娘が猿
「ふふ、ほーら、パパが帰ってきまちたよお。ふふふ……あっ、ほら、あなた、どうしたのよ。この子に『ただいま』は?」
「あ、ああ……ただいま」
「もう、なに緊張してるのよ。自分の娘なのに、変なパパねえ。ねー。ふふ……」
夜、家のリビング。ソファに腰かけた妻は、娘を胸に抱き、機嫌よく揺らしていた。おれはその光景にそっと後ずさった。喉が渇いたなあ――言い訳めいた呟きをこぼし、冷蔵庫へ向かった。
ドアを開けた瞬間、棚に並ぶ飲み物を前にして、まるでパズルを前にしたかのように、何を取ればいいのかわからなくなった。頭の中は真っ白で、冷気だけがやけに心地よい。しばらく突っ立ったまま動けなかった。
結局、何も取らずに静かにドアを閉じた。ゆっくりと振り返ると、妻は娘の小さな腕を持ち上げ、おれに向けてひらひらと手を振らせていた。おれはまたもや、何をすればいいのかわからなくなった。どんな顔を作ればいいのかすらも。
あの猿に向かって――。
おれは顔が良くない。根暗で、口下手で、友人も少なく、中学の頃はいじめられていた。自分に自信なんて欠片もなくて、『結婚なんて無理だ』と早いうちからあきらめていた。ましてや父親になるなんて、想像すらしなかった。
それでも親や周囲からの圧力に押され、半ば義務のようにマッチングサイトに登録した。『一応、婚活はした』と言い訳できる材料が欲しかったのだ。
ところが、思いがけず今の妻と出会い、気づけば結婚まで話が進んでいた。
まあ、仮に結婚しても子供は作らないでおこう。自分に似て、不細工に生まれたらかわいそうだ――なんて思っていたのに、あれよあれよという間に妻が妊娠した。まったく、人生とはわからないものだ。いや、本当に。
そして出産の日。分娩室の前で呼び出しを待っていたおれは、椅子から立ち上がっては廊下をうろうろ歩き、また座り――と、ロボットの動作テストのような動きを何度も繰り返していた。
その頃のおれは、自己肯定感で満たされていた。おれは幸せになってもいいんだ。なれるんだ。絶対に家族を幸せにするぞ。妻を、娘を……。
最初は乗り気じゃなかったことなど跡形もなく忘れ、ただ娘の誕生を、そして父親としての人生の始まりを心待ちにしていた。
『生まれましたー!』
『は、はい!』
看護師に呼ばれ、震える足で分娩室へ入った。
だが待ち望んだその瞬間――おれは言葉を失った。
妻の腕の中にいる『娘』と呼ばれたそれは……猿だった。
猿だ、猿。間違いなく、猿。ああ、確かに生まれたばかりの赤ん坊はしわくちゃで赤くて、猿みたいだとよく言われる。だが、これは比喩でも何でもない。どう見ても猿そのものだった。
数日経っても、どれだけ目を凝らしても、やはり猿だった。
『かわいい……。あたしに似て、大きな目』
『ああ……人間の目に、よく似てる……』
『鼻はあなたに似てるかな。ちょっと大きいね』
『ああ……大きくて、ぺしゃんこだ』
『髪の毛もあなた似かな。くせ毛で』
『そう……かな……いや、毛深いな……』
『ふふっ、ほっぺがぷにぷにしてる』
『皺が……』
『ねえ、さっきから何をごにょごにょ言ってるの? それにその顔……まさか、嬉しくないの?』
『い、いや! 嬉しいに決まってるよ! ははは!』
出産して間もない頃、妻とどんな会話を交わしたのか、細かいところは曖昧だ。ただ、妻が猿を抱きながら微笑む光景だけは、何度思い返しても現実味は失われなかった。
もっとも、その光景は今も毎日のように目にしているのだが。
最近、ようやく見慣れてきたものの、それがむしろ恐ろしい。大きな耳、つぶらな瞳、潰れた鼻、長い手足、顎周りの毛。一分の隙もなく、どこからどう見てもチンパンジーの子供だ。
おそらく、おれがイメージする『猿の子供』の姿なのだろう。それが現実と重なってしまっているのだ。つまり、これは心の病。
精神科に行けば、こう言われるに違いない。『父親としてのプレッシャーによる幻覚でしょう』と。『ストレスを溜めないようにしてくださいね』。
実際に行けばはっきりするし、医者に相談して少しは安心できるかもしれないが、それはできない。彼女の実家はなかなかに厳格で、夫が精神科に通っていると知られればどう思われるか。妻だって眉をひそめるに違いない。『え、私じゃなくてあなたが? 育児で大変なのは私なのよ』と怒りを通り越して呆れられる光景が容易に想像できた。
だから、おれは時間に委ねることにした。体調には問題がない。ただ娘が猿に見えるだけだ。きっと、いずれちゃんと人間に見えてくるはずだ――そう信じることにした。
