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金瓶梅の金蓮が悪役令嬢に転生したら

作者: 星森 永羽


 燭台の光がきらめき、音楽と香水の香りが漂う王宮の大舞踏会。

 豪奢なドレスの裾が床をかすめ、宝石の輝きが天井のシャンデリアと競い合う。

 だが今宵、その場の華やかさは一つの声で断ち切られた。


「ローゼマリー・フォン・ヴァルシュタット! お前のような女は、婚約者にふさわしくない!」


 広間が凍りつき、貴族たちのざわめきが一瞬で消える。

 視線は、王子アレクシス・ヴァン・ベルグローゼと、その隣に立つ令嬢ミレーユ・ド・カステル男爵令嬢に注がれた。

 純白のドレスに身を包み、静かに頭を垂れる姿は完璧な“乙女”の象徴だった。


 アレクシスは、黄金の髪を振り乱して続ける。見た目は、完璧なプリンスルックだが中身はない。


「お前はいつも理屈ばかりで、感情がない。動きも繊細さがなく、まるで男と話しているようだった。

お前との婚約は破棄する!」


 貴族たちは息を呑む。

 断罪の理由は、冷静さと論理。

 だがローゼマリーは、うつむいたまま微動だにしない。


「何か言ったらどうだ! お前のような女に、愛など与えられない!」


 その瞬間、空気が変わった。

 ローゼマリーの瞳がゆっくりと開き、前世、中国で潘金蓮ハンキンレンとして生きていたの記憶が波のように押し寄せる。


 ──覚醒。


 堅物だった少女の面影は消え、そこに金蓮の魂が宿った。

 頬の色が自然に赤みを帯び、長い紫髪がしなやかに肩を撫でる。

 唇は薄く微笑み、瞳は深い黒曜のように光を宿す。

 堅苦しい姿勢は柔らかくなり、指先や首の傾きにまで女性としての余裕と挑発が漂う。

 かつての知的で真面目な雰囲気は、妖艶な色香と自信に置き換わった。


 静かに手を伸ばし、ドレスの留め具に指をかける。

 その所作だけで、場の空気が震える。


「な、何を……!」


 ざわめく貴族たち、顔を引きつらせるミレーユ。

 だがローゼマリーは止まらない。

薄布が床に落ちるたび、男たちの視線は抗えず吸い寄せられる。

 肩の曲線、背中の柔らかさ、手首の動き──すべてが女性としての強烈な存在感を放つ。


 コルセットが落ち、一糸纏わぬ姿となった彼女は自分の体を見下ろし、手を白い股の間に滑り込ませる。


「あら……」

 その声は澄み渡り、静まり返った広間を支配した。

「この体はまだ、男を知らないのね」


 挑発的な一言に、場内は騒然となる。

 貴族の娘たちは口元を押さえ、老臣たちは眉をひそめる。

 誰もが「この女は狂ったのか」と思った。


 ローゼマリー(覚醒した金蓮)は視線を巡らせる。元婚約者、宰相の息子ユリウス・グレイヴ、若い騎士ライナルト・シュタイン、弟フィン・フォン・ヴァルシュタット。


「一体、誰が私を女にしてくださるのかしら。この国では処女を処刑できないのでしょう?」


 人々の心を支配していた「悪女の断罪」という筋書きは、完全に崩れ去った。

 壇上で勝ち誇るはずだったアレクシスの顔は青ざめ、ミレーユは戸惑いを隠せない。


 誰もが黙り込む中、ただローゼマリーだけが笑っていた。

 その笑みは恐ろしくも美しく、破滅を告げる花のように妖しく咲き誇っていた。






 薄暗い地下の廊下。

 石壁に反響する自分の足音を、王子アレクシスは確かめるように歩く。

 胸の奥で渦巻く感情──怒り、嫉妬、そして抑えきれない欲望。

 そのすべてが、今、ローゼマリーのもとへ駆り立てていた。


「ヴァルシュタット公爵令嬢は毒を盛られました。犯人は不明ですが、陛下は彼女を保護し、真相が明らかになるまで隔離されることとなりました」


 牢番の報告が耳に届く。

 王子は眉をひそめ、唇を噛む。


「誰かが……先に手を出したのか?」


 疑心暗鬼に駆られ、王子は視線を周囲に走らせる。

 牢番は落ち着いた声で答えた。


「陛下は殿下の名誉を守るため、詳細は伏せております」


 その言葉に、王子のプライドは少しだけ刺激される。

 しかし胸の奥の熱は収まらず、ローゼマリーのことだけが頭から離れない。


 廊下の奥、薄暗い扉の前に立ち止まる。

 王子は拳を軽く握り、深く息を吸い込む。

 扉の向こうには、昨夜の断罪の舞台で屈辱を味わった女──そして、今や自分の理性を揺さぶる存在が待っている。


「ローゼマリー……」


 低く、抑えきれない声が漏れた。

 その声に応えるように、扉の向こうから微かな気配が伝わる。

 アレクシスの心はざわつき、鼓動は速まる。

 地下の冷気すら、胸の熱を和らげることはできなかった。


 そして、王子はゆっくりと扉を押し開ける。

 闇の中で浮かび上がるのは、静かに自分を待つローゼマリーの姿。

 その瞳に吸い込まれるように、王子は1歩、また1歩と歩を進める──。






 夜の王宮は、昼間の喧騒とは打って変わり、静寂と香の匂いに包まれていた。

 すでにローゼマリーは王の寝室に案内されている。窓の外には月光が差し込み、淡い光が部屋の豪奢な装飾を浮かび上がらせていた。


「処女に、上に乗られたことは……おありですか?」


 その言葉は柔らかく、しかし挑発的で、王の理性の糸を静かに揺らす。


「いいや」

 王の低く沈んだ声が部屋に響く。


 ローゼマリーは軽く首を振り、唇に妖しい笑みを浮かべる。


 ローゼマリー……いや金蓮はゆっくりと歩み寄り、王の視線を逸らさずに囁いた。


