七十三話 最善であっても残酷な行為
「イリーナ」
彼女の名前を呼ぶ。それは今日知り合ったばかりの敵であったはずの少女の名前だ。それがわかっていたはずなのに僕は彼女に情を抱いてしまったし、彼女にも抱かせてしまった。
だから全ての責任は僕にあって、それを放棄したまま二人に殺し合いをさせるわけにはいかない。
「アキ、無駄よ」
マナカが僕に声をかける。
「そいつには自我はもう残ってない。命令を遂行するのに邪魔なものは消されてしまったのよ」
イリーナは僕に好意を抱いていて、その好意が魔王の与えた命令の邪魔になる。だから消されてしまったのだとマナカは言う…………だけど僕はそうは思えない。そもそも魔族が自我を持つのはそれが必要なものであるからだ。
魔族がただ魔王の命令をこなす人形のような存在であればその行動には融通が全く利かないということだ。極端な話魔王の性格や思考の方向性を読み切ってしまえば容易に対処ができるようになってしまうだろう…………だから魔族には自我がある。命令を遂行するためにその行動を自分で考え工夫することのできる自我が。
「まだ可能性はあるよ、マナカ」
だから僕はそう答えてマナカの前に出る…………ああ、本当に情けないと自分で思う。僕がこうして前に出られるのは自分に危険がないことがわかっているからだ。例え僕の考えが間違っていてもノワールさんが僕の身の安全だけは確保してくれる。そんな保証がなければきっとこんな勇気は絞り出せなかった。
「イリーナ」
僕はもう一度彼女に声をかける。そもそもイリーナの自我が完全に消えてしまったというのならもう僕らは彼女に襲われていないとおかしい。だからこうしてイリーナがまだ襲っていないことそれ自体が彼女にまだ自我が残されている証左だと思う。
そもそも魔王の命令優先にしたって考える頭は必要なのだ。だからイリーナは自我を抑制されているのではなくて感情を抑制されているのだと僕は思う…………感情さえ抑制してしまえば、物事の優先順位はあらかじめ設定されている魔王の命令が最上位になるのだから。
「もう一度、僕の話を聞いて欲しい」
だけど、それならば僕はその抑えられている感情を刺激すればいいだけだ。僕の魅力とやらは感情を固定していたはずのマナカですら抑えきれなくなったんだから、十分にイリーナの感情が押し勝つ可能性はある。
「僕の顔を見て、声を聞いてくれないかな…………僕は君に殺されたくないし、君に死んで欲しくもない」
正直いくら説明されても未だに僕は僕自身の魅力というものを理解出来ていない。しかしそれがあるというのなら僕にできるのは自分自身をアピールすることだけだ。僕を見て、僕の声を聞いて、僕という存在を感じてもらうことだけ…………だから僕は前に出る。イリーナへと近づいていく。
「アキ!」
「マナカはそこでじっとしていて」
「そんなことできるわけ…………」
「頼むよ」
振り返り、懇願するように僕が見るとマナカは押し黙ってくれた。死ぬ危険はない。ノワールさんを僕は信じる。今の僕に必要なのは笑顔だ。彼女の感情をより昂らせるような笑顔。僕にある魅力とやらで魔王の命令をぶち破る。
「あ、あ」
明確に、イリーナが僕に反応しているのがわかる。感情の消えたその顔はしかし助けを求めるように口を空けてぱくぱくと動いていた。声にならない声を、その内側に押さえつけている感情の出口を求めるように。
「大丈夫、僕だけを見て。僕の声だけを聞いて」
魔王ではなく、僕を見て欲しいと僕は訴える。それに苦痛に歪ませるようにイリーナが顔をしかめた。イリーナが魔王の命令に強く抵抗しているのか、それともそれを感じた魔王がより強い命令を下したのか…………いずれにせよ僕にできるのはイリーナに僕の存在を訴えかけることだけだ。
「ねえ、イリーナ」
目の前に立ち、そっと僕は彼女の手を取る。抵抗はなかった。きっと抵抗しようとはしたのだけど、イリーナの感情がそれを抑えたのだと僕は思う。
「正直に言えば僕は君をよく知らない…………だけど、だからこそ僕はこれから君を知りたいと思っている。だけど僕が知りたいのは今の僕じゃなくて、その内側にいる君なんだ。誰かに命令されてただそれに従う君を僕は見たくない」
僕には責任がある。イリーナという存在を歪めてしまった責任が。だから彼女にはここで死んで欲しくない。今自分で口にした通り、彼女のことをこれから知って僕はイリーナが幸せに生きられるようにする責任があるのだから。
「だからお願いだ、君を縛ろうとするものに抵抗して欲しい…………そしてどうか打ち勝ってくれ。僕は君が自由になることを応援しているから」
懇願するように僕はイリーナへ言って、その手を強く握る。
「あ、あああ…………がぁっ」
苦痛の呻きを漏らしてイリーナが僕の手を振り払う。しかしそのまま僕を襲うこともなくかきむしるように自分の顔を両手で覆った。そのまま苦しむように身を屈める彼女に僕は手を伸ばそうとしたけれど、不意に肩を掴まれて背中を引かれる。
「危ないわ」
「…………僕は大丈夫だよ」
過信ではなく確信している。ノワールさんが僕を傷つけさせることはないと。
「アキが大丈夫でも、攻撃したというその事実があいつの心を折るわよ」
「っ…………それは」
その可能性を僕は考えてはいなかった。しかしそうかもしれない。いくら僕が怪我をせずとも危害を加えようとしたのは事実なのだ。それ自体にショックを受ける可能性はゼロじゃないだろう…………そしてそのショックは魔王の命令へと対抗する心を折るかもしれない。
「アキにできるのはもう、あいつを見守ってやることだけよ」
「…………がんばれ」
それしか僕にできることがないのなら、僕はそれをするしかない。
「頑張れ、イリーナ」
魔王の命令なんかに負けてくれるなと、応援するだけだ。
「…………正直に言えば、いくらアキの願いだからって私は魔族を生かしたくなんてないのよ」
そんな僕へと本音を漏らすようにマナカが呟く。
「今のこの瞬間にも止めを刺してやりたいと思ってる」
けれどその言葉とは裏腹にマナカは動かない。
「ただそんなことしたら絶対にアキは悲しい顔すんのよ…………それは嫌なの」
「マナカ…………」
「だから」
睨みつけるようにマナカは苦しみ悶えるイリーナを見る。
「絶対に、アキを悲しませんじゃないわよ…………悲しませたら殺すから」
それはマナカなりの、敵である魔族に対する最大限の激励だった。
マナカはそれ以上何も言わなかった…………でも、それだけで僕には十分だった。
やがてイリーナの上げていた苦悶の声が止まる。
「イリーナ?」
尋ねる僕に、彼女は顔を上げた。
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