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転生悪役令嬢、断罪を華麗に回避して十年後──

作者: 宗像 凪
掲載日:2026/01/26

「私は貴女との婚約を破棄する!」


 王城の大広間に、王太子ルシウスの傲慢な声が響き渡った。


 その言葉を聞いた瞬間、私クラリッサ・フォン・ローゼンフェルトは内心で小躍りした。もちろん表面上は、ショックに打ちひしがれ、蒼白な顔で立ち尽くす演技を完璧にこなしながら。我ながら名女優よね。


(来た来た、ついに来たわよ!)


 私には前世で日本人として生きていた記憶がある。

 ある日突然トラックに轢かれるという、自分でもありきたりだと思う死に方を経て、気がつけばこの世界の公爵令嬢として生まれ変わっていたのである。


 最初の数年は状況を理解するのに精一杯だったが、五歳の頃、王太子ルシウスとの婚約が発表された時にすべてを悟った。


 ──ここはきっと乙女ゲームの世界だ。そして私は、悲惨な末路をたどる悪役令嬢なんだわ!


 前世で読み漁った無数のウェブ小説が、私の頭の中で警鐘を鳴らしていた。

 ヒロインの登場、婚約破棄、断罪イベント、そして悪役令嬢の末路──死刑か娼館、あるいは良くて修道院送り。そんな運命を回避するため、私は十年という歳月をかけて準備を重ねてきた。


 王家に次ぐ権力を持つローゼンフェルト公爵家の令嬢として、あらゆる貴族と良好な関係を築いた。商人ギルドには便宜を図り、教会には多額の寄付を行った。

 父を通じて軍の将校たちとも交流を深め、王立学院では優秀な成績を収めて教師陣の信頼をも勝ち取った。


 そして何より、王太子ルシウスの無能さを、彼が決定的な愚行に出る前から周囲に気付かせることに成功していたのだ。


「ルシウス様、一体何をおっしゃっているのですか。私たちの婚約は両家、そして国の合意のもとに結ばれたもので──」


 私は震える声で言った。もちろんこれも演技だけれど。そして、その悲劇のヒロイン然とした私の態度がルシウスをさらに苛立たせる。


「黙れ!」


 ルシウスが叫ぶ。


「貴女は私の真実の愛を理解しない。リーゼロッテこそが、この国の未来の王妃に相応しい女性なのだ!」


 彼の隣に寄り添う、リーゼロッテ・フォン・ハーゼン。

 男爵家の娘である彼女は、学院に入学して以来ルシウスにまとわりつき、私を敵視し続けてきた典型的な「ヒロイン」だ。


 容姿は確かに可憐で、庇護欲をそそる。だが、教養は浅く、礼儀作法も未熟。何より、彼女には貴族としての責任感が決定的に欠けていた。


「そのような、庶民に毛が生えた程度の娘を王妃になさると?」


 思わず本音が漏れた。まあいい、もう猫を被る必要はないのだから。


「ルシウス様、貴方は王位を継ぐべき方です。その立場の重さを理解していらっしゃいますか。王妃とは単なる愛玩物ではありません。外交儀礼を執り行い、宮廷を統率し、有事には摂政として国を支える覚悟が必要なのです」


「黙れと言った! 貴女のような冷血な女は──」

「その程度でございますか」


 逆上する彼を冷ややかに切り捨て、私は視線を動かした。


「では、国王陛下。このような愚かな息子に、本当に王位を継承させるおつもりですか」


 玉座に座していた国王ハインリヒ三世が、重い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。


「ルシウス」


 低く、しかし権威に満ちた声が、静まり返った大広間に染み渡る。


「余は貴様に何度も忠告した。公爵家との婚約がいかに重要か。ローゼンフェルト家は軍と財政の両面でこの国を支えている。それを理解せず、一時の感情に流されるような者に、王位は継がせられぬ」


「しかし父上!」


 食い下がるルシウス。だが、国王は容赦しなかった。


「黙れ」


 その一喝は、王の威厳を纏って大広間を圧した。


「今この時をもって、ルシウス・フォン・エルデンハイムの王位継承権を剥奪する。新たな王太子は第二王子エルヴィンとする」


 ざわめきが、爆発するように広がった。

 そして私は、力強くガッツポーズをした。もちろん脳内だけで。


(やったわ! まさに私が想定した通りの瞬間!)