「では、うまくできたら、お願いをひとつ聞いていただけますか」


 その声は甘く、囁きのようでありながら、確かな支配の意思を帯びていた。

 王の瞳が揺らめく。怒りではなく、久しく忘れていた昂ぶり。

 胸の奥の熱が、理性をじわりと押し上げる。


 金蓮は息子アレクシスに似たレオポルド四世の前に立ち、わずかに身体を近づける。

 薄布のドレスが床に触れる音だけが、静かな夜に響いた。

 手のひらで王の胸元に触れ、その鼓動を確かめる。


「……さあ、陛下。今夜は、私の導きに身を委ねて」


 その一言に、王は無言で頷くしかなかった。

 囚人であるはずの女が、今や王を支配しているのだ。


 月光の下、2人の間に静かな緊張が漂う。

 金蓮の微笑と、王の抑えきれぬ欲望。

 この夜、運命は静かに、しかし確実に覆されていく。


 金蓮はゆっくりと歩み寄り、王の目をじっと見据えた。

 月明かりに映える彼女の瞳は冷たく、しかし甘美に輝く。

 手を王の胸に添え、その鼓動を感じながら、低く囁く。


「陛下…… 今宵は私を女にしてください」


 レオポルド四世は唇を噛み、言葉が出ない。

 胸の奥で何かが燃え上がり、理性を振り払おうとしていた。

 金蓮はその隙を逃さず、腰を少し前に押し当てる。


「さあ……私が導きます。動くのは、陛下ご自身ですわ」


 その一言に、王の手が自然に金蓮の背に回る。

 金蓮は抵抗せず、むしろ柔らかく身を委ね、唇を近づける。

 唇と唇が触れる瞬間、部屋の空気が震えた。

 レオポルド四世は初めて金蓮に触れるその感触に、理性を手放さずにはいられない。


 金蓮は巧みに王の動きを読み取り、誘導する。

 指先が首筋をなぞり、腰に触れ、胸元に手を伸ばす。

 王はそのたびに息を詰め、理性と欲望の狭間で揺れる。


「……どうですか、陛下。私の導きは……」


 金蓮の囁きに、王は答えず、ただ身体で答える。

 その瞬間、金蓮の微笑みはさらに深くなり、支配者としての誇りが顔に浮かぶ。


 月光に照らされ、王の欲望と恐怖を同時に操る金蓮。

 その夜、王は完全に金蓮の掌の上で揺れ、支配される側となった。








 その日、王都は異様な熱気に包まれていた。

 城門から処刑場へと続く大通りには群衆が押し寄せ、皆が1人の女の最期を見届けようと待ち構えている。


「ヴァルシュタット公爵令嬢を断罪せよ!」

 それは王子の命によるものだった。

 婚約破棄に続き、今度は公開の処刑。

 悪女の末路を、誰もが好奇心と嘲笑の入り混じった目で待っていた。


 やがて鼓笛の音が響き、兵士たちが列を組む。

 群衆は息を飲み、鉄鎖に繋がれた女が引き立てられるのを想像した。

 ……だが。


「……え?」

 先頭に現れたのは、鎖に縛られた囚人ではなかった。


 黄金の衣をまとい、悠然と歩む王。

 その隣に、白い衣装を纏いながらも凛然と立つ女──ローゼマリーの姿があった。


 群衆は一斉にざわめき立つ。

「なぜ……牢に繋がれていたはずでは」

「どうして陛下の隣に……」


 王は高台に立ち、広場を見渡した。

 静寂が落ちる。

 その中で、低く力強い声が響いた。


「この女を断罪する者など、この国にはいない。我が側室とする」


 場が凍りつく。

 だがレオポルド四世は続けた。今度は、壇上に控える者たちへと視線を向ける。


「息子よ。お前は感情に溺れ、国を私物化しようとした。

 ミレーユ。お前は乙女の仮面をかぶり、陰で貴族を操った。

 フィン・フォン・ヴァルシュタット。姉を守るふりをして、己の野心を隠していた。

 そして──ライナルト・シュタイン。お前は沈黙の中に何を隠している?」


 騎士の名が呼ばれた瞬間、ローゼマリーの瞳が揺れた。

 彼女は一歩前に出て、新郎の言葉を遮るように声を発した。


「陛下。どうか、彼らを責めないでください」


 王は眉をひそめる。

「庇うのか?」


 ローゼマリーは静かに頷いた。


「彼らは、私を断罪しようとしたかもしれません。ですが、それは私が未熟だったから。

 彼らの中に、私を導いてくれる者がいると……信じたいのです」


 その言葉に、王子は困惑し、ミレーユは唇を噛み、フィンは目を伏せた。

 だが、騎士ライナルトだけは微動だにせず、ただローゼマリーを見つめていた。


 金蓮は彼に視線を向ける。

 その瞳には、恐れと期待、そして懇願が混ざっていた。


 彼女は微笑みながら言った。


「ライナルト様は、私の命を守ってくれた方です。

 私がこの場に立てているのは、彼のおかげです」


 騎士の瞳がわずかに揺れた。

 王は沈黙の後、低く言った。


「……ならば、見届けるがよい。

 この女が、誰の手で生かされ、誰の手で滅びるのかを」


 その言葉は、王の宣言であり、試練の始まりでもあった。


 金蓮は静かに微笑んだ。

 その笑みは、断罪を返す者のものではなく運命を操る者のものだった。






 王の宣言によって、ローゼマリーは牢獄の囚人から一夜にして国王の側室へと昇りつめた。

 処刑場での断罪返しは、社交界だけでなく国中に轟き渡り、誰もがその名を口にした。


「悪女が王を手に入れた」

「いや、王が悪女に囚われたのだ」


 噂は尾ひれをつけて広がり、恐怖と羨望と興奮を煽った。





 処刑場での逆転劇直後。

 王宮は未だ混乱の余韻に包まれていた。

 だが、ローゼマリーこと金蓮の部屋だけは別世界のように静かだった。

 香炉から立ち上る白檀の煙が、柔らかく部屋を満たす。エリーゼ──春梅シュンバイは慎重に湯を注ぎ、茶器を並べる。


