大悪魔ラウム
下降していた白い円卓が、奈落のさらに深部へと到達する。
そこは、もはや地上の概念とはかけ離れた異空間。
上も下もない闇の中、ただ一か所だけ、瘴気が渦を巻き、闇を裂いて佇む影がある。
大悪魔ラウム──。
人型に近いが、その肌は漆黒の黒曜石のように艶やかで、
全身から禍々しい瘴気を発し、背後には幾重にも折り重なった
蝙蝠の被膜のような翼。翼の輪郭すら闇に溶け、
まるでそこに「存在してはならないもの」が生まれてしまったかのようだった。
赤く燃える双眸が、ゆっくりと五人をなぞる。
「地上のエレベーターはすべてダミーだというのに……」
その低く、濁りのない声は、空間に溶け込むように響き、
耳ではなく脳に直接染み込んでくる。
「どうしてここに辿り着けるのか……。全員神器持ちの、変体済み。
しかも──大天使直属の精鋭か?」
その言葉の余韻が消えた刹那、奈落の空間はまるで
心臓が脈打つかのように脈動し、再び瘴気の渦が巻き上がった。
夏樹の怒声が奈落の闇を切り裂くように響いた。
「何を言ってるのかわからないのよ!」
瞬間、彼女は巨大な羽根付きハンマーを構え、
全力でラウム目掛けて飛び降りる。
その一撃は、神器の重さと天使の加護を帯び、
空気ごと空間を歪ませるような凄まじさを秘めていた。
だが──。
ラウムはただ、ふっと身体を傾けただけ。黒い外套がひるがえり、
巨大なハンマーは空を切った。床に叩きつけられた衝撃で、
奈落の床石が砕け散る。だが、ラウムの足元は微動だにしない。
「甘い」
嗤うように囁く声が響くと、次の瞬間──。
すでに志津香が飛び込み小太刀が闇の軌跡を描く、
背後では恵が呪文の詠唱を開始するーーしかし。
ラウムはその一瞬を余裕を失わず、片手を軽く振るだけで攻撃を受け止めた。
志津香の小太刀は甲高い金属音を残して弾かれ、
ラウムの曲刀が振り上げられた所で恵が光の鞭を回転させた。
「神聖加護、展開──ナース・ヴェール!」
恵の声が響き、天使たちを包むように淡い光が広がった。
看護師天使の特有魔術、防御神術の展開である。
だが──。
「……あっ……」
光は一瞬で砕けるように霧散した。
まるで最初から存在しなかったかのように、
奈落の瘴気に呑まれて消えていく。
「はっはっはっ……とんだ新米天使だな!奈落の瘴気下で、
神力構成比率も見極められんのか?」
頭上から聞こえるのは、冷たくも愉悦を含んだラウムの声。
その嘴がゆがむように、嘲笑の形を作っていた。
「う……うるさい……っ」
恵の頬が熱を帯びる。怒りか、羞恥か。失敗を見透かされ、
敵に笑われた屈辱。だが、それ以上に「護れなかった」自分への失望が胸を刺す。
「恵、悪魔の言うことなんて聞かなくていい!」夏樹が棒立ちとなった恵に声を掛ける。
ラウムは小さく息を吸い込んだ。
「もっと考えて攻めて来い。でなければ──ただの餌だ」
言葉と同時に、ラウムの足払いが立ち直る前の恵を襲う。
鈍い音と共に恵の身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
呻き声すら呑み込まれるほどの瘴気の中、その頭上に振り下ろされる黒い拳。
「させないっ!」
志津香が咄嗟に体当たりを仕掛けた。ラウムの体勢がわずかに崩れる。
その刹那──。
夏樹が再びハンマーを振りかぶり、渾身の力を込めてラウムの脇腹へ叩きつけた。
重い衝撃音と共に空気が震え、奈落の床が軋む。周囲の瘴気すら、
その衝撃に押し流されるように散った。
──だが。
ラウムの目は、まだ笑っていた。
闇の奥に燃える深紅の双眸。その視線は、まるでこの程度では
傷一つ負わぬと告げているかのようだった。
「まだまだぬるいわ」
ラウムは振り向きざま、鋭い爪を夏樹の肩口めがけて振り下ろす。
その爪は闇の中でわずかに光を反射し、確実に肉を裂く殺意を帯びていた。
だが──その瞬間。
視界の一角がふわりと霞んだ。
まるで空気の層が歪んだかのように、四分の一ほどの空間がぼやけ、
僅かな違和感が脳裏をかすめる。
──幻覚か?
ラウムは瞬時に警戒し、ちらりと視線を巡らせた。
奥に控える二人のうち、左側──紗耶香。
彼女は弓を構えてすらいない。ただ静かに、集中してこちらを見ている。
幻術かけたことを仲間に知らせることもしなかった。
仲間たちも、気づいた様子はなく、夏樹もひたすらハンマーを振り下ろすだけ。
──これでは、素人の寄せ集めではないか。
ラウムは一瞬、落胆した。
夏樹は明らかに実戦経験に乏しく、志津香も九院流の型にこだわり過ぎ、
神力の応用を知らない。これでは相手にもならない。
「力なきものは──ここで死ね」
踵を振り上げ、倒れた恵と志津香の頭上に叩きつけようとした、その瞬間。
「──っ!」
重力ごと地を叩き潰すかのような一撃は、しかし寸前で何かに弾かれた。
バシィッ!
鈍い音と共に、ラウムの脚が跳ね返される。
まるで見えない壁にぶつかったように、踏みつけるはずだった衝撃が、
空中で吸収される。
足元に、淡い青白い光が浮かぶ。
「……結界?」
ラウムの目が細まる。
足元に浮かぶ六芒星の中心、その光の中に──佐和子が立っていた。
紫の髪が、奈落の瘴気に溶けるようにゆらりと揺れる。
手には漆黒の槍。先端には濃密な神気が絡みつき、
まるで生き物のように蠢いていた。
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