 王の鋭い視線が、私に向けられた。


「クラリッサ・フォン・ローゼンフェルト公爵令嬢。貴女の十年に渡る献身と働きを、余は見ていた。新たな王太子の妃として、この国を支えてくれることを期待する」


 私は優雅に膝を折り、淑女としての一礼を捧げた。


「陛下のご期待に添えるよう、精進いたします」


 こうして、悪役令嬢転生ものの物語は、完璧で美しいエンディングを迎えた。



 * * *



 王太子妃としての最初の大仕事。それは、失脚したルシウスとリーゼロッテの処遇という、非常に泥臭くも重要な政治判断だった。


「殺してしまえばいい」


 会議の席で、陸軍元帥が事も無げに言い放った。


「謀反の芽は早めに摘むべきです。特にルシウス殿下は、今でも一部の血気盛んな若手貴族に人気がある。生かしておけば、将来の火種になりかねません」

「しかし殿下は王の実子です」


 そう反対の声を上げたのは財務卿だ。


「処刑となれば、国内外に与える外聞が悪すぎます」

「ならば、事故に見せかければよいだけのこと」

「それこそ、後々まで陰謀論という禍根を残しますぞ」


 議論が平行線を辿り、重苦しい空気が場を支配する。そんな中、私は静かに、しかし毅然と手を上げた。


「お話の途中失礼します。私から、一つ提案がございます」


 居並ぶ重鎮たちの視線が、一斉に私へと集まる。


「ルシウス様は、国境の要塞都市アイゼンヴァルトへ送るのがよろしいかと。名目は『国境警備の責任者』。ですが実態は、厳重な監視付きの追放です。万一、隣国との紛争が起きれば、王族として最前線で戦っていただく……これならば、軍部の方々も納得いただけるのでは?」


 私の言葉に、陸軍元帥が満足そうに深く頷いた。


「リーゼロッテ嬢については、修道院への入信を勧めます。彼女の家族には、口止め料も含めた相応の補償を。政治から完全に切り離し、神に仕える身として国の安寧を祈っていただきます。これで世間体も保たれるでしょう」

「なるほど」


 財務卿が感心したように声を漏らす。


「殺さず、しかし二度と表舞台には立てない場所へ封じ込める。……見事な采配ですな、クラリッサ様」


 会議が終わり、自室に戻ってようやく息をつく。

 メイドが手際よく紅茶を淹れてくれる間、私は窓の外に広がる王都の景色を見つめていた。


(完璧だわ。完璧すぎる!)


 悪役令嬢を断罪しようとした王太子は、その座を追われ北の最果てへ。ヒロインは俗世から切り離されて戒律の厳しい修道院へ。

 そして私は新しい王太子──温和で賢明なエルヴィンの婚約者として、幸せな未来を約束されている。


(これこそが、悪役令嬢による『ざまあモノ』の正しいハッピーエンドよね!)


 前世で読み漁った数多の小説。虐げられた悪役令嬢が逆転勝利を収めるカタルシス。私は今、まさにその主役として物語を完結させたのだ。

 鏡に映る自分の姿──陽光を弾く金色の髪に、意志の強さを秘めた青い瞳。この完璧な容姿すらも、勝利を祝っているように見えた。


 翌月、エルヴィン王太子との正式な婚約式が、盛大に執り行われた。


 エルヴィンは、傲慢だった兄とは対照的に、非常に落ち着いた物腰の青年だ。読書を好み、政治に真摯に向き合うその姿勢は、まさに理想的な次期君主の器といえた。


「クラリッサ」


 式の後、彼は優しく私の手を取った。


「君の知恵と力を借りて、この国をより良いものにしていきたいんだ。一緒に、民が心から幸せに暮らせる国を作ろう」

「もちろんです、エルヴィン様。喜んでお力添えいたしますわ」


 私は満面の笑みで応えた。


(そうよ。私には前世の知識がある。この中世然とした世界に、現代の概念を取り入れれば、もっと進歩させることができるはずだわ!)


 この時の私は、自分の歩む先に一点の曇りもないと、そう信じて疑わなかったのである。



 * * *



 それから七年の歳月が流れた。


 あの輝かしい断罪劇から三年後、国王ハインリヒ三世が崩御。エルヴィンが即位し、私は王妃クラリッサとなった。

 間もなく、私たちの間には待望の王子が誕生した。アレクサンデルと名付けられた我が子は、健康で利発。誰が見ても非の打ち所がない、愛らしい男児だった。


 すべては、どこまでも順調に見えた。


 エルヴィンは実に優れた王だった。貴族たちとの複雑な調整に長け、民の小さな声にも真摯に耳を傾け、慎重かつ確実に改革を進めていく。

 私もまた王妃として、慈善事業や外交儀礼に心血を注いだ。前世の知識をフル活用し、識字率向上のための学校設立や、衛生環境改善のための上下水道整備などを次々と提案・実行していった。