「……見たでしょう、春梅」

 金蓮は窓辺に立ち、庭園の木々を遠く眺めながら、低く呟いた。


「男たちは皆、私に心を奪われていた。けれど」


 ゆっくりと振り返る。

 その瞳には、微かな笑みが浮かぶ。


「ひとりだけ私を見据えていた。冷たい、まるで氷のような瞳で」


 春梅は眉をひそめ、茶碗を持つ手を止める。

「……騎士、ライナルト様ですね」


「ええ、あの目、間違いない。あれは――武松の目よ」

 金蓮の声は確信に満ちていた。

「だから助けたの。処刑場で言った『彼に命を救ってもらった』なんて、真っ赤な嘘。これで貸しができた」


 春梅は静かに頷き、問いかける。

「では、どうなさるおつもりで?」


 金蓮は微笑みながら、深く腰掛けた。

「懐柔するわ。殺されないために、ね」


 静寂の中、香の煙が揺らめく。

 その穏やかな空間に潜むのは、計算と策略。

 表面の優雅さの裏で、金蓮の心は確実に王宮の秩序を変える一手を練っていた。


 春梅はひと息つき、微かに口元を緩める。

「……転生した私たちだから、できることね」


 金蓮の視線が、春梅を捉える。

「ええ、私たちは生まれ変わった者同士。今度こそ、運命を味方につけるの」


 2人の間に、静かで冷たい決意が流れる。

 城の夜は、これから起こる嵐の前の静けさで満たされていた。






 玉座の間の奥、重厚な扉に隔てられた王太子の私室。

 アレクシスは書きつけの山に拳を叩きつけた。

 インク壺が跳ね、漆黒の雫が羊皮紙の上に散る。


 壁に掛けられた肖像画──そこに描かれているのは、今や王の側室となったローゼマリー・フォン・ヴァルシュタット。

 その紫の瞳が、絵の中からなおも挑発的にこちらを見返してくるようだった。

 彼の脳裏に焼きついて離れないのは、あの夜の光景──。

 断罪の場で裸にされるはずだった令嬢が、誰よりも堂々と微笑み、会場を支配してみせた瞬間。

 羞恥のはずが、支配へと変わる。

 あの笑みは、アレクシスの自尊心を根こそぎ奪っていった。


「……なぜ、あんな女に……!」


 怒声が石壁に反響した。

 その時、扉がそっと開き、白い影が入ってくる。


「アレクシス様……お加減が悪いのですか?」


 純白のドレスを纏った新しい婚約者ミレーユが、憂いを帯びた声で問いかけた。

 けれどその微笑には、どこか冷ややかな光が潜んでいる。

 アレクシスは彼女を一瞥し、吐き捨てた。


「黙れ!」


 一瞬、彼女の肩が震える。

 だがすぐに目を伏せ、丁寧に膝を折った。

 柔らかなライトブラウンの髪が、床に流れるように落ちる。


「……あの女のせいで、殿下の評判が落ちているのですね。私、なんとかいたします」


「お前が“乙女”でいてくれれば、こんな恥をかかずに済んだ!」


 アレクシスの声は、ほとんど嗄れていた。

 自分でも何を責めているのかわからぬまま、彼は机を拳で打った。

 ミレーユはゆっくりと顔を上げた。

 その瞳の奥に、哀れみでも愛情でもない、もっと冷たい光が宿っていた。


「申し訳ありません……。けれど、私にお任せください。あの女を、必ず——」


 囁きは甘く、しかしその響きの中に、氷の刃が隠されていた。

 ミレーユの瞳には、計算と確信、そしてわずかな歓喜が混じっている。

 彼女の中で、復讐の歯車が静かに回り始めていた。





 翌朝、宮廷を包む空は薄曇りだった。

 白い霧が中庭の薔薇を霞ませ、静謐の中に不穏なざわめきが漂う。


 ミレーユは、まるで影そのもののように廊下を進んだ。

 手には小さな香の瓶と、一通の書状。

 その姿を見た侍女たちは息を呑み、足を止める。

 彼女の小柄な愛らしさは相変わらずだが、どこか冷たい光沢を帯びていた。


「この香を、ローゼマリー様の部屋で見つけました」


 婚約者の前で、彼女は低く言葉を落とした。

 アレクシスは視線を上げる。

 ミレーユの掌に握られた瓶の中では、淡い紫色の液が揺れていた。


「媚薬です。王を惑わすために使われたと……侍女の噂で」


 アレクシスの表情が歪む。

 瓶を取る指先が震え、瓶の栓を無意識に転がす。

 その些細な音が、やけに大きく響いた。


「……何だと?」


「陛下を毒殺しようとしているのです。

 陛下を手に入れた今、次は国を狙っている。──あの女は、そういう人です」


 ミレーユの声は淡々としていた。

 だが、その静けさこそが、王子の心を締め上げる。


 アレクシスは書状を掴んだ。

 それは王の寝所に出入りする者の名簿だった。

 そこには確かに──ローゼマリーの侍女、エリーゼ(春梅)の名が記されている。


「……ライナルトを向かわせろ。あの女の正体を暴かせる」


 命令は短く、冷たく。

 だがその声の奥に渦巻くのは、怒りでも正義でもない。

 それは、どうしようもない執着と嫉妬。

 かつて自分の婚約者だった女が、今や父王の寝所にいるという屈辱が、アレクシスの理性をじわじわと侵食していた。


 その瞬間から、王宮の空気は変わった。

 誰もが互いの息遣いを探り合い、密やかな恐怖が薔薇の香とともに満ちていった。

 そしてその中心には、沈黙の微笑を浮かべるローゼマリーがいた。


 ──すべてを見通す紫の瞳で。





 金蓮の部屋。香炉から立ち上る煙は甘く、重く、室内に絡みついていた。壁際に揃った古書や銀の小物たちが、微かな香の香りに揺れている。春梅は静かに一礼し、扉の向こうへと退出した。