だが、何日経っても猿は猿のままだった。朝、妻と一緒に見送ってくるのも猿。おれが二時間かけて組み立てたベビーベッドで眠るのも猿。お風呂に入れてやれば、濡れた猿。
本当に猿なのではないか、と疑うほどだった。もちろん、違うことはわかっている。病院の医師や看護師、双方の両親も誰一人として異常を口にしなかったのだから。検診結果にも問題は一切なかった。
ただ、妻だけは時折、赤ん坊とおれが一緒にいると、どこか気遣わしげな表情を浮かべた。
もしかすると、妻もおれと同じように赤ん坊が猿に見えているのでは――そんな淡い期待が胸をよぎり、一瞬嬉しくなったが、遠回しに探りを入れてみると、どうも違った。妻はただ、おれの不自然な態度に戸惑っているだけだった。
なぜ、娘が猿に見えてしまうのか。精神を病んでいるのではないとすれば、これは呪いか何かなのだろうか。そういえば、子供を持つ前、おれは他人の子供を見るたびに『猿みたいだな』と思っていた。奇声を上げ、急に走り出し、泣き止まない。まったくかわいいとは思えなかった。野生動物そのものだ、と。
まあ、我が子が猿に見える今は、他人の子供が妙に愛らしく思えるのだが。
「それが人の親になるってことだよ。俺も同じ。幼稚園くらいの子を見ると、息子が小さかった頃を思い出すよ」
娘が猿に見えることは伏せて同僚にそれとなく話すと、彼はしみじみとした声で言った。
「いやあ、それにしてもかわいいだろ?」
「えっ」
「今が一番かわいい時期だなあ……って思うだろ? でも違うんだよ」
「あ、ああ、違う……違うんだよ」
「そう。常にかわいいんだよ! 立って歩き出したり、喋るようになったりさ。びっくりするほどの速さで成長するから」
「うちはあまり変わらないと思うが……」
「一緒に公園で遊んだりするとさあ……あ、やめとくか。ネタバレみたいになっちゃうし」
「いや、いいよ。たぶんジャンルが違う」
「そうか? まあ、うちは息子だしな。でな、一緒に遊んでると、ふと気づくんだよ。『あ、俺も昔こんな遊びしてたな』って。童心に返るっていうか、ほら、聞いたことないか? 子育てって、自分の子供時代を追体験するものだって」
「うちは先祖返りしそうだ」
「なんかこう、不思議な感情が込み上げてくるんだよなあ。ノスタルジックっていうかさ……」
「モンキーマジック……」
おれはその不思議な感情を味わうことはないだろう――そう思った。だがふと、自分が小学生の頃、クラスメイトに『ウッキー』と呼ばれていた記憶が蘇った。由来は説明するまでもない。
――まあ、おれも猿みたいなもんか……。
「ウキュ?」
「……ふっ」
その共通点を見つけたからなのだろうか。おれは少しずつではあるが、娘をかわいいと思えるようになっていった。
そして、このまま流されるだけではダメだ、とも思った。
歩けるようになると、手をつないで公園に行った。三輪車を押してやり、砂場で遊び、お絵かき、おしゃべり、おままごと――世間一般の父親と娘と、そう大きくは変わらない時間を過ごした。
もっとも、娘が人間に見えてくることは一切なく、相変わらず猿のままであり、発する言葉も『キー、キー』にしか聞こえなかった。だが動物図鑑を読み込み、動物園の飼育員に話を聞きに行くうちに、おれは娘が何を言っているのかどころか、何を考えているのかまでわかるようになった。自分の中の野生本能というものが強まったのかもしれない。
妻もそんなおれを見てすっかり安心したらしく、最近ではママ友に『うちの夫、すごく協力的なの』と自慢しているようだ。
もちろん、その情報は娘から聞いた。たぶん今も、あっちでそんな話をしているのだろう。今日は三人で近所の公園に来たのだが、さっそく妻はママ友たちに捕まり、おしゃべりに夢中だ。
おれと娘は砂場遊び。トンネルを二つも掘って開通させた。小さな手がおれの手に触れるたびに、一人と一匹で顔を見合わせて笑った。
ああ、最高だ。きっとこれから先も、おれたちはうまくやっていける。
「な?」
「キー!」
……ただ、おれと妻はどちらも日本人なのに、どうして生まれてきたのがチンパンジーなのだろう。普通、ニホンザルじゃないのか?
まあ、おれの中にある『猿』のイメージがチンパンジーなだけなのだろう。
「ほんと、夫にはいつも助かってるわあ」
「素敵な旦那さんねえ」
「でも、てっきり外国の方かと思ったわ」
「え?」
「だって娘さん、ハーフでしょ? ね」
「ねー、すごくかわいい」
「あ、ああ、うちの父親がそうなの。隔世遺伝ってやつね。うふふ……」