 まさに理想の国作り。

 だが、そんな幸福はある朝、唐突に崩れ去った。


「陛下が倒れられた!」


 静寂を切り裂く侍従の叫び声で、私は跳ねるように目を覚ました。

 なりふり構わず駆けつけると、エルヴィンは執務室の床に崩れ落ちていた。宮廷医師たちが慌ただしく処置を施しているが、その表情は一様に絶望に染まっている。


「心臓の病です」


 老齢の医師長が、沈痛な面持ちで告げた。


「おそらく、ご幼少の頃からの持病が悪化したものかと。残念ながら、我々にできることは、もう……」


 三日後、エルヴィンは息を引き取った。

 享年二十八歳。この国を担うべき若き王の、あまりにも早すぎる死だった。


 葬儀の間、私は溢れる涙を止めることができなかった。これは演技でも何でもない、心の底からの、本当の悲しみだった。

 エルヴィンは良き夫であり、無二のパートナーであり、何より良き王だった。彼と歩んだ日々は、私の人生で最も幸せな時間だったのだ。


 だが、涙が乾くのを待ってくれるほど、現実は甘くない。

 次に待ち受けていたのは、過酷な政治の表舞台だった。


 王位を継いだのは、わずか四歳のアレクサンデル。

 そして私は王太后として、この国の実権を握る「摂政」の座につくことになった。



 * * *



 摂政として最初の一年は、驚くほど順調だった。


 亡きエルヴィンが敷いた路線を丁寧に維持し、急進的な変革は避ける。貴族たちもまた、若き未亡人となった王太后への同情と敬意から、表向きは協力的だった。

 だが、穏やかな表面とは裏腹に、私の中には焦燥の炎がくすぶっていた。


(この国はあまりにも遅れているわ)


 王や貴族の胸三寸で全てが決まるなんて、許されるものではない。

 前世の日本のような、進歩的な社会を一日も早く築かなければならない。


(それが、私がこの世界に転生した意味なのね。きっと!)


 二年目、私はついに本格的な改革へと舵を切った。

 まず着手したのは、貴族の特権を制限する法案の提出だ。裁判における法の平等の徹底、税の公平な徴収、そして平民への教育機会の拡大。


 前世の感覚では、当然の「国民の権利と義務」だ。しかし、代々の特権を呼吸するように享受してきた貴族議会は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。


「これは我々特権階級への宣戦布告だ!」


 一人の伯爵が、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。


「これは我々への宣戦布告だ! 何百年も続いてきた秩序を、王太后陛下一人の気まぐれで壊すおつもりか!」


 若き伯爵が椅子を蹴らんばかりに立ち上がって叫ぶ。対照的に、上座に座る老齢の公爵は、鼻で笑ってこう切り捨てた。


「民など、強い王に従順に従っていればそれでいい。余計な知恵をつけ、『権利』などという不遜なものを与えればつけ上がるだけだ。それが分からない貴女ではないでしょう?」


「それは違います! 民こそが国の基盤なのです。彼らが健康で幸福を享受してこそ、国の繁栄は永続するものなのです!」


 私が必死に論理を尽くしても、返ってくるのは冷ややかな蔑みだけだった。


「貴女は、王妃としては確かに素晴らしかった。だが政治は別だ。女特有の中身のない感傷で、この複雑な国を動かされては困る」


 結局、私の改革案は彼らの執拗な抵抗に遭い、見る影もなく骨抜きにされてしまった。


 それでも、私は諦めきれなかった。

 議会が動かないのならと、今度は民衆に直接訴えかけることにしたのだ。都市の広場で自ら演説を行い、改革がいかに彼らの生活を豊かにするかを説いて回った。

 最初は、集まった民衆も珍しいものを見る目で、私の言葉に耳を傾けていた。


 しかし、ある日のこと。


「王太后様!」


 一人の薄汚れた身なりの男が、野太い声で叫んだ。


「貴族の特権を削ったところで、俺たちに何の得があるんです? 俺たちが欲しいのは目に見えない『権利』じゃない、今すぐ食えるパンだ! 仕事だ! 明日の安全だ!」

「そうだ、そうだ!」


 堰を切ったように、周囲から賛同の声が上がる。


「貴族様と揉めて、そのしわ寄せで税が上がったらどうしてくれる!」

「隣国との関係だって怪しいもんじゃないか! 国境が不安定だって噂だぞ!」

「先王陛下の頃は、もっと強い政治だった! こんな不安な思いはしなかった!」


 私は、喉の奥が引き攣るような衝撃に言葉を失った。


 ……民衆は、平等や権利など求めていなかったのだ。

 彼らが切望していたのは、気高い理想を掲げる指導者ではなく、自分たちを力で守ってくれる「強固な権力」そのものだった。


 改革は、砂の城が崩れるように次々と頓挫していった。

 貴族は非協力的になり、守ろうとしたはずの民衆からも背を向けられる。かつて私を支持していた軍の将校たちですら、その眼差しには不信の色が混じり始めていた。


「政情が極めて不安定です」


 ある日、陸軍元帥が重い足取りで私に直言した。


「王太后陛下、貴女の理想は確かに立派だ。だが、理想だけで国は守れない。今、この国に必要なのは夢を語る改革者ではない。揺るぎない力を持つ、強い指導者なのです」

「でも……!」


 反論しようとした唇が、情けなく震える。言葉が続かなかった。


 執務室に戻り、独りになると、私は耐えきれず頭を抱えた。


(なんで理解してもらえないの? 私は、正しいことをしているはずなのに!)