「……お呼びでしょうか」


 赤い短髪の騎士ライナルトが扉の向こうから現れる。白い鎧に薄い影が落ちる。金蓮は香炉の前に座ったまま、彼を見上げて微笑む。


「この香、嗅いでみて。……毒かしら?」


 ライナルトは一歩踏み出し、香炉を見下ろす。微かな煙が指先に絡む。


「……これは、媚薬ではありません」


「では、何だと?」


「騎士団に調査を依頼します。しばしお待ちを」


 彼は控えの従者に香炉を預ける。金蓮の瞳が揺れる。


「あなたが持って行くのではないの?」


「殿下の命で来たのです。貴女を監視せよ、と」


 金蓮は立ち上がり、彼の分厚い胸板に手を添える。指先の温もりが、沈黙の間に意味を帯びる。


「なら、私を縛る? それとも、殺す?」


「……どちらも、私の剣には似合わない」


「なら、私を守って。あなたの剣で、私の名誉を」


 ライナルトは沈黙したまま、香炉に手を伸ばして煙を払いのける。


「……この香は、貴女の敵のもの。私は、真実を守ります」


 金蓮は静かに微笑んだ。


「ありがとう。これで、あなたは私の“共犯者”ね」






 重く閉ざされた玉座の間。

 金の天蓋の下、レオポルド四世が沈黙をまとって座していた。

 その前に並ぶのは、王子アレクシス、ミレーユ、騎士ライナルト、秘書官フィン、補佐官ユリウスそしてローゼマリー。

 5人の息遣いだけが、張り詰めた空気を揺らしていた。


「この女は父上を惑わし、毒を盛ろうとしたのです!」


 最初に声を上げたのはアレクシスだった。

 憤怒に染まったその瞳は、かつての婚約者を射抜く。

 ミレーユが続けて進み出る。白い手袋の中で、指がわずかに震えていた。


「証拠はここにございます、陛下。香の瓶と、この密書が……!」


 だが、その瞬間。

 重い足音が響き、2人の前に立ちはだかったのは騎士ライナルトだった。

 彼の声は静かで、確信に満ちていた。


「陛下。私はこの目で確かめました。香は毒ではなく、密書も偽造の可能性が高いと」


「な、何を申すのですか……!」


 ミレーユの顔が蒼白に変わる。

 その傍らで、ローゼマリーいや、金蓮は、ゆるやかに歩み出て一礼した。

 まるで、この瞬間を待っていたかのように。


「陛下。私は王子殿下の婚約者でした。

 けれど、無実の罪で断罪され、辱めを受けました。

 それでも、秩序を乱すことなく、静かに過ごしてまいりました。

 ……それなのに、また罠が仕組まれたのです」


 その声は涙を含んだように柔らかく、しかし一語一語が鋭く響いた。

 王はしばし沈黙し、重々しく視線をミレーユへと向ける。


「ミレーユ・ド・カステル。お前が仕組んだのか?」


 ミレーユは震える唇で否定の言葉を繰り返す。

 だがアレクシスは、もう彼女を見ようとしなかった。

 冷たい沈黙の中で、王の声が響く。


「……お前の“乙女の仮面”は、もはや剥がれた」


 次の瞬間、裁きの言葉が落ちた。


「ミレーユを地下牢に移送せよ。

 王子アレクシスは謹慎とする。

そしてローゼマリーを王宮の正妃候補とする」


 場の空気が一瞬にして凍りつく。

 だが、ローゼマリーは深く頭を垂れながらも、唇の端にわずかな笑みを浮かべていた。

 勝利の笑み。誰にも見せぬ、密やかな毒花のような笑み。


 その時──

「お待ちください!」


 声が響いた。ミレーユだった。

 乱れた髪を振り乱し、泣き叫ぶように前へ出る。


「陛下は騙されておいでです! その女はローゼマリー・フォン・ヴァルシュタットではありません!」


 玉座の間にざわめきが走る。

 レオポルド四世の視線が、わずかに動くと静かに頷いた。


「いかにも」


 その一言に、ミレーユはほっと息を吐いた──が、次の瞬間。


「彼女は余、レオポルド四世と正式に婚姻を結んだ。

 ゆえに、名はローゼマリー・ヴァン・ベルグローゼである」


 王の宣言に、ミレーユの顔が引きつる。


「ち、違います! そうではありません!

