くなっている。
「ああ、こっちも消えそう。蝋燭、持ってくるね」
「……ありがとうございます」
「ご飯もできてるよ。温かいうちに、おいで」
彼女が階段へ向かう。
僕は、自分の掌を見下ろした。あんなに広い空を光らせたのに、指先には何も残っていない。
リゼさんは、小さな灯りを保つのも苦しそうだった。
僕と、あの人は。何が違うんだろう。
「レンくん」
階段の手前で、リゼさんが振り向いた。
「また見られるといいね、あの空」
僕は、返事ができなかった。
お読みいただきありがとうございます。
人を信じられないレンが、この世界で何を見つけていくのか。見守っていただけたら嬉しいです。