 前世の知識は、この過酷な異世界では毒にこそなれ、薬にはならなかった。

 民主主義、平等、人権。それらの美しき概念は、元の世界で何百年という歳月と、気が遠くなるほどの犠牲の上にようやく築かれた果実だったのだ。


 この世界には、その果実を受け入れるための土壌が、まだ一欠片も存在していなかった。

 そして私は、その残酷なまでの前提を、何一つ理解できていなかったのである。



 * * *



 摂政として三年目の春。

 北の国境から、すべてを絶望に染める緊急の報せが届いた。


「隣国ファルケンシュタインが、国境を越えて侵攻!」


 使者は血相を変え、震える声で続けた。


「彼らは宣言しております……『不当に王位を剥奪されたルシウス殿下を、正統な王として擁立する』と!」


 その瞬間、私の全身から血の気が引いた。

 ルシウス。あの愚かな元王太子が、今でも国境の要塞都市アイゼンヴァルトにいる。「物語の完璧なエンディング」に相応しいと、私があの場所に追放したのだ。


「すぐに軍を全動員いたします」


 陸軍元帥が重々しく口を開く。


「しかし、正直に申し上げて苦戦は必至。ファルケンシュタインは近年、着々と軍備を増強しておりました。対して我が国は、この数年の政情不安により、軍の士気も統制も著しく乱れているのが現状です」

「……私の、責任ね」


 掠れるような声で呟いた私に、元帥は何も答えなかった。それが何よりも残酷な肯定だった。


 戦局は、目を覆いたくなるほど我が国に不利な状況で進んでいった。

 ファルケンシュタイン軍は圧倒的な兵力をもって侵略し、次々と主要都市を蹂躙していく。そして、最も恐れていた事態が現実のものとなった。


 ルシウスが、正式にファルケンシュタイン側に寝返ったのだ。


「我こそが、この国の正統な王位継承者である!」


 占領地で、ルシウスは高らかに宣言した。


「父王に不当に継承権を奪われ、辺境に追放された悲劇の王子……それが私だ! だが、ファルケンシュタイン王国の義によって私は戻ってきた! 簒奪者の息子を排除し、真の王として即位することをここに誓おう!」


 その言葉に呼応するように、国内の一部貴族たちが続々とルシウス支持を表明し始めた。

 特に、私の改革に強く反発していた保守派の貴族たちが、牙を剥いたのだ。


「やはり、ルシウス殿下こそが王に相応しい」

「王太后の無謀な改革に振り回されるより、伝統を重んじる強い王が必要だ」


 裏切り、寝返り、瓦解──。

 破滅への行進は止まらず、六ヶ月後、ついに首都は完全に包囲された。


 私は、幼いアレクサンデルをぎゅっと抱きしめ、王城の奥深く、静まり返った一室にいた。


「母上……」


 まだ七歳を迎えたばかりの息子が、不安に怯える瞳で私を見上げた。


「僕たちは、これからどうなるのですか?」


 私は、その問いに答えることができなかった。

 ただ、震える小さな肩を抱き寄せることしかできない。


 翌日、あんなに堅牢だったはずの王城の門が、内側から開かれた。



 * * *



 玉座の間に、私は縄で繋がれた無様な姿で引き立てられた。


 そこには、かつて私が追い落とした男、ルシウスが座っていた。

 十年ぶりに見る彼は、以前の傲慢なだけの少年ではない。国境での過酷な歳月が彼を老けさせ、その瞳には冷徹で鋭い光が宿っていた。


 その隣には、ファルケンシュタイン王国の第一王女、イルゼ・フォン・ファルケンシュタインが凛として立っている。


「クラリッサ・フォン・ローゼンフェルト」


 ルシウスが低く、冷たい声を発した。


「いや、正確には、貴女はもうその高貴な名を名乗る資格などない」

「……何を言っているの」

「徹底的な調査の結果が出たのだ」


 私の問いには答えず、隣のイルゼ王女が冷淡に書類を読み上げ始めた。


「ルシウス・フォン・エルデンハイム殿下とクラリッサ・フォン・ローゼンフェルトの婚約について。十年前、国王陛下の勅命により継承権剥奪と共に婚約破棄が宣言されたが──」


 イルゼ王女はそこで一呼吸置き、残酷な宣告を続けた。


「正式な婚約解消の手続きが、何一つ完了していないことが判明した」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


(まさか……そんなはずは!)