 その女の正体は、中国四大奇書『金瓶梅』に登場する、潘金蓮ハンキンレンです!」


 その言葉に、場の空気が一瞬止まった。

 そして次の瞬間、王の口元に笑みが浮かぶ。


「……小説の登場人物だと?」


「そうです! 薬屋の若旦那と通じ、自分の夫を殺した稀代の悪女です!」


 沈黙が広がり、やがて玉座の間に響いたのは王の低い笑いだった。


 それに続き、廷臣たち、王子の取り巻きたちの笑いが伝播していく。

 嘲笑と侮蔑の渦。

 ただ1人、ローゼマリーと同じ髪色をしたフィン・フォン・ヴァルシュタットだけが、困惑の色を隠せずにいた。


「息子よ。お前の選んだ女は、虚言癖が酷いようだな」


 王の言葉に、アレクシスの顔が真っ赤に染まる。

 怒りと羞恥が入り混じった叫びが玉座の間に響く。


「何をしている! さっさと牢へ連れていけ!」


「信じてください! あの女は、本当に──!」


 ミレーユの悲鳴が、石の壁に反響した。

 だが誰も耳を貸さない。

 近衛兵たちに両腕を掴まれ、白いドレスが床を擦る。


 最後に、金蓮とミレーユの視線が交わる。

 金蓮は微笑み、唇だけで告げた。


「おやすみなさい」


 その瞬間、扉が閉まり、すべての音が消えた。

 玉座の間には、香の残り香と、冷たい勝利の静寂だけが漂っていた。







 その夜、王妃ローゼマリー──いや、金蓮は、密やかに3通の手紙をしたためた。

 封蝋には、深紅の薔薇の刻印。宛名はそれぞれ、王子アレクシス、宰相の息子であり補佐官のユリウス、そして若き騎士ライナルト。


 手紙にはただ一行。

「今夜、私の部屋に来なさい」


 それは呪いにも似た誘いだった。




 アレクシスは、廊下を歩きながら胸の奥の鼓動を抑えきれずにいた。

 足音が石の床に響くたび、焦燥と興奮が混じり合う。

「これが夢でなければ、俺は……」

 口の中でつぶやき、己を戒めるが、彼の心はすでに金蓮の掌中にあった。


 ユリウスは水色の髪と目、同様に冷静だった。

 宰相の息子として、常に一歩引いた視点を持つ彼は、手紙を読み返しながら唇を歪める。

「1歩間違えれば命取り……だが、あの女の笑みの裏にあるものを、この目で確かめたい」

 理性と欲望。天秤が、きしむ音を立てて傾いていく。


 そして、ライナルト。

 彼は鎧の留め金を外しながら、無意識に拳を握っていた。

「俺は……ただ守るだけでいいのか?」

 忠誠と恋情の狭間で揺れる若い心は、答えを見つけられないまま、闇の中を進んでいった。




 やがて3人がローゼマリーの部屋へ足を踏み入れると──

 そこには、すでに王・レオポルド四世の姿があった。


「陛下……!」

 驚愕に目を見開く三人を、金蓮はゆるやかに振り返る。

 香炉から漂う白煙が、まるで蜘蛛の糸のように3人の運命を絡め取っていく。


「本日は、少し変わった遊びをいたしましょう」

 金蓮は微笑んだ。

 その笑みには、慈愛も、狂気も、そして絶対的な支配の色があった。


「これは、“人間椅子”という遊戯ですわ」


 王は面白そうに目を細め、低く笑う。

継母ハハの言う通りにせよ。跪け、息子たちよ」


 アレクシス、ユリウス、ライナルトはためらいながらも床に手をつき、王の命ずるまま膝を折った。

 金蓮はその背中へ静かに足を伸ばし、爪先で軽く触れる。


 その瞬間、空気が変わった。

 香の煙が一層濃くなり、3人の理性を鈍らせていく。


 王子は嫉妬に胸を灼かれた。

 自分の婚約者だった女が、父の前で微笑んでいる。しかも、同じ場に他の男たちまで。

 屈辱と興奮が、彼の血を熱くする。


 ユリウスは冷静さを保とうとするが、金蓮の視線が彼に触れるたび、体が熱を帯びる。

 「……計算通りにはいかない。彼女は、俺の理性ごと呑み込むつもりだ」

 唇の裏で呟き、噛みしめた歯の隙間から息が漏れた。


 ライナルトは目を伏せたまま、拳を固く握りしめる。

 ──守りたい。だが、守るという言葉ではもう足りない。

 胸の奥で、名もなき感情が爆ぜた。


 金蓮はそんな男たちの内側を見透かすように、ただ静かに微笑んだ。

 その指先が髪をかすめ、声が囁く。


「いい子たちね」


 触れずとも、彼女は支配した。

 香と視線と沈黙だけで、彼らの心を絡め取っていく。

 そして嬌声が夜の闇に溶けた。





 翌朝、宮廷の回廊に、柔らかな陽光が差し込んでいた。

 ローゼマリーは何事もなかったかのように歩く。

 白いドレスが、朝の光を受けてゆらめくたび、すれ違う侍女たちが無意識に頭を下げた。


 だが、アレクシスもユリウスもライナルトも、まともに彼女を見られなかった。


 アレクシスは唇を噛む。

「俺の婚約者だったのに……」


 ユリウスは額を押さえ、低く唸る。

「くそ……あの笑顔に、まんまとやられた」


 ライナルトは胸の奥で、未だ名付けられぬ感情と戦っていた。

「……俺だけが、守れるはずなのに」


 金蓮はそんな3人の視線を一瞥し、花が開くように微笑む。

 そして、誰にも聞こえぬほどの声で、ただ1言。


「おはよう」


 その瞬間、3人の心は再び彼女の手の中へと堕ちていった。

 王も、王子も、宰相の子も、騎士でさえも──

 彼女の微笑ひとつで、すべてが再び狂い出す。


 金蓮は静かに歩み去る。

 その背に、甘く危うい香が残り、宮廷の空気すら酔わせていた。





 翌日、宮廷はいつも通りの華やかさに包まれていた。

 だが、その光の中で息づく男たちの心は、すでに昨夜の影を引きずっている。


 アレクシス、ユリウス、ライナルトの視線は、無意識にひとりの女へと吸い寄せられていた。


 側妃ローゼマリーとして微笑む彼女は、今日も柔らかな声で侍女たちに指示を与え、紫のドレスの裾を揺らして歩く。

 だが、その姿には、誰にも気づかれぬほどの挑発が潜んでいた。





 アレクシスは書類に目を落とそうとした。

 だが、視界の端に映るローゼマリーの仕草が、理性を焼き尽くす。


「……落ち着け、俺は王子だ。理性を失うな」


 そう言い聞かせても、心の奥に蘇るのは昨夜の光景。

 熱と香と、囁きと彼女の手のぬくもり。

