プロローグ 平穏に見えて不穏
「わー、イリーナそんなところでおしっこしちゃだめだよ!」
アリサが慌てた声で叫ぶのが聞こえる。それは増設されたイリーナというか子供部屋の方からだった。
アリサがいる間は彼女がイリーナの面倒を見ると買って出ていて、その報酬というかイリーナに与えられた部屋は二人がゆったりと過ごせるくらい広いスペースで作られている…………それはそれとして不穏な単語に僕は立ち上がった。
「アキは大人しくしてなさい」
けれどそれをテーブルの向かいに座っていたマナカに押し留められる。
「え、でも」
「そういう世話も含んで請け負ったんだからアリサの仕事よ…………それともあの子と一緒にあの魔族のまたぐらを拭いてやりたいの?」
「…………そういうわけじゃないけど」
そんな言い方をされると否定するしかなくなる。僕としてはイリーナに対して責任があるから今の悲鳴を聞いてアリサに押し付けるのも抵抗があるだけなのだけど。
なにせイリーナをあんな状態にしてしまったのは僕なのだから。
「何度も言うけどあんたの気にするような話じゃないのよ」
「気にするよ」
「襲ってきたのはあいつであんたは町を守っただけなの…………責任があるとしたらむしろ私の方よ」
確かにそれはその通りではあった。イリーナはマナカを狙ってやって来たわけで彼女がいなければ町を襲われることはなかったのだ…………しかしそもそもはイリーナが自分の意思でマナカを狙ったわけで、ある意味彼女の自業自得ともいえる。
だけどそれで僕は済ませられない。
「責任は僕にもあるよ。元の原因が何であろうがイリーナをああしたのは僕だ」
はっきり言って僕は特定の異性を惹きつけるという自身の魅力を疎んでいる。それは前世の死因の原因であるし、現状の僕の複雑怪奇な人間関係の要因でもあった。
それなのにその魅力を僕は意識的に使ってイリーナを篭絡し…………結果として彼女の心を壊してしまった。疎んでいたはずの力を僕は便利に使ったのだ。
もちろんあの状況ではやむを得ない判断だったとは思う…………けれどそれでもイリーナに悪いことをしてしまったという気持ちが僕の中にはあるのだ。
「頑固ね」
「これは多分僕が逃げちゃいけないことだと思うんだよ」
そうでないと僕は自身にあるこの魅力を武器と認識してしまうかもしれない。それこそ前世で悪いホストがしていたようなことを僕がやりだしたら…………一体どうなってしまうかはあまり想像したくないことだった。
「アキ君のそういうところ、お姉さんは好きよ」
少し離れたところに座って僕らを見守っていたノワールさんが不意に呟いて微笑んだ。
「えっと、ありがとうございます」
「うふふ、アキ君は可愛いわね」
思わず顔を赤くする僕にノワールさんはますます楽し気に微笑んだ。
「あ、こら! まだ駄目だって!」
不意にアリサの大きな声がまた聞こえ、次いで扉が開く音が聞こえる。
「アキ!」
そしてすぐに褐色肌の無邪気な笑みを浮かべた女性が僕の元へと駆け寄って来る…………下半身に何も身につけていない状態で。
「アキ! アキ! アキ!」
迷うことなく僕に抱き着いてイリーナが繰り返す。魔王の命令と僕への行為の板挟みで壊れてしまった彼女は言葉すらもほとんど忘れてしまって会話すらままならない状態だ。
一応僕の名前といくつかの単語は覚えてくれたのだけど、それでもほとんど会話になることはなく僕の名前を呼ぶ感情で今の心境をアピールすることが多い…………今の感じだと僕に助けを求めるような声色でアリサの方を指さしているから、彼女に虐められているから助けて、とかそんな感じだろうか?
「まだパンツ履いてないでしょ!」
そこへ怒った声でパンツを振り上げてアリサがやって来る。
「アリサ、はしたないわよ」
それをマナカがしかめっ面でたしなめる。状況を考えれば仕方のないことだとは思うのだけれど、確かに客観的に見ればパンツを振り上げながら走って来る姿というのははしたないなんてものじゃない。
「でも!」
「でも、じゃないわ」
反論しようとするアリサをマナカは目線で押さえつける。アリサからすれば自分を正当化する要素は揃っている…………しかしそれを口にすることもマナカは許さなかった。
「あなたはイリーナの面倒を見ることを条件にこの家に滞在することを許されているの…………その条件を受け入れる時にあなたは自分が彼女のお姉ちゃんになってあげるってアキに自信満々で宣言したわよね?」
「…………それは、したけど」
「姉になるってことは妹の見本になるってことよ…………今の振る舞いは見本としてふさわしかった?」
「…………ふさわしくない」
「理解したなら次は気を付けなさい」
しゅんとするアリサを確認するとマナカは次にイリーナへと視線を向ける。
「で、次はあなたよ。イリーナ」
厳しい声に僕の胸元でイリーナがびくりと震える。
「あなたはあなたでちゃんとアリサの言うことを聞きなさい。言葉は理解できなくても自分が何をしてしまって怒られているのかくらいは理解できてるわよね? 私はあなたが理解できないことを盾にして、それでアキに甘えていることもちゃんと気づいているからね」
「ええとマナカ…………」
「アキはその子を甘やかしすぎなの…………このままだと全く成長しないわよ?」
「それは困るけど…………」
しかしどうにも僕の罪悪感とイリーナの無垢さが入り混じって彼女を強く叱りづらい。今も僕を子犬のように見上げている姿に思わず庇いたくなる。
「アキ君、流石にマナカの言葉にも一理あると、思うわよ?」
「…………そうですね」
しかしそこにノワールさんが口を挟む。それは僕の引けそうな背中を押すような見事なタイミングだった。
「イリーナ、ちゃんとおしっこはトイレでしなきゃ駄目だしパンツもちゃんと履かないといけない…………それにアリサから逃げちゃだめだよ。彼女だってイリーナのためを思って怒っているんだから」
「…………うー」
僕の言葉を理解しているのかいないのか、しかし怒られているのことはわかるのかイリーナは悲し気に俯く。
「ちゃんと綺麗にしたらみんなでおやつを食べよう…………だから今は行って」
「あうー」
僕が軽く彼女を押すとイリーナは諦めたようにアリサの元へとトボトボ歩いていく。哀愁を誘う姿ではあるがここは我慢するしかない。
「ほら、行くよ。アリサも強く言いすぎたことは謝るから」
「…………うー」
小さくアリサが謝罪するとそれはイリーナにも伝わったのか、彼女の差し出した手を取ってイリーナは部屋へと戻って行く。
「全く手間がかかるわ」
「…………あはは」
「笑い事じゃないわよ。私だってずっとこの島にいられるわけじゃないんだから不在の時はアキがちゃんと…………」
不意にマナカの言葉が止まる。
「どうかした?」
「…………」
困ったような、面倒な事態に陥ったような表情を浮かべて来た。
「ちょっと外で念話してくる」
そしてまるで前世で急に電話がかかってきた人のように、彼女は外へ出て行った。
二章開始となります。一章よりはのんびりと進めていく予定です。
お読み頂きありがとうございます。
励みになりますのでご評価、ブックマーク、感想等を頂けるとありがたいです。