「婚約とは、単なる口約束ではない」


 私の動揺を無視し、イルゼ王女は事務的に説明を重ねる。


「この国の法において、婚約は両家の合意文書と教会の承認印をもって成立する。そしてその解消にも、同様の手続きが必要不可欠だ。両家の合意書、教会への届け出、そして大司教の承認。これらがすべて揃って初めて、法的に婚約は『白紙』となる」


「そんな! 国王陛下の勅命があったのよ!?」

「勅命はあくまで婚約破棄の『意思表示』に過ぎない」


 イルゼ王女の言葉は容赦なく私を突き刺した。


「実際の法的手続きは別だ。調査の結果、ローゼンフェルト家とエルデンハイム家の間で解消合意書は作成されておらず、教会への正式な届け出もない。当然、大司教の承認印も存在しない。つまり──法的には、貴女とルシウス殿下の婚約は現在進行形で有効なまま残っているのだ」


 私は絶句した。

 ……思い出した。あの時、私はあまりの勝利の美酒に酔いしれていたのだ。


 ルシウスの失脚、そしてエルヴィンとの新しい婚約。すべてが自分の描いたシナリオ通りに進んでいると思い込み、事務的な、あまりに細かい法的手続きのことなど、一顧だにしていなかった。そして国王ハインリヒ三世も、息子の廃嫡という事態を前に、そこまで思いを巡らすことができなかったのだろう。


「貴女はこの国、いや、この大陸の国々の根幹を理解していなかったようだな」


 イルゼ王女が、憐れむような目を向ける。


「この大陸の国々の婚姻法は多少の違いはあれども、すべて厳格な教会法に基づいている。安易な離反を防ぐため、何重もの手続きが定められているのだ。これは数百年前、貴族が気まぐれに婚約を反故にすることを防ぐために制定された、絶対の盾である」


「そういえば……前世の中世ヨーロッパでも……」


 私は、意識が遠のく中で思わず呟いた。

 婚姻の無効を主張するために、形式的な不備が政治的に利用される。確か、イギリスのヘンリー八世だって気に入らない王妃と離婚するため、そんな理屈を──。


「何をブツブツと言っている?」


 ルシウスが訝しげに私を睨みつける。私は慌てて口をつぐんだ。


(まさか、こんな古臭い法律の解釈が、私の破滅を招くなんて……!)


 前世で読んだウェブ小説の世界では、婚約破棄なんて王太子の一言で、その瞬間に終わっていた。

 だが、ここは生身の人間が生きる現実の世界だった。

 強固な法律があり、逃れられぬ手続きがあり、そして──それを執念深く悪用する者がいたのだ。


「結論を言おう」


 イルゼ王女が最後の一撃を放つ。


「貴女とルシウス殿下の婚約は今なお法的に有効。したがって、貴女と第二王子エルヴィンとの婚姻は『既に婚約者がいる状態での重婚』であり、教会法上、絶対的に無効となる」

「そんな……そんな屁理屈が通るはずが!」

「屁理屈ではない。法だ」


 ルシウスが、ゆっくりと玉座から立ち上がった。


「貴女が散々叫んでいた『法の下の平等』とやらに従えば、当然の帰結だろう?」


 その声は、どろりとした皮肉に満ちていた。


「エルヴィンとの婚姻が無効ならば、その間に生まれたアレクサンデルはただの庶子だ。王位継承権など塵ほども存在しない。よって、この国の正統な王は、この私だ」


 私は糸が切れた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。

 築き上げてきたすべてが、音を立てて崩壊していく。


 アレクサンデルは、叫ぶ暇もなく別室へと連れ去られた。たぶん、殺されはしないだろう。皮肉なことに、「庶子」という身の上が、彼の命を守ってくれる。だが、一生を修道院か、幽閉先で過ごすことになる。

 そして、私は──。


「クラリッサ・フォン・ローゼンフェルト。貴女を反逆罪で裁く」


 ルシウスが冷酷に宣告を下した。


「終身幽閉。場所は王都の北、ヴォルフスブルク城とする」


 ヴォルフスブルク城。

 かつては街道を守る要衝だったが、今や役割を終え、歴史の遺物となった王家の古城。


 兵士たちに乱暴に引き立てられる道すがら、私は必死に、最後にもう一度だけアレクサンデルの姿を探した。

 だが、愛する息子の姿は、どこにも見当たらなかった。



 * * *



 ヴォルフスブルク城は、一面の小麦畑が広がる緩やかな丘の上に、ひっそりと建っていた。


 寒々しい灰色の石壁、風化した塔、汚れで曇った窓ガラス。かつては国境を守る堅固な要塞だったのだろうが、今は時の流れに取り残され、静かに朽ち果てるのを待つだけの遺構だ。