 胸が締めつけられ、手が震える。

 一瞬、ローゼマリーと窓越しに視線が交わった。

 その瞬間、理性は音を立てて崩れ落ちた。




 ユリウスは冷静を装う。

 政治の場では誰よりも聡明な彼が、今やただの1人の男に成り下がっていた。


「……計算できない。理性までも、彼女の手の内にある」


 昼下がりの笑み。

 ワインを注ぐ手。

 光の中に浮かぶ横顔。

 どれもが彼を狂わせる。

 誇り高き理性が崩れ、ユリウスは思わず顔をそむけた。

 それでも、胸の鼓動は止まらない。




 ライナルトは訓練場にいても、剣の軌跡が揺らぐ。

「……守るだけでいいはずなのに、どうして……」

 忠誠の誓いが、嫉妬に塗り替わっていく。

 彼は己の心を恥じながらも、胸の奥で熱を押さえきれなかった。




 金蓮は、その全てを知っていた。

 侍女に微笑むふりをしながら、男たちの視線が背中を這うのを楽しむ。

 言葉はいらない。

 笑みだけで、彼女は3人の精神を支配していた。


 昼の宮廷では、秩序も礼節も崩れはしない。

 だが、男たちの胸の奥では確実に、“支配されたい”という快楽が芽生えていた。




 長い食卓に並ぶ銀器が光を放つ。

 ローゼマリーは微笑を絶やさず、ワインを注いだ。


 それだけで、空気が震える。


 アレクシスは咳払いをして平静を装う。

 だが、指先の震えが止まらない。


 ユリウスはグラスを握り、頬が赤く染まる。

 冷静な頭脳は、すでに炎に溶けていた。


 ライナルトは思わず剣の柄に手をかけた。

 それは防衛ではなく、衝動の証。


 ローゼマリーの笑みは静かで、穏やかだった。

 だが、男たちの理性を崩すには、それだけで十分だった。




 紫のドレスの裾が風に踊り、花々の間を揺れる。

 金蓮は花壇の前で、髪を指に絡めた。

 陽光に照らされるその仕草に、3人の男はそれぞれ遠くから息を呑む。


 ──見ることすら、罪のように思えるほどに美しい。


 だが、夜はまだ始まっていなかった。




 夜半。

 後宮の廊下に、ひそやかな足音が響く。


 ローゼマリーの部屋の扉が、静かに開いた。

 蝋燭の灯りがゆらめき、彼女の白い肌を金色に染める。


「……今宵も、お越しくださる?」


 その声に導かれるように、アレクシス、ユリウス、ライナルトは部屋へ足を踏み入れた。



 ローゼマリーの微笑を見た瞬間、王子は息を飲んだ。

 昨夜の記憶が蘇り、体が熱を帯びる。

「……今日も、夢のようだ」

 その呟きに、彼女はただ指先で頬を撫でた。

 その一瞬で、王子の理性は焼き切れた。



「俺だけを、見ていてほしい」

 ユリウスは心の奥で叫ぶ。

 だが、ローゼマリーは答えない。

 代わりに微笑み、指先で彼の手を取る。

 それだけで、思考は途切れ、ただ熱に沈んでいく。



「……守ることが、こんなに苦しいなんて……」

 ライナルトはローゼマリーの前で跪いた。

香が漂い、蝋燭の光が彼の頬を照らす。

 ローゼマリーの声が頭の中に流れ込む。

「お前は、忠実ね。愛しいほどに」



 金蓮はゆるやかに立ち上がり、3人を床に手をつかせる。

 その背に足を乗せ、低く囁いた。


「お楽しみは、まだ始まったばかりよ」


 娼婦でも真似できぬ艶やかさ。

 声、仕草、沈黙──すべてが支配の道具となり、3人の理性を溶かしていく。

 しかし、自分のモノにはならない。彼女の傍らには、そう、国王がいるのだから。


 そして城の夜は、金蓮という名の女のためだけに存在していった。




 朝日が差し込む頃、ローゼマリーは静かに宮廷を歩いていた。

 まるで昨夜の狂気など存在しなかったかのように。


「おはよう」


 その声に、3人の男は一斉に顔を上げた。

 そしてまた、心を奪われる。


 昼も夜も、理性も秩序も、もはや意味をなさない。

 宮廷はすでに、金蓮の掌の上。

 その微笑ひとつが、王国の運命すら動かしていた。








 王宮の正殿――玉座の間。

 重厚な天蓋の下、レオポルド四世が静かに座していた。だが、その表情は氷のように冷たく、沈黙の奥に怒りが潜んでいる。


「……アレクシス殿下の帳簿に、不審な支出があるとの報告がありました」


 宰相の声が静寂を破る。

 廷臣たちがざわめき、王子アレクシスは眉をひそめた。


「何の真似だ、宰相」


「これは、カステル男爵──すなわちミレーユ様の父より提出された告発状です。殿下が“ある高貴な夫人”のために、王家の予算を私的に流用していると」


「馬鹿な!」


 アレクシスが勢いよく立ち上がる。

 だが、王は手を上げて制した。


「その“ある夫人”とは誰だ」


 宰相は一拍置き、重く告げた。


「ローゼマリー様。現在、陛下の側室にございます」


 玉座の間が、一瞬で凍りついた。

 誰もが息を呑む。アレクシスの瞳が揺れ、ユリウスの指先が震えた。


「……ローゼマリー、か」


 王の声は低く、底知れぬ怒りを孕んでいた。


「さらに、彼女の部屋には夜な夜な男が出入りしているとの報告もございます」


「誰だ」


「……記録によれば、騎士ライナルト・シュタイン殿が、複数回、深夜に部屋を訪れていたと」


 その瞬間、場の空気が一層張り詰める。

 アレクシスは愕然とし、ユリウスは眉をひそめた。

 カステル男爵は、唇の端をゆがめて微笑んだ。


「ライナルト、前へ」


 王の命令が響く。

 白銀の鎧が、石床の上で鈍く鳴った。

 ライナルトは静かに進み出ると、玉座の前で片膝をつき、低く頭を垂れた。


「……陛下。すべて、私の不徳の致すところにございます」


「何をした」


 王の声は、怒りを抑え込むように低く震える。


「……私は、ローゼマリー様に……強引に迫りました。……愛人関係にございます」


 玉座の間が、爆ぜるように騒然となった。

 廷臣たちは顔を見合わせ、息を呑む。

 アレクシスは顔を引きつらせ、ユリウスは目を伏せる。

 ローゼマリーの弟フィンは拳を握りしめ、唇を噛みしめた。


 王はゆっくりと立ち上がり、ローゼマリーを見据えた。


「妻よ。これは真か?」


 ローゼマリーは一歩前へ進み、静かに裾を持ち上げて頭を垂れた。


「陛下。私は、ただ守られていただけですわ。……彼がそう言うのなら、きっとそうなのでしょう」


 その声音は柔らかく、だが何よりも冷ややかだった。

 否定も肯定もせず、ただ相手に“信じたいもの”を信じさせる術を心得た女の声。


 王の瞳が怒りで揺れる。


「女狐め……!」


 拳が玉座の肘掛けを叩き、鈍い音が響いた。

 だが、金蓮は微笑を崩さない。


「陛下が私を愛しておいでなら、私もその愛に報いましょう。

 けれど、陛下が望まれるのは、私の心ではなく……この身だけではなくて?」


 その一言に、玉座の間の空気が変わった。

 王の顔が歪む。怒り、嫉妬、羞恥、そして──抑えきれぬ欲望。


「……下がれ。全員、下がれ!」


 王の怒号に、廷臣たちは慌てて退く。

 扉が閉じられ、広大な玉座の間には、王と金蓮だけが残された。


 重苦しい沈黙の中、金蓮はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。


「陛下。……今宵は、長い夜になりそうですわね」


 その声に、王の瞳が炎のように揺らめいた。

 そして、王宮の夜は、怒りと欲望の入り混じる熱を帯びていった。






 城の夜は、静寂と緊張に包まれていた。

 玉座の間での騒動から数時間後、金蓮の部屋には、香炉の煙がゆるやかに揺れていた。


 春梅は茶器を並べながら、ちらりと主を見やる。

 金蓮は窓辺に立ち、夜の庭を見つめていた。月の光が白い肌を照らし、まるで神殿の像のように静かだった。


「……騎士様、庇ってくださいましたね」


 春梅の声は穏やかだったが、その奥に鋭い気配があった。


 金蓮は唇に微笑を浮かべたまま、ゆるやかに答える。

「ええ。あの場で私を守るには、あれしかなかったの。……でも、代償は大きいわ」


「王の怒りは、もう抑えきれません」


「だからこそ、決着をつけないと」


 春梅は手を止め、息をのむ。

 金蓮はゆっくりと振り返り、香炉の煙を指先でなぞった。


「彼は、私に溺れた。ならば溺れたまま沈んでもらうだけ」


 その言葉に、春梅の目が細められる。

 静寂の中、香の煙が、まるで運命の糸のようにゆらりと揺れた。


「……その後は?」


 金蓮は茶碗を受け取り、静かに口元へ運ぶ。

 淡い香りとともに、彼女の唇がわずかに震えた。


「私は誰のものにもならない。ただ、選ばせるだけ」


 春梅は苦く笑った。

「……転生者らしい、冷酷な選択ですね」


 金蓮は茶碗を置き、春梅の手にそっと触れた。

「私たちは、前世で旦那様の唯一になれなかった。

 だから今度は、選ばせるの。選ばせてから、壊すのよ」


 春梅はその言葉を噛み締め、深く頷いた。

「では、今夜の演出、整えてまいります」


 金蓮は柔らかく微笑み、月を仰いだ。

 香炉の煙が、静かに形を変えながら、夜の闇に溶けていった。




 王宮の夜は、次第に深く沈み込んでいた。

 だが、金蓮の部屋だけは、密やかな熱を孕んでいた。


 春梅は香棚の前に立ち、慎重に香材を選んでいく。

 白檀、沈香、そして微量の麝香。

 どれもが、王の感覚を鈍らせ、陶酔へと導くための計算された香だった。


「……香は、深く、重く。記憶を曖昧にし、欲望だけを残すもの」


 春梅は独り言のように呟き、香炉に粉を落とす。

 火箸でそっと火を入れると、淡い煙が立ちのぼり、部屋の空気が静かに変わっていく。


 次に、衣の準備。

 金蓮が纏うのは、白と金を基調とした薄衣。

 肌を透かすほどの軽さでありながら、王宮の格式を失わぬ繊細な刺繍が施されている。


「……肌を見せるのではなく、見せる“予感”を漂わせること」


 春梅は衣を整え、寝台の上にそっと置いた。

 その手つきには、芸術家のような正確さと、仕える者としての誇りが宿っていた。


 侍女たちには、すでに退室の命を出してある。

 今夜、金蓮の部屋には誰も入らない。

 扉の前には、春梅が信頼する近衛兵が立つ。

 彼らには「王の命令により、誰も入れるな」と伝えてある。


「……誰にも邪魔はさせない。今夜は、金蓮様の“舞台”」


 最後に灯りの配置。

 蝋燭は十本。黄金の燭台に立てられ、部屋の四隅と寝台の周囲に置かれる。

 炎は柔らかく、影を深くする。

 それは、王の視界を曖昧にし、金蓮の輪郭だけを浮かび上がらせるための演出だった。


 春梅は部屋を一巡し、すべてが整ったことを確かめると、香炉の前に立ち、深く一礼した。


 そして、静かに呟く。

「演目は整いました。あとは――主役が舞台に立つだけです」


 扉を閉じる音が、夜の静けさに溶けた。

 その夜、王宮の空気は、誰も知らぬままに、甘く、危うい香に満たされていった。




 王の足音が、静まり返った廊下に響いていた。

 蝋燭の灯がゆらぎ、壁に映る影が長く伸びていく。

 夜の宮廷は、まるで誰かが息を潜めて見ているかのように、静寂の奥でざわめいていた。


 扉の前で、国王は1度だけ深く息を吸う。

 怒り、羞恥、そして欲望。

 それらすべてを押し殺し、ただひとりの女のもとへと歩みを進めた。


 扉が開く。


 白と金の薄衣をまとい、香の煙に包まれた金蓮が、寝台の傍らに立っていた。

 その姿はまるで夢の中の幻。

 彼女は静かに頭を垂れ、唇をわずかに弧にする。


「ようこそ、陛下。お待ちしておりました」


 低く、甘く、底なしの井戸のように深い声だった。

 王は答えない。ただその姿に目を奪われ、足を一歩、また一歩と進める。


 部屋の空気は濃密だった。

 香の匂いが意識を霞ませ、蝋燭の光が金蓮の輪郭を浮かび上がらせる。

 肌の白と影の黒が、現実と幻想の境界を曖昧にしていく。


「お怒りでしょうか?」


 金蓮が静かに問う。

 レオポルド四世の唇は動かない。だがその瞳には、怒りではなく焦燥と渇きが宿っていた。


「……私が、誰かに抱かれたと思っておいでですか?」


 その1言が、王の胸を射抜く。

 わずかに眉が動く。

 金蓮はゆっくりと近づき、王の胸元に手を添えた。