 私に与えられたのは、塔の最上階にある一室だった。

 床には冷気を防ぐには不十分な薄い敷物、壁には外の世界を切り取ったような小さな窓が一つ。備え付けられているのは、簡素な寝台と小さな机、座面が固く座り心地の悪い椅子が一脚あるだけ。

 一日に二度、質素な食事が運ばれてくるが、無口な看守が私と言葉を交わすことは一度としてなかった。


 幽閉されてから、三ヶ月が過ぎた。

 秋が深まり、鋭い北風が窓の隙間から容赦なく吹き込んでくる。私は薄い毛布にくるまりながら、一日の大半を窓の外を眺めて過ごすようになった。

 遠くにかすむ山々、時折空を横切る鳥たち。それが、今の私に残された唯一の「自由」だった。


 ある夜、錆びついた扉が音もなく開いた。

 灯りを持った人影が、静かに部屋へと入り込んでくる。


「ルシウス……?」


 驚いて見上げると、そこにいたのは現国王──元王太子のルシウスだった。深いフードで顔を隠し、護衛も連れずに独りで。


「久しぶりだな、クラリッサ」


 彼は手にした灯りを机に置くと、部屋で唯一の椅子に力なく腰を下ろした。


「なぜ、ここへ……?」

「誰にも言うな。私がここへ来たことは、絶対の秘密だ」


 ルシウスの声には、隠しようのない疲労が滲んでいた。


「なぜ、わざわざそんな危険を冒してまで」

「……話がしたかったのだ。貴女と」


 彼は深く、重い溜息をついた。


「私は王になった。だが、それは名ばかりの飾りに過ぎない。実権はすべてファルケンシュタインが握っている。イルゼ王女を妻に迎えたが、真の支配者は彼女の父、ファルケンシュタイン王だ。私は自国を売った裏切り者として、一生彼らの傀儡として生きるしかない」

「自業自得でしょう」


 私は突き放すように、冷たく言い放った。


「貴方が、安易に外国の力を借りる道を選んだのだから」

「……分かっている。そんなことは百も承知だ」


 ルシウスは弱々しく頭を抱えた。


「だが、私に他に何ができたというのだ? 国境に追放され、惨めに朽ち果てるのを待つだけの身で……ファルケンシュタインが手を差し伸べた時、私はその毒が塗られた手を取るしかなかった」


 部屋を、重苦しい沈黙が支配する。


「クラリッサ」


 やがて、ルシウスが沈痛な面持ちで顔を上げた。


「一つだけ聞かせてくれ。一体、何が間違っていたんだ? 私が愚かだったのは認める。だが、貴女はあの日、あれほど賢明に立ち回っていたではないか。それなのに、なぜこんな結末になった?」


 私は、すぐには答えられなかった。

 何が、間違っていたのか。


 私はあの日、悪役令嬢の断罪イベントを完璧に回避し、「正しい」ハッピーエンドを掴み取ったはずだった。

 だが、その後の私の選択は、本当に「正解」だったのだろうか?


 ルシウスを国境へ追放し、火種を残したこと。

 前世の理想を振りかざし、民主的な改革を強引に推し進めようとしたこと。

 伝統を重んじる貴族や、日々の糧を求める民衆の「心」を掴めなかったこと。

 そして何より──。


「私は……」


 乾いた喉から、ようやく声を絞り出した。


「この世界を、前世で読んだ『物語』だと思い込んでいた。悪役令嬢が華麗に勝利する、そんな都合の良い物語だと」

「前世……?」

「貴方には、一生理解できないでしょうね」


 私は自嘲気味に口角を上げた。


「私は、ゲームの攻略法さえ知っていれば勝てると思い込んでいた。でも、ここは書き割りの中じゃない。生きた人間がひしめき合い、複雑な利害が絡み合い、長い歴史が横たわる──残酷なまでに『現実』の世界だった」

「それに気付くのが、お互いに遅すぎたな」


 ルシウスがポツリと呟いた。


「私もだ。リーゼロッテへの甘い恋物語に盲目になり、王太子としての重責を忘れた。気付いた時には、守るべき誇りも国も、すべてを失っていた」


 かつての主役と悪役。二人の敗北者が、薄暗い塔の一室で静かに向き合っていた。


「これから、どうなさるのです?」


 問いかける私に、ルシウスは力なく首を振った。


「どうにもできまい。私は傀儡王として、死ぬまでファルケンシュタインの命令に従うだけだ。そして貴女もおそらく生涯、この城を出ることは叶わないだろう」

「アレクサンデルは……あの子はどうなりましたか?」

「修道院に送られたよ。命だけは取らないと、イルゼが約束した。それが、今の私にできた精一杯の救いだ」


 ルシウスが立ち上がった。


「もう行く。またここへ来られるか、次はいつになるかも分からない」

「待って」


 私は、去りゆく背中を呼び止めた。


「もし……もしも、もう一度だけやり直せるなら」

「やり直せたら、か」


 ルシウスは扉の間際で立ち止まり、肩越しに振り返った。


「私は、リーゼロッテではなく貴女を選んだだろう。一時的な熱病のような恋ではなく、理性と義務を選んでいたはずだ」

「私は……」


 私は、消え入りそうな声で続けた。


「物語の知識になど頼らず、この世界そのものを直視したでしょう。人々の心を、その痛みを、本当の意味で理解しようと努めたはずです。……そして、法の名の下に隠された、見えない陰謀にこそ目を向けるべきでした」

「……だが、やり直しは利かない」

「ええ、そうですね」


 ルシウスが去り、再び部屋には刺すような孤独だけが残った。

 私は窓辺に立ち、墨色の夜空を見上げた。雲の切れ間から、冷ややかな月が顔を覗かせている。


(私が求めていたハッピーエンドは、こんな結末じゃなかったはずなのに)


 悪役令嬢が勝利する物語。

 けれど現実には、本当の意味での勝者も敗者も存在しなかった。

 あるのは、積み重なった誤った選択と、その報いとしての重い代償だけ。


 遠くで、寂しげな犬の遠吠えが響いた。

 私は、ゆっくりと瞼を閉じた。


(転生者の特権も、物語の知識も、現実の前では無力だったわ)


 私は、ただの一人の人間としてこの世界に立ち、そして──無様に失敗したのだ。


 冷たい風が、頬を撫でていく。

 それが、私に突きつけられた、たった一つの真実だった。



 * * *



 首都から北へ二日の距離にある、聖ミカエラ修道院。石造りの質素な建物が、深い森の中に静かに佇んでいた。

 礼拝堂では、朝の祈りがちょうど終わったところだった。


「シスター・リーゼ」


 若いシスター見習いが声をかける。


「孤児院の子供たちが、お待ちです」

「ありがとう、マリア。すぐに行くわ」


 リーゼロッテ・フォン・ハーゼン──今はシスター・リーゼと名乗る女性は、穏やかに微笑んだ。

 かつての華やかな美貌は影を潜め、質素な修道服に身を包んだ彼女は、しかし不思議な清廉さを放っていた。


 孤児院には、戦争で親を失った子供たちが十数人いた。


「リーゼ様!」


 駆け寄ってくる子供たちに、彼女は笑いながら囲まれる。


「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」

「待って待って。みんなで朝食を食べてからにしましょう。さあ、手を洗って」


 食事の準備を手伝いながら、リーゼロッテはふと思った。


(ここでの生活は、私にとって罰ではなく、救いだったのね)


 十年前、修道院に送られた時、彼女は絶望の淵にいた。

 王太子の寵愛を受け、次期王妃になると信じて疑わなかった自分が、一夜にしてすべてを失ったのだ。最初の数ヶ月は、恨みと後悔で眠れない夜を過ごした。


(クラリッサが憎い。あの女が私のすべてを奪ったんだわ!)


 だが、修道院での過酷な労働と祈りの日々の中で、少しずつ心は形を変えていった。

 院長のシスター・テレジアは、厳しいが慈愛に満ちた女性だった。


「リーゼロッテ。貴女は今、恨みに囚われている」


 ある日、テレジアは静かに諭した。


「だが、恨みは貴女自身を蝕むだけ。他の誰も傷つけない。傷つくのは、貴女の心だけなのよ」

「でも、私は……」

「貴女が失ったものは、本当に価値があったのかしら? 華やかな宮廷生活、王太子の寵愛……それらは貴女を心から幸せにしていたの?」


 リーゼロッテは答えられなかった。

 実際、王太子に愛されていた時ですら、彼女は常に不安だった。クラリッサと比較され、貴族たちに冷たい視線を向けられ、いつか捨てられるのではないかと怯えていた。


「ここで、本当に必要とされる生き方を見つけなさい。華やかさではなく、誰かの役に立つ喜びを」


 それから、リーゼロッテは変わった。

 仕事に真摯に取り組み、病人を看護し、貧しい人々に食事を配った。やがて戦争が起き、戦災孤児が次々と送られてくると、彼女は昼夜を問わず彼らの世話に明け暮れた。

 傷を手当てし、悪夢にうなされる子を抱きしめ、絵本を読み聞かせる。


 今や子供たちは彼女を「聖女様」と呼び、民衆もまた彼女の祝福を求めて修道院を訪れる。


(皮肉なものね。私が望んでいた『王太子妃』という地位よりも、今の『シスター・リーゼ』の方が、ずっと多くの人に必要とされているなんて)