「ならば今宵、確かめてください。

 私のすべてが、陛下のものかどうかを」


 その囁きは、理性という名の鎖を断ち切る音だった。

 王はもう抗えない。

 彼女の手に導かれるまま、寝台へと進む。


 香の煙が濃くなる。

 世界が溶けていくように、視界も時間も、熱も曖昧になっていった。


 金蓮は王の上にまたがり、微笑んだ。

 その瞳には、恐れも情もなく、ただ深い決意だけがあった。


「陛下。今宵は、私が導きます」


 それを最後に、言葉は消えた。

 蝋燭の炎が揺れ、香の煙が天井へと昇る。

 王の呼吸が荒くなり、手が金蓮の腰を掴む。

 金蓮はその手をそっと撫で、耳元で囁いた。


「……陛下、もっと」


 その瞬間、王の瞳が大きく見開かれ──

 次の刹那、全身の力が抜け落ちた。


 金蓮は静かにその体を寝台に横たえ、衣を整える。

 蝋燭の光が彼女の頬を照らす。

 唇がかすかに動いた。


「……終わったわ」


 扉が音もなく開く。

 春梅が現れ、深々と一礼した。


「お見事でした」


 彼女は窓を開ける。夜風が流れ込み、香の煙をさらっていく。

 月光が静かに降り注ぎ、部屋を白く照らした。


 金蓮は微笑む。

 だがその笑みは、勝利のそれではなかった。

 すべてを見通した者だけが持つ、静かな諦念と覚悟の色を帯びていた。





 翌朝。

 宮廷に響いたのは、絶叫だった。


 王が、急死したのだ。


 誰もが震え上がり、誰もが口を閉ざした。

 だが、密やかな噂だけが生き延びた。


 ──ローゼマリーに抱かれて果てたのだ、と。




 王の死は、国そのものを揺るがせた。

 後継を巡って王子たちは互いに刃を向け、貴族たちは派閥を割って争いを始める。

 その中心に、いつも1人の女がいた。


「ローゼマリーを得る者が、この国を得る」


 その噂は、やがて国境を越えた。

 隣国の使節たちまでもが、彼女に謁見を求める。

 彼女を娶れば、戦わずしてこの国を手にできると信じて。


 こうして、ひとりの女を巡る争いが幕を開ける。

 ローゼマリー争奪戦。


 それは、王の死よりも遥かに長く、血と香と欲の渦の中で続くことになる。




 宮廷の大広間には、王子たちの声がこだまし、討論の熱気で壁の装飾までも霞んで見えるようだった。


 第1王子アレクシスは、かつてミレーユの婚約者であった。母后の後ろ盾を得て、正統な継承権を掲げ、玉座への道を切り開こうとしていた。

 一方の第2王子は、武人貴族を味方につけ、剣による即位を望む。

 だが、どちらの声も、常に同じ問いによって打ち消される。


「ローゼマリー様は、どちらのもとに?」


 兵士も貴族も、王子たちも、誰もがそのひとことに心を乱された。

 王位継承の争いは、いつしか「ローゼマリーの寵愛を得た者の勝利」という形に変わっていったのだ。




 アレクシスは表向き、優雅に微笑みながら母后と連携し、王の遺志や国の安定を語る。

 だが、その瞳の奥には冷たい計算が光っていた。

 彼は密かに側近たちに指示を送り、ローゼマリーの信頼を得る者を洗い出させる。

 宴の席では、彼女の好みや習慣をさりげなく褒め、周囲の注意を逸らす術まで駆使した。


 第2王子も黙ってはいなかった。

 武人貴族を引き連れ、夜ごと密談を重ね、剣の腕と忠誠を誇示する。

 力こそ正義、と豪語しつつ、彼は暗にアレクシスの影を牽制した。

 彼らの策略は表面上の言葉だけでは測れない。

 宮廷の隅々まで情報網を巡らせ、忠誠心と疑念を巧みに操る戦いが、水面下で進行していた。






 地下に幽閉されたままのミレーユは看守を通して国母に救いを求めるが失敗。

 すでに彼女は王によって実権を奪われていた。

 絶望に沈むミレーユの元に、フィン・フォン・ヴァルシュタット公爵令息が現れた。

 眉をしかめ、苛立ちを隠さぬ声で言う。


「酷いじゃない」


「どうしたって?」


「1度も様子見に来ないで! 裏切り者! あんたもどうせ金蓮に骨抜きにされたんだ」


「そうだけどさ……」


「どうしたのよ?」


「オレも転生者だ。金瓶梅の……」


 告白の途端、ミレーユは一瞬言葉を失った。

 この世界での彼らの存在もまた、宮廷の駆け引きを複雑化させる要因となっていた。


「君は一体誰なの?」


「私? 私は李瓶児リヘイジ。第6夫人よ」







 宰相は冷静にその渦を見下ろしていた。

 彼は密かにローゼマリーへ接触し、財政の立て直しを名目に庇護を申し出る。

 商人たちも、彼女の一言で国の方針が変わると信じ、宝石や絹を山のように届けた。

 日ごとに増える贈り物と手紙は、廊下を埋め尽くし、まるで宮廷全体が彼女の周りで動いているかのようだった。






 隣国からの使節団が到着した。

 表向きは弔問のためであったが、実際の目的はただひとつローゼマリーに会うこと。


「彼女を王妃に迎えれば、戦わずしてこの国を支配できる」


 その噂は国境を越え、火種のように広がった。

 外交官たちは眉をひそめつつも、目を輝かせて使節団の行方を追う。





 ある夜、宮廷の舞踏会。

 壇上に姿を現した金蓮は、白い衣を纏い、黄金の燭光に照らされて微笑んだ。


 その笑みだけで、場内の男たちは息をのむ。

 互いに敵意を帯びた視線を向けるが、その視線の中心には常に彼女がいた。


「私は誰のものでもございません。

 ただ……強く、美しくあろうとする方の隣に立つだけ」


 宣言ではなく、挑発でもなく、誘いかけるようなその言葉は、男たちの策略や野望をさらに煽った。

 誰もが「自分こそがその者だ」と思い込み、宮廷内の暗闘はより一層激化していった。




 こうして、ひとりの女の微笑ひとつで、国境を越えた火種は瞬く間に広がった。

 宮廷の策略、王子たちの駆け引き、隣国の野心──

 すべてが渦となり、戦火の序曲は静かに、しかし確実に奏でられ始めた。


 ローゼマリー争奪戦。

 その幕は、まだ開いたばかりだった。







□完結□






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