 食事が終わり、子供たちが遊びに出た後、リーゼロッテは一人礼拝堂に残った。

 祭壇の前に跪き、祈りを捧げる。だが、その途中で彼女は別のことを考えていた。


(クラリッサ様……)


 あの高慢で、賢明で、完璧だった公爵令嬢。

 先日、行商人から聞いた噂では、新王ルシウスは傀儡に過ぎず、前王太后クラリッサは北の古城に幽閉され、その息子も王位を剥奪されたという。


(貴女も私と同じように、すべてを失ったのですね)


 そして、リーゼロッテは自分だけが知る秘密を思い返していた。


(この世界は乙女ゲームの世界。そして私は、ヒロインになり損ねた転生者)


 前世の彼女は、日本で暮らす平凡な女子高生だった。

 恋愛シミュレーションゲーム『聖なる薔薇の王国』に夢中だった彼女は、この世界に転生した時、自分が主人公ヒロインであると確信した。


(このゲームのことは隅から隅まで知ってるわ。ハッピーエンドなんて楽勝!)


 複数人の攻略対象者の中から、私が選んだのはもちろん前世の「推し」のルシウス様。彼に近づき、理想の乙女を演じれば、結ばれるはずだった。


 しかし、現実は違った。

 クラリッサはゲームの悪役令嬢のように愚かではなく、ルシウス自身もゲームのキャラクターのような理想の王子様ではなかった。


(私は勝てなかった。ゲームの知識は何の役にも立たなかった)


 当初は「なぜゲーム通りにならないの」と恨んだ。だが、今ならわかる。ここは書き割りの世界ではなく、生きた人間が息づく現実だったのだ。

 そして、彼女はもう一つの可能性に気づいていた。


「クラリッサ様も、もしかして……」


 行商人が語った噂話。クラリッサとルシウスの最後の対話。語り手の行商人も含めて皆は作り話だと一笑に付したが、リーゼロッテだけは信じた。


『この世界を、前世の物語だと思っていた』


(貴女も、転生者だったのですね)


 一人は主人公として、一人は悪役令嬢として。それぞれが「物語の知識」という名の毒を信じ、溺れてしまった。


(でも、私たちは二人とも間違っていた。この世界は、私たちの知る物語ではなかった)


 礼拝堂の扉が開き、マリアが入ってきた。


「シスター・リーゼ、村から急病人が運ばれてきました」

「すぐ行くわ」


 リーゼロッテは立ち上がった。祭壇の聖母像に一礼し、医療室へと急ぐ。


(クラリッサ様。貴女は今、どこで何を思っていますか? 貴女も私と同じように、自分の愚かさに気づいているのでしょうか)


 私たちは「物語」を信じすぎて、「現実」を見失った。

 けれど──。


(私には今、やるべきことがある。物語の主人公になることではなく、目の前の人を救うこと。それが、私の辿り着いた答え)


 窓の外から聞こえる子供たちの笑い声を背に、リーゼロッテは思う。

 もし、もう一度だけ貴女に会えるなら。


『私たちは間違っていた。でも、まだ遅くはない。今からでも、本当の意味で生きることができる』


 そう伝えたい。だが、それは叶わぬ願い。

 二人はもう二度と会うことはないだろう。それでも、リーゼロッテは祈った。


(神よ、どうか。私たちに真実を見る目を。物語ではなく、現実を生きる勇気を与えたまえ)


 祈りの言葉が、静かな医療室に響く。

 その頃、遠く離れたヴォルフスブルク城でも、もう一人の転生者が同じ天を見上げていた。


 同じ過ちを犯し、同じ絶望を味わった二人。

 クラリッサは知識に溺れ、誇りを胸にすべてを失った。対してリーゼロッテは、挫折の果てに泥にまみれ、そこから新しい生き方を見出した。


 物語のように賢い者が勝つとは限らず、愚かな者がただ罰せられるとも限らない。

 現実は、もっと複雑で残酷で、そして──ほんの少しだけ優しかった。


 秋の陽光が柔らかく降り注ぐ中、リーゼロッテは病人の手を握り、微笑んだ。


(クラリッサ様、貴女もいつか、この安らぎを知ることができますように)


 祈りが風に乗って古城へ届くことはなかったが、彼女は今日も祈り続ける。

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― 新着の感想 ―
クラリッサの息子が廃嫡になる場面がきちんと世界観の理屈に沿っててすごいなと思いました。 世界観が地に足ついてるから現実を見てない悪役令嬢とヒロインが浮いてしまって、彼女たちは自分が蔑ろにした現実に国…